第6話:私を置いていってしまう
その夜、イヴォンヌは眠れなかった。
ベッドに横たわっても、心の奥に沈むざらついた痛みが消えない。
カティック伯爵家はとても居心地の良いところだ。
使用人たちはみな優しく、アレクシスも今のところイヴォンヌに礼節を保った態度で接してくれている。
イヴォンヌは少しずつ自分がアレクシスや使用人たちに心を開き始めていることに気付いていた。
けれど――瞼を閉じれば、雪の夜の記憶が蘇る。
――しんしんと、重たい雪片が降り積もる夜だった。
ひどく静かで、寒くて、ただ呼吸の音と、衣擦れの音だけが聞こえていた。
六歳のイヴォンヌは掛布の中で小さく身体を丸め、震える声で祈っていた。
母を連れて行かないで――と。
唇が切れそうなほど噛みしめて、強く祈った。
その願いは届かなかった。
「お嬢様……! シルヴェーヌ様が……あなたのお母様が……たった今、息を引き取られました……っ」
その瞬間、イヴォンヌの世界は色を失った。
イヴォンヌは息を吸い、ゆっくりと瞼を開いた。
瞬きをすると、水滴が目尻からあふれて滑らかな頬を滑り落ちた。
寝室には窓から月光が差し込み、床の上に淡い影を落としている。
もう眠る気にはなれない。彼女は上着を羽織り、部屋の外へ出た。
長い回廊を歩き、通用口から庭園に出る。
夜気は冷たく、丹精込めて育てられた花々は月明かりを浴びて、ほのかな光をまとっていた。
イヴォンヌは東屋のベンチに腰を下ろし、静かに息を吐いた。
そのときだった。
「こんな夜更けに、一人でどうした」
驚いて振り向くと、アレクシスがいた。
灯りも持たず、ただ月の光が彼のシルエットをやわらかくふちどっている。静かな夜のなかで、彼の雄々しさや常に放たれている活力は少しだけ鳴りを潜めていた。
イヴォンヌは慌てて頬の涙をぬぐった。
「……夜分に外へ出てしまい、申し訳ありません。夢にうなされて、少しだけ風に当たりたくなってしまったのです」
「そうか。執務室から、お前の姿が見えた。寒くはないか?」
「だいじょうぶです。……少し、昔のことを思い出していました」
「……隣に座っても?」
「はい……」
イヴォンヌがベンチの端に寄ると、アレクシスは体重を感じさせない軽やかな仕草で彼女の隣に腰を下ろした。
沈黙が落ちる。夜風が二人の髪を揺らした。
「母のことなんです」
イヴォンヌはぽつりと呟いた。
月を仰ぐ横顔が、涙の光にかすかに濡れていた。
「母は……私が六歳のとき、病でこの世を去りました。あの夜のことを、今でも忘れられません。
父はずっと私を案じてくれていました。いつか、私の心が壊れてしまうのではないかと。
だからこそ、ロベルタ様と再婚なさったのだと思います。新しい愛を得るためでもあり、私に良き相談役を与えるためでもあったのでしょう。
けれど……私にとって母は、いつまでも“お母様”ただ一人。そんな気持ちを見透かされていたのでしょうね。私はロベルタ様にも、シンシア様にも好かれませんでした。
私もまた、あの方々を家族として受け入れられなかったのです。
母が亡くなってから、父以外に心を許せなくなりました。
あの夜、どんなに祈っても、願っても、何も届かなかった。……それ以来ずっと、人を失うのが怖いのです。
私が愛した人も、私を愛してくれる人も、いつかみんな……私を置いていってしまうような気がして」
アレクシスは静かに目を伏せた。束の間、二人の間に沈黙が流れる。
それは決して気まずいものではなく、春の小川のせせらぎに似た心地よい沈黙だった。
やがて、低く穏やかな声が返ってくる。
「……そうか」
その一言に、温かさがあった。
責めるでも慰めるでもなく、ただ受け止めてくれる響きだった。
「俺の父も、少し変わった人でな。金勘定に関しては天才だったが、俺にはまったく合わなかった。
帳簿を見ることの何がそんなに面白いのか理解できなかった。
剣ばかり振って、結局、領地のことはアーネスト任せだ。……あいつがいなかったら、俺は領主失格だろう」
アレクシスが苦笑する。
イヴォンヌは、思わず小さく首を振った。
「そんなこと……ありません。アレクシス様は、ちゃんと人の話を聞いてくださる方です。今日も、私の意見を……」
そこまで言って、イヴォンヌは恥ずかしくなって口をつぐんだ。
褒められて喜ぶなど、まるで幼い子どものようだ。
アレクシスの目が、ふっとやわらかく細まった。
「ありがとう。お前にそう言われると、少しだけ自信が出る」
二人の間を、夜風が通り抜ける。
月は高く、庭の花々を優しく照らしていた。
「そろそろ戻れ。風邪をひく」
「はい……」
イヴォンヌは立ち上がり、深く一礼して屋敷の方へ歩き出した。
***
扉の影に姿が消えるまで、アレクシスはイヴォンヌのほっそりした背中を見つめていた。
――消えてしまいそうだ。
手を伸ばして引き留め、「ここにいろ」と言いたくなった。
だが、どうしてそんな衝動に駆られたのか、自分でもわからなかった。
アレクシスは静かに息を吐き、夜空を見上げた。
星々は笑っているかのように、絶えずきらめきを放っている。




