終章
マーク・トウェイン
「全てが間違っているということはありえない。 どんな壊れた時計でも一日に2回は正しい 時刻を示す」
娘の死。それは、自分には関係なければ興味を持たない世間からしてみれば『不幸な出来事』と、一言で片付けることのできる、小さなものにすぎなかった。
源川香織にしても、彼女の娘、ゆみの死は、世間に特別扱いされることはなかった。ゆみの死の真相が明らかにされるまでは……。
香織の人生が狂い始めたのは、彼女が九歳の時のこと。両親が離婚し、当時六歳の妹は、母親に引き取られたが、香織は父親にも捨てられて、里子になった。
香織の里親となった夫婦は、初め、彼女に対してとても優しかった。物を壊しても、一日中黙っていても、彼女が里親に叱られることはなかった。
『ここは香織のお家。私たちは香織の両親なんだから、香織はここで、好きなことをしていれば良いんだよ』
香織が里親を本当の両親と思ったことは、一度もないが、彼女は中学三年生にもなれば、里親に反抗することもなくなっていった。里親に話しかけられたら、笑顔を浮かべるようにもなっていた。
彼女の変化を、里親は大変喜んだ。しかし、香織は里親を受け入れた訳でもなく、精神が成長した訳でもなく、むしろ、夫婦をますます拒絶し、彼女の心は衰退する一方だった。
香織の頭の中は、常に自分を捨てた両親のことで占拠されていた。彼女が里親に笑顔を向けるようになったのは、そうしていれば、お節介を焼かれることがなくなると気付いただけにすぎなかった。しかし、何を勘違いしたのか、おとなしくなったことを良いことに、香織が高校一年生になった時から、彼女の義理の母親は、彼女にセーラー服を着させて、売春させるようになった。
『男はみんな制服に若さを感じるの。だから、香織が男に声をかければ、客をたくさん呼ぶことができる』
最初はあくまでも、香織は客引きをやらされていただけだった。彼女が女性慣れしていなさそうな、子供相手でも話す時、若干おどおどしている客を家に呼び、暗い部屋の中で里親と入れ替わるという手口を何度も行っていた。
元々香織は容姿端麗なので、客を呼ぶのは造作なかった。彼女も里親が得る利益の三分の一は貰っていたので、特に里親に文句を言うこともなかった。が、ある日のことだった。
香織はいつものように、男を自宅の義理の母親の部屋に連れてくると、こっそり里親と入れ替わろうとした。しかし、部屋の扉の取っ手がびくともしない為、部屋から外に出ることはできなかった。
え?何で?え?おか……。お母さん出して!お願い早く……。
その後、香織が外に出ることができたのは、連れてきた男に犯された後のことだった。
『これからは香織が客の相手をするの。その分お金は半分あげるから、文句ないでしょ?』
その一件から、唐突に里親の香織に対する態度は悪くなった。暴力を振るうようになり、学校にはほとんど行かせてもらえず、下卑た男の相手をする日々が約一年続いた。
香織が売春を辞めさせてもらうきっかけとなったのは、妊娠だった。
香織は相手をした客の男の子供を身ごもった。里親はそのことを知ると、香織にまとまった金を渡し、彼女を家から追い出した。
『今までお世話になりました……』
香織が家を出て行く時、里親は露骨に嬉しそうにしていたので、初めからこの展開を期待していたようだった。
こうして、源川香織は両親も里親の愛も知らずに、娘のゆみを産んだ。が、子供が欲しかった訳ではなかった。ただ、おろすのに抵抗があったので、ゆみを生んだだけだった。
望んで生んだ訳でもないのに、愛情も知らない母親が、娘を愛することができる訳もなく、ゆみは十六歳という若さで、香織の手によって命を奪われた。
二〇一二年、八月十九日、日曜日。
午前六時。源川香織は和室に置かれた、ゆみの写真が飾られている仏壇の前で、携帯電話を耳にあてていた。
「おかけになった電話番号は、電波の届かない場所にいるか、電源が入っていません」
香織が電話をかけたのは、娘のゆみの親友だったという、山岸透の携帯電話。
もう電話に出ないということは、透君は本当に自首したのね……。
香織は虚ろな表情を浮かべて、手にした携帯電話を膝の上に置く。
山岸透が、ただならぬ決意を固めたような、真剣な顔付きでこのアパートを訪れたのは、昨日の午後一時のことだった。
