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この世界に、未来を予知することのできる人間はいない。もし、人に未来予知の能力が備わっていれば、震災による被害も、原発事故も、最小限に抑えるどころか、死者を出してしまうことや、事故すら未然に防ぐことができたのであろう。しかし、未来予知などという能力は、夢のまた夢。現実世界に、そのような異様な能力を持っている者は一人もいない(とされている)。
透にしてもそうだった。こんなにも早く、完璧と思われた計画に穴が開くきっかけとなる出来事が起きようとは、予想もしていなかった。
その出来事は、7月3日の、どんよりとした空の下で起きた。
透と入れ替わるような形で、テスト期間に入った花圃は、学校で友達と五時まで勉強すると、予め透に伝えていた。
実際昨日『今日は傍にいてくれるだけで良い』と花圃に言われ、透が午後五時に鏡遠中学校に足を運ぶと、その時は彼女も数人の少女に囲まれて、楽しそうに話をしながら校舎から出て来る姿が目に入っていた。その為、透は自分よりも早く、花圃が家に帰り、一人の時に父親と出くわさないか心配だったのだが、今日も『遅く帰る』と彼女からメールも送られてきていたので、安心しきっていた。
授業が終わり、学校から家に帰り着いたのは、午後四時過ぎ。玄関を開けると、透はいつものように、父親の靴があるか確認し、床板を軋ませないように、ゆっくりと静かに廊下を歩き、一階の和室を覗き込む。
部屋には誰もいなかった。
あいつは今日も旗の台だろうか。
ほっとするのも束の間、透は自分の行動に腹を立てる。
くそ、くそ。どうして俺はこんなことをしているんだ。まるであいつに怯えているみたいじゃないか。
そこまで考えて、苦笑し、洗面所へと向かう。
顔を洗うついでに、軽く頭も水で洗った。水道から流れ出る水は、生温かかったが、汗でべとべとした肌を綺麗にしてくれて、心地良かった。
『ふう』と息を吐き、身近の引き出しから、タオルを取りだす。濡れた髪をタオルで拭き終えると、透は鏡に映った自分に向かって笑みを浮かべる。
ここ最近よく千代に話しかけられるので、邪なことを考えていることに気付かれないよう、何度か笑顔を作る練習をした。
鏡をまともに見るのは何ヶ月ぶりのことだろう。久しぶりに見る自分の顔には、覇気が無く、笑っていないと眠そうな顔で、自分のものとは思えなかった。
しかし、眠れない夜を過ごすのは、これからは格段に減っていく筈だ。なぜなら、俺はもう、自ら手を下さずにあいつの首を締めあげる方法を思いついたのだから。
透は鼻歌を歌いながら階段を上り、自室に向かう。彼が不穏な空気を感じ取ったのは、階段を上りきり、すぐ横に見える自室の扉が閉まっていることに気付いた時だった。
花圃は、登校日は決まって、父親と二人きりになりたくないからという理由で、透より早く家を出ていた。花圃が家を出た後、透はいつも部屋の扉を開けた状態で登校するので、風が強く吹いている訳でもないこの日に、今扉が閉まっているということは、誰かがわざわざ部屋の扉を閉めたということになる。
透は息を呑んで、ドアの取っ手を掴んだ。が、取っ手はびくともしない。
誰かいるのか。
こんこん……。遠慮がちにノックする。が、返事はない。
取っ手が動かないということは、花圃が内側から本棚で押さえているのかもしれない。そう思い、彼女の名前を呼ぶも、やっぱり部屋の中から返事は聞こえてこない。
玄関口には花圃の靴は置かれていなかった。つまり、今俺の部屋にいるのは泥棒……?いや、そんな筈はない。居間も和室も、荒らされた形跡はまるでなかったし、泥棒だったらなぜ俺の部屋の扉だけ開かないようにしておくんだ。俺が帰った時にまだ家にいたとしても、わざわざこんな小細工をする理由が分からない。となると、今俺の部屋にいるのは、やはり……。
違和感があった。何か悪いことが起こる予感がした。
おいおいまさか花圃の奴、変なこと考えてないだろうな。
透は『花圃、開けろ!』と叫び、扉を乱暴に叩いた。相変わらず返事はなかったが、求める彼女の声の代わりに、部屋の中で何かが倒れるような音がした。
何だ、今のは……。
音がしたと同時に、透の足は素早く階段へと動き出した。
仮に、部屋の中に人がいて、その人が花圃であれば、まず間違いなくドアの取っ手を固定しているのは縦長の本棚だ。
父親の影に怯えて、夜も中々寝付けないと言う花圃に、部屋の共有を提案し、自室の扉に本棚を立て掛けて置いて、本棚でドアの取っ手が動かないよう固定し『万が一本棚を倒されても、部屋の隅に置かれたベッドの脚が支えて、扉は開けられないから、心配するな』と、ドアに鍵を付けずに密室にする方法を教えたのは透だった。
取っ手を押さえている本棚を倒せたところで、扉の隙間から部屋の中に入ることはできない。しかし、西側の窓なら花圃が鍵を閉めていなければ、窓は開く筈。あの場所からなら何とか部屋の中に入ることはできる。
透は靴も履かずに勢いよく玄関の扉を開ける。ちょうど向かいの家の、花に如雨露で水やりをしている、温厚な中年おばさんと目が合ったが、無視して玄関脇の石柵へと両手と片足を乗せる。
「あら危ない」
