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八月十九日、日曜日。
父親の遺書が見つかった時から、薄々嫌な予感はしていた。しかし、まさかこんなに早く逮捕の時が来るとは思わなかった。
午前四時四十五分。透は居間で、歩きまわりながら、ありとあらゆる物に触れていた。
台所、テーブル、壁、ソファ、椅子、床……。
草光曰く、今回の事件は、エル・ロコを刺激しない為にも、公にはしないらしいが、自白させようとしているだけかもしれないので、本当かどうかは判らない。
飢えた世間に、花圃や母親が糾弾されて、二人がこの家を離れることは十分有り得る。そうなったら俺は、もう二度とこの家に戻って来ることはできない。
この景色を見るのも今日で最後かと思うと、透は寂しかった。
もっと家にいたかった。三人でいろんな話がしたかった。しかし、それらは今となっては叶わぬ夢。
草光らが家に来る時間までは、もう十分もない。今更逃走しても、逃げのびるのはどう考えても不可能だった。
「あれ、起こしちゃったか?」
不意に、玄関口のほうから床板が軋む音がしたので、廊下を覗いてみると、トイレの扉の前に、私服を着た花圃の姿があった。
「何で今日こんなに起きるの早いの?いつも私がいないと起きられないのに」
花圃は仏頂面で、コップに水道水を入れ、一気に呷る。
「寝てても良いよ。朝ご飯は私が用意するから」
「何だよ。そんな素っ気ない態度とるなよ……」
もう会えないかもしれないんだからさ。透は心の中で呟く。が、当然花圃は、実の兄がそのようなことを考えていることも知らず、ソファの上に座り、そっぽを向く。
「まだ機嫌悪いのか?」
「別に、悪くないよ」
「そうか。じゃあ、朝早くに花圃の好きなバナナケーキを作っておいたからさ、良かったら食べてくれよ」
「はぁい」
花圃……。俺が作ったケーキ、食べてくれるのか。
透は妹の返事を聞いて、思わず泣きそうになった。
お前は本当に純粋で、可愛らしいよ。でも、注意すべきところは注意しないとな。それが、先に生まれた者の役目だ。
「花圃、そんな態度だと、彼氏できないぞ。お前は『花畑』なんだ。多くの人に癒しを与える人間になれよ」
「急にどうしたの?説教臭いなぁ」
ふるまいを注意されると、花圃は先程から俯き勝ちだったが、ようやく透と目をあわせた。
「ほら、人間いつ死ぬかなんて分からないだろ。だから、ちゃんと伝えようと思ってな」
透は花圃が眩し過ぎて、視線を落とす。
人殺しの俺が、汚れのない妹に、こんなこと言って良いのか分からないが……。
「俺は、花圃が妹で、本当に良かったよ」
透が言い終えた直後、呼び鈴の音が室内に響いた。
壁にかかった時計を見てみると、現在の時刻はぴったり午前五時だった。
いよいよか。
静かに息を呑み、透は花圃に背を向ける。
「俺が出るよ。花圃はここにいろ」
そう言えば、妹は居間でじっとしていると思ったのだが……。
「私が出る」
意外なことに、花圃は呼び鈴の音に反応して、腰を上げた。
「俺が出るって」
花圃には刑事と顔をあわせてほしくない。透は語気を強めて主張した。
「私が出るよ」
「俺が出る。いいからここにいろ」
透が返事を待たずに玄関口へと歩き始めると、花圃は『勝手にすれば』と言って、再びソファの上に腰を下ろした。
折角一階に下りて来てくれたのに、最後に笑顔を見ることができなかったな。でも、これで良いんだ。俺が連行されるところなんて、花圃には見せたくない。花圃が見たところで、お互い苦しい思いをするだけなのだから……。
透は靴を履き、玄関をゆっくり開ける。と、昨日と同じように、草光と若い刑事が目に入ってきた。
じゃあな、花圃。透は心の中で妹に別れを告げ、敷居を跨ごうとした。が、ちょうどその時、後方で花圃の声がして、玄関口から外に出ることは躊躇われた。
「お兄ちゃん?」
家族に何を言われても、黙って出て行くつもりだった。それなのに、足が止まってしまうということは、本心は捕まりたくないと思っているのだろうか。
「花圃……」
弱々しい声で、透は妹の名前を呼んだ。
「お兄ちゃんどうして?証拠はないんだから、お兄ちゃんが自供しなければ捕まることはないんだよ。戦ってよ」
花圃は泣きそうな顔で透に向かって駆け寄る。
「大丈夫だよ。この人たちにはお兄ちゃんを裁けないよ。だから、だから、いなくならないでよ。お兄ちゃんは何も悪いことしてないよ」
「花圃……」
透は振り返り、一瞬どうするべきなのか考え、ゆみがしてくれたように、優しく花圃を抱きしめてやることにした。
私があなたの怒りを静めるイカリになる……。
花圃の感触は、柔らかく、温かいゆみと似ていた。
俺だって、お前と離れたい訳じゃない。お前は俺の光でもあった。お前がいてくれたからこそ、俺は源川がいなくなっても、今まで生きてこれたのだと思う。でも……。
「俺にだって、母さんや花圃よりも大事なものは、あるんだよ。俺は、このまま罰を受けずにいると、この世界で一番大切な人に、あわす顔がないんだ。ごめんな、花圃」
透は今にも泣きそうな花圃から手を離し、彼女に向かって手を振った。
さよなら、花圃。さよなら、母さん。
さよなら、俺の、還る場所……。




