第9話:アレクシス様の噂のこと
熊が去ったあとの村は、まるで嵐のあとのように静まり返っていた。
アレクシスは村の診療所に運ばれ、医師の手当てを受けていた。
包帯で巻かれた腕はまだ痛々しいが、命に別状はないと聞いて、イヴォンヌはようやく胸を撫で下ろす。
「……お前の機転がなければ、今頃は貧血でぶっ倒れていたやもしれん」
ベッドの上に座ったままアレクシスが苦笑する。しばらく動いてはいけないと言われたため、屋敷に帰るのは日が暮れてからになりそうだ。
ベッドの傍らにあった丸椅子に腰かけ、イヴォンヌは顔を赤らめて首を振る。
「い、いえ……あのときは、ただ、夢中で……」
「夢中でスカートを裂くとはな」
「そ、それは……!」
慌てて反論しかけて、イヴォンヌは思わず口をつぐんだ。
アレクシスがからかうように笑っているのを見て、怒ればいいのか、一緒に笑えばいいのか、分からなくなる。
少し前まで、恐ろしいと思っていたはずなのに――いま目の前にいる彼は、不思議と穏やかだった。
窓の外は美しい赤がね色に染まっている。雲のふちは夕日を浴びて黄金色に輝いていた。
ひとしきり沈黙が流れたのち、イヴォンヌは意を決したように口を開いた。
「……あの、アレクシス様。一つ、聞いてもよろしいですか?」
「なんだ?」
「アレクシス様の……噂のことです」
その言葉に、アレクシスの眉がわずかに動く。
イヴォンヌは緊張しながらも続けた。
「女好きで、飲んだくれで……屋敷では年若い侍女を囲っていると……。最初に聞いたとき、私は正直、怖かったのです」
アレクシスはしばらく何も言わなかった。
やがて、低く息を吐き、視線を窓の外に向けた。赤がね色が薄れ、淡い紫の中で星々が光り始める。
「……ああ、あの噂か」
アレクシスの声音には苦笑が混じっていた。
「俺が女好きと言われるのは誤解だ。向こうから来る。どんな席だろうがお構いなしに相手が勝手に寄ってくるんだ」
「寄ってくる……?」
「俺が断っても、周りが勝手に話を膨らませる。面倒だから放っておいたら、今のような噂になった」
イヴォンヌは目を瞬かせる。
真っ直ぐに語られるその声には、嘘の響きがなかった。
「……では、屋敷の侍女たちがみんな若いのも……?」
「侍女だけじゃない。俺の屋敷の者たちはみな若いぞ」
アレクシスは傷の具合を確かめるためか、腕を軽く動かしながら、淡々と続けた。
「様々な理由で親を亡くした領地の孤児たちを拾って、働き口を与えただけだ。慈善事業も領主の仕事の一つだからな。……というのは表向きの理由だ。父が死んだときに大多数の使用人が暇乞いをしてきたのだ。俺のような……剣を使うだけしか能のない奴に使われるのは嫌だったらしい」
その口調は飾り気がなく、ただ事実を述べるようだった。
けれどイヴォンヌの胸の奥で、何かが音を立ててほどけた。
――誤解だった。
女好きの飲んだくれ。誰彼構わず手を出す好色家。そんないい加減な噂に怯えていた自分が、今は恥ずかしい。
「そんな事情があったなんて」
「気にするな。俺も、説明するのが下手だからな」
アレクシスはふっと吐息をこぼし、包帯の上からそっと腕を押さえた。
その指先がわずかに震えているのを見て、イヴォンヌはそっと手を伸ばす。
「まだ痛むのですね」
彼の手に、自分の指が触れる。アレクシスの肩が一瞬だけ動いた。
「……大丈夫だ」
けれど、その声はほんの少しだけ掠れていた。
窓の外はすっかり夜のとばりに覆われていた。
目と目が合う。気のせいだろうか。アレクシスの瞳が熱を帯びているような気がするのは。
気のせいだ。きっと気のせい。アレクシスのような立派な殿方が、自分のような退屈な女を好きになるはずがない。
イヴォンヌは何度も自分に言い聞かせた。
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