おばさんの悲鳴を聞き流し、家の壁に手を付いて、透は石柵に両足を乗せた。
透の部屋の窓の手摺は、手を伸ばし、跳躍すれば十分届く距離だった。
手摺が外れたらどうしようかと考えることなく、透はアルミ製の手摺に飛び移った。
体重が五十kgもなかったからなのか、体を持ち上げても、手摺が壊れることはなかった。
透はなるべく負荷をかけないように、片腕を手摺の上に乗せ、右手で窓を横にスライドさせる。窓に鍵がかかっていないことが分かると、手摺と窓の間に体を滑り込ませ、開けた窓から自室へと飛び込んだ。
真っ先に目に入ってきたのは、膝と足を紐で縛り、正座の格好でポールハンガーから垂れた縄で首を括る、パジャマを着た花圃の姿だった。
「花圃!」
透は脱兎の勢いで、涙を流しながら首を吊っている花圃に走り寄り、彼女の体を、両足と背中に手を回し、息ができるように持ち上げる。
「ばかやろう!目を開けろ花圃。お前が死んだら、お前が、死んだら俺は、どうすれば良いんだよ!」
その後は言葉にならなかった。
花圃は名前を呼んでも、口も目も開かない。時間と彼女の涙だけが、透を馬鹿にするように、ただ、いたずらに流れて行く。
あまりにも悲しいと、人は涙を流すこともできなくなることを透は知った。
何でだよ。何で何で何でなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんで死ぬべき人間は他にいるじゃないかなんで花圃が死なないといけないんだよなんで花圃がなんで花圃がふざけんなよなんで花圃ばっかり苦しまないといけないんだよふざけんなふざけんなあんな奴今すぐ殺してやる。
「お兄……ちゃん?」
透が発狂しかけた時、花圃の口から言葉が発せられた。
「花圃……?」
聞き間違えたのかと思い、透は目を丸くして、妹のつぶらでうるうるしている双眸を見つめた。
「お兄ちゃん、どうして部屋にいるの?」
「ばかやろう。お前のこと助ける為に、窓から入って来たんだよ」
透にぎゅうと抱きしめられると、花圃は西側の窓に虚ろな目を向ける。
「あんな場所から……」
「どんな場所でも、お前を助ける為なら飛び込んで行くよ。お前は俺の家族なんだから。前にも言っただろ。忘れたのか?」
「ううん、覚えてる。言われてすごく嬉しかった言葉。でも……」
「花圃、少しの間黙っていろ。まず、この縄を外すから、じっとしていろよ」
つい先程まで座っていたであろう、倒れた鼠色の回転イスを片手で起こし、その上に花圃を乗せて、透はズボンのポケットに忍ばせてあるハサミを取り出し、彼女の肌を傷つけないよう慎重に、異様に輪の小さい縄を裂いていく。
「こんなことしたって、お前も楽しくないだろう?」
透の問いに、花圃は答える替わりに涙を流した。
透はやれやれといった顔で、項垂れる花圃の首を覗き込む。彼女の首には、縄で締めつけられて、赤く腫れている部分もあるが、目立った傷はなく、明日には綺麗に縄でできた痕も消えていることだろう。
問題は、膝と足を結んでいる二本の紐だ。まだ十三歳の少女の力とはいえ、見た目からして、紐は相当きつく縛られているようだ。
透は花圃の体の自由を奪っている、二本の紐による縛りをハサミで解き、彼女の両脇に手を差しこみ、赤子をあやすかのように持ち上げる。
「ほら、花圃、足を伸ばせ」
透が促すと、花圃は苦痛に顔を歪ませ、ゆっくりと足を真っ直ぐ伸ばしていく。パジャマを着ているので、膝の部分の腫れは確認することはできなかったが、足の付け根の、紐で縛られていた部分は、紫色に変色し、鬱血しているのが見て取れた。
どうやら足が痛そうなのは、長いこと正座していたからではないようだ。
「花圃、明日は学校休んだほうが良いんじゃないのか?」
透は話しながらベッドの上に花圃を運び、仰向けにして寝させて、両手を彼女の体から離す。と、花圃は上半身を起こして、右手の甲で、左右の目を交互にこすり始めた。
「駄目だよ。明日もテストがあるから」
「中学なんて、一日、二日休んだって大して問題ないんだ。部活も休みなんだから、無理するなよ」
「でも……」
「その足で学校行ったら、男に笑われるぞ」
「別に良いよ。気にしないから」
花圃が良くても俺は気にするんだよ。そう口にしたかったが、言葉にするのは躊躇われた。
「嫌いになった?」
透が花圃の赤くなった双眸をじっと見つめていると、不意に、彼女は視線を落とし、ぼそっと呟いた。
「ん?誰を?」
「私のこと……」
「そんな訳ないだろ」
透は即答して、花圃の真横に腰を下ろす。
「例え花圃が自殺したって、嫌いになったりしないよ」
花圃の肩に腕をまわし、抱きよせる。
「首吊りってのは、汚い死に方らしいぞ。体の穴という穴から汚物が出てきてだな……。ほら、嫌だろ、そんな死に方」
透が笑みを浮かべて話しても、花圃は落ち込んだ表情のまま、にこりともしなかった。が……。
「部屋が悪臭で満たされていて、汚物の処理まで一人で行うのは大変だぞ。掃除を手伝ってくれる妹がいたら、まるで状況が変わってくるけどな」
透の話を聞き終えると、花圃は泣きながら笑みを浮かべた。
その笑顔を見せてくれれば、俺はいつまでもお前の傍にいたいと思えるよ。そう、心の中だけで告げて、透は花圃の肩を軽くぽんぽんと、数回叩いてから、彼女から手を離した。




