第8話:そんなことはどうでもいい
昼を過ぎるころ、二人を乗せた馬は緩やかな丘を越え、領地の南に広がる村へと入った。
冬には珍しい長雨によって例年よりも麦の育ちが悪いと報告があった場所――だが今は、見違えるほどの緑が広がっている。
麦の苗は陽を受けて艶やかに輝き、農夫たちの顔には活気が宿っていた。
「……見ろ、イヴォンヌ。あの畑を」
アレクシスが手綱を引き、遠くを指さす。
そこでは瘦せ細ってしまった土壌が見事に息を吹き返した証として、若葉の絨毯が風に揺れている。
「石灰を混ぜた土のほうは、見事に作物が根付いていますな」
先ほど声をかけて案内を頼んだ領民が誇らしげに言う。
「前の年より倍近く増えてるように見えます。これもすべて、アレクシス様のおかげです」
「いや、俺ではない。ここにいる俺の妻が成したことよ」
イヴォンヌは思わず息を呑んだ。
自分の小さな意見が、こうして人々の生活を変えている。カティック伯爵領を豊かにする手助けができている――その事実が胸の奥に温かく広がる。
「……良かった。本当に。私のこれまでの努力は無駄ではなかったのですね」
穏やかに微笑む彼女の横顔を、アレクシスは静かに見つめていた。
その瞳に、わずかな誇りと、どこか安堵の色が宿っている。
ふいに、村の外れから悲鳴が上がる。
人々がざわめき、子どもを抱えて走り出した。
「くくく、熊だ――!!」
悲鳴が上がって辺りが一気に騒がしくなる。アレクシスは即座に反応した。ローズから飛び降り、剣を抜く
「イヴォンヌ、下がれ!」
アレクシスはイヴォンヌをローズから降ろしながらも、油断なく周辺に視線を走らせる。
視線の先、やせ細った黒い影が森の方から駆けてくる。
飢えた熊が、まっすぐこちらへ向かっていた。
「あ……!」
熊の目は血走り、口から泡を吹いている。その恐ろしい獣の形相にイヴォンヌの足がすくんだ。
動けない。殺される!
その瞬間、アレクシスが彼女の体を思いきり突き飛ばした。その腕目掛けて仁王立ちになった熊が爪を振り下ろす。
「っ――!」
鋭い裂傷が走る。血が飛び散り、赤い筋が彼の袖を染めた。だがアレクシスは怯まず、剣を振り抜く。
閃光がほとばしり、アレクシスの剣先が熊の喉笛を切り裂く。致命傷にはならなかったが恐れをなした獣は呻き声を上げて森の奥へと逃げていった。
静寂が戻る。
イヴォンヌは我に返り、彼の元へ駆け寄った。
「アレクシス様! 腕が……!」
「これくらい――かすり傷だ」
声は平然としていたが、腕の傷は酷いものだった。肉が抉れ、骨が見えている。血が止まらず、地面にぽたぽたと滴り落ちる。
「貸してください!」
「イヴォンヌ?」
周囲の者たちが見守る中、イヴォンヌは無理やりアレクシスの手から彼の剣を奪い取った。スカートの裾をつかみ、ためらいもなく引き裂く。
白い肌が露わになるのも構わずびりびりと布を引きちぎり、その布で彼の腕を強く縛った。
「……お前、何を――」
「止血です! このままでは失血します!」
顔を上げたとき、イヴォンヌの頬は涙で濡れていた。
太ももまであらわになった彼女の姿にアレクシスは慌てて目線をよそへやった。
「……そんな姿、村人に見せるものではない」
「そんなこと、どうでもいいです!」
震える手で布をきつく締めながら、イヴォンヌは必死に声を張り上げた。
「あなたがいなくなったら……また、大切な人を失うことになるのですから!」
その言葉に、アレクシスの目が見開かれる。
しばし沈黙が流れたあと、彼は静かに息を吐いた。
「……俺は、簡単には死なん」
その声音は、いつになく柔らかだった。風が二人の間を抜け、遠くで鳥の声が戻り始める。
村人たちは、息を呑みながら見守っていた。
陽光の下で、裂けたスカートの布が、鮮やかにひらめいた。
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