香織が、借りている『201号室』の扉を開けると、透は『ゆみさんの部屋を見せて下さい』と言って、半ば強引に部屋の敷居を跨いだ。
『透君、ちょっと待って』
香織はゆみの部屋に、プリントや教材、瓶などが散らばっていることを知っていたので、部屋には足の踏み場がないことを透に伝えた。が、透はゆみの部屋には足を踏み込むことなく、隣の和室から部屋の中を数秒間覗いただけで、玄関口で突っ立っている香織の前まで戻ってきた。
『今年の一月、ゆみさんが薬を飲んで、倒れていたのは、トイレの前ですか?』
『ええ、そうよ』
香織が正直に答えると、透は両腕を震わせて俯いた。
『どうしてですか……』
『え……?』
『どうしてゆみさんに薬を飲ませたんですか?』
『それは、ゆみが勝手に薬を飲み始めただけで……』
『人間、どんな小さなことでも、行動を起こす時は、何かしら動機がつきまとうものです。ゆみさんだって、何の理由もなく、薬を飲み始めた訳ではない筈です』
『透君は、ゆみが薬を飲むようになったのは、私の所為だって言いたいの?』
『違います。でも、ゆみさんが亡くなった日、薬を飲むように仕向けたのは、源川さんですよね?』
透の言葉に、香織は衝撃を受けた。見くびっていた訳ではないが、彼に自分の犯行を見抜かれるとは夢にも思っていなかった。
『何を言ってるの?おばちゃんがゆみに、そんなことする訳ないでしょう』
香織は平静を装い、惚けてはみたが、透には通用しなかった。
『ゆみさんは、薬を飲む時はいつも、手の平サイズの瓶から錠剤を取り出していました。ラベルの剥がされた複数の瓶には、市販の薬や病院で貰った薬が、服用する気のある薬だけが入っていたんです。でも、さっき確認してみたところ、ゆみさんの机の上に置かれたハルシオンの錠剤は、シートの中でした。ゆみさんは、大量の頭痛薬を服用して、最後にハルシオンの錠剤を一つ、口にしたんですよね?』
『そうみたいね。だから、ちゃんと、一錠減っていたんじゃないの?』
『その一錠は、どこで入手したんですか?』
『それは、病院で貰ったんじゃないの?』
『誰がですか?』
『ゆみが……』
『ゆみさんは自分が病院で貰ったものを、服用したんですか?』
『他に何があるって言うの?』
『ゆみさんが貰ったハルシオンは、僕が一錠持っているんですよ。それなのに、それなのに、ゆみさんが飲んだハルシオンは、一体どこから出てきたんですか?』
『そんなこと……』
『どうして。どうして源川を殺したんですか?』
尋ねると、透は板張りの上にへたり込んだ。
香織は返す言葉が見つからなかった。透とは前に話したこともあるので、彼がゆみに好意を抱いていたことは、容易に想像がついていた。だからこそ、透の言葉通り、ゆみを死に至らせた自分が、彼に何を言えば謝罪になるのか、香織には分からかった。
『源川は馬鹿ではありません。百錠も二百錠も薬を飲んだら、身に危険が及ぶことくらい理解していた筈です』
『でも実際ゆみは……』
香織は透を精神的に追い込むつもりはなかったが、無意識の内に罪悪感から逃避していた。
警察に捕まるのは怖くなかった。しかし、殺害を認めて、ゆみから批難されていることを考えるだけで、体が引き裂かれるような苦しみに襲われるので、否定以外の選択肢を選ぶことはできなかった。
『実際ゆみは、自分で薬を飲んで死に至った訳でしょう?私は何も……』
『飲んですぐに、吐き出すつもりだったんですよ。中学の時も、薬をたくさん飲んだ時は、いつもトイレで吐いてました。だから、一部の同級生からは排水溝って呼ばれてたんです。薬はあくまでも精神を落ち着かせるもの。自殺したくて飲んでいた訳ではありません』
『じゃあ、ハルシオンはどうやって飲ませたって言うの?ゆみが薬を飲んだとされる時間、私は外出中だったんだよ』
『例えば電話で、お前なんか死んでしまえ、生まなければよかったなど、精神的に追い詰めるような言葉が書かれた紙を読むように伝えて、トイレに鍵をかけておくだけでも、ゆみさんを自滅させることはできます。ゆみさんは薬を服用する時、それ専用の黄色いコップに水を入れて、水と一緒に薬を飲んでいました。その、専用のコップに予めハルシオンを入れておけば、離れていても薬を飲ませることは可能です』
『それなら、飲む前にゆみも気付くんじゃないの。コップに異物が入っているんだから』
『そもそも、ゆみさんが薬を飲む時は、取り乱している時です。コップの底に異物が入っていても、混乱している頭では、気付かなかったのでしょう』
透は香織の犯行を全て見通しているようだった。それでも香織は、しっかりと説明できなければ意味がないと、悪あがきを止めることができなかった。
『じゃあトイレの鍵は?鍵は中からしかかけられない筈でしょう?』
『外側からドアの取っ手の上の窪みに、先が細いものを差しこみ、ひねるだけで、そのトイレの鍵は簡単に開け閉めできる筈です』
『それにしたって、睡眠薬の利き目が出るまで、ゆみがトイレで吐き出すことに拘っていたとは思えないけど……』
『頭痛薬を大量に飲んでも、すぐに安心感を得られる訳ではない。大量に飲んだ時は、薬を吐き出して初めてゆみさんは安心できるそうです。でも、頭痛薬だけだったら、大量に薬を飲んでも、次第に落ち着きを、冷静な思考を取り戻せてはいたんです。それができなかったのは、源川さんが、超短時間型睡眠導入剤、ハルシオンをゆみさんに飲ませたからです。ゆみさんはきっと、トイレに鍵がかかっていることも理解できずに、薬を吐く前に眠ってしまったのではないでしょうか。そして、それが源川さんの狙いだった』
透の推理は完璧だった。全て彼の言う通りだった。もはや言い逃れることはできなかった。
『透君、名探偵みたいだね。ゆみもきっと、喜んでるだろうな。自殺が誤りだってこと、暴いてくれる人が現れて……』
香織は透の前で罪を認めた。
おおよそ、透には理解してもらえないとは思ったが、ゆみを殺害するに至った経緯も話した。
香織はただ、理解者がほしかっただけだった。自分に求婚してくれた男と、一緒になりたかっただけだった。
透は香織の話を、下唇の裏に前歯を食いこませて、咽び泣きながら聞いていた。彼が途中、話の腰を折ることはなかった。
『透君は、私にどうして欲しい?』
ゆみを殺害した動機を話し終えると、香織は膝を折り、透に尋ねた。
死ねと言われれば死ぬし、自首しろと言えば自首するつもりだった。
それが自分に与えられた運命だと思った。しかし、香織にとっては意外な言葉を、透はこのタイミングで口にした。
『僕は何も偉そうなことなんて言えません。僕は、実の父親を殺したんですから……』
『そんな……。どうして……?』
『妹と、自分の命を守りたかったんです』
彼らしい理由だなと香織は思った。思ったが口にはしなかった。
『これから、どうするつもりなの?』
『自首します。このまま逃げていたら、僕は二度とゆみさんには会えません』
『だからって……。妹さんはどうするの?』
『妹はもう、一人で生きていけます。強い子ですから』
唇を血で汚した少年は、ズボンのポケットから一枚の紙切れを取り出し、ゆっくりと立ち上がると、香織にその紙を手渡した。
『これ、僕の携帯電話の番号です。明日の午前六時に電話をかけても、僕が出なかったら、自首をしたということになります。参考までに、持っておいて下さい』
この時点では、香織は透に電話をかけるつもりはなかったが、黙って電話番号の書かれた紙を受け取った。
『ねぇ、透君。本当に、それで良いの?透君は、家族から離れて、一人になっても大丈夫なの?』
香織は玄関口で靴を履く透の小さな背中に向かって、虚ろな表情を浮かべて尋ねた。
『僕は、氷の柱にも、氷の欠片にもなりたくないんです。例え寄せ集めであっても、塊でいたいんです』
透は一瞬弱々しい笑みを香織に向けて『201号室』を出て行った。
そして今日、携帯電話から彼の声を聞くことはできなかった。ということは、彼は本当に自首したようだ。
あんな小さな子が、自分の傷と向いあっているのに、お母さんが逃げて良い訳ないよね?
香織は笑顔のゆみの写真から目を離し、静かに立ち上がった。
全てを終わらせる為に……。
敢えて詳述しなかった部分があるので、この作品に記載されている方法では、完全犯罪を達成することはできません。模倣しないでください。
今作では架空の地名、組織名などが多々登場しますが、実際に存在するのは下記の通りです(記載忘れがあったらごめんなさい)。
アーティスト
嵐
藍坊主
地名・駅名
旗の台
二子玉川
多摩川大橋
新横浜
神奈川県
川崎市
店
ローソン
ガスト
ヤマダ電機
テレビ関連
NHK
スクランブル(テレビ朝日)
推理よりも、虐待が引き起こす負の螺旋をメインに描きました。
ここまで全て読んで下さった方、本当にありがとうございます。
お疲れ様です。




