第5話:領民からの陳情書
執務室の扉を叩くと、中から「入れ」と低くも落ち着いた声が返ってきた。
イヴォンヌは深呼吸をし、胸に抱いた羊皮紙をしっかりと握りしめる。
机の上には報告書が山のように積まれ、窓辺の光が紙の端を白く照らしていた。
アレクシスは椅子に腰かけ、難しい顔で羊皮紙を読みふけっている。
その隣には、侍従頭のアーネストが控えていた。
「持ってこさせて悪いな、助かるぜ……イヴォンヌ」
名前を呼ばれた瞬間、胸の奥がひどく跳ねた。
「……いいえ。お役に立てて何よりです」
かすれた声でそう返すと、イヴォンヌは背を向けて去ろうとした。
そのとき、アーネストが声を上げる。
「お待ちください」
「え?」
「お?」
イヴォンヌは振り返る。アレクシスが怪訝そうに眉をひそめるのが見えた。
そんなことはどこ吹く風とばかりに、アーネストが飄々と語りかけてくる。
「イヴォンヌ様は王都のアカデミーで農学を研究されていたと伺っております。しかも優秀な成績で卒業なさったとか。アレクシス様、ここは一つ――イヴォンヌ様のお考えをお伺いになってはいかがでしょう」
アレクシスがふむと顎に手を当てて考え込む。
鋭い灰色の瞳――だが、そこに威圧の色はない。
「そうだな。アーネストの言うことにも一理ある。イヴォンヌ」
「は、はいっ」
イヴォンヌは焦りながらも、手招かれるままアレクシスに近寄った。
イヴォンヌが執務机の正面まで来ると、アレクシスはおもむろに羊皮紙を差し出してきた。
「これは領民からの陳情書だ。目を通してみろ」
「失礼いたします」
イヴォンヌはおそるおそる羊皮紙を受け取り、文章を読み始めた。
最初はアレクシスの視線が気になったが、読んでいるうちにイヴォンヌは周りのことなど忘れた。
陳情書には、出穂の時期を迎えたものの、今年の冬は珍しく雨がよく降ったため、茎の数が少なく、収穫量の減少が心配だと書いてある。収穫量は年々減少し続けており、このままではカティック伯爵領の衰退も危ぶまれる――と。
読み終えてイヴォンヌは顔を上げた。アレクシスは依然、イヴォンヌを鋭く見つめている。
「イヴォンヌ、お前はこの現象をどう見る?」
イヴォンヌの喉がつかえた。
夫に意見を述べるなど恐れ多い。困ってイヴォンヌはアーネストに視線で助けを求めた。けれど、アーネストの促す眼差しに背を押されるように、彼女は口を開いた。
「……失礼いたします。報告の内容を拝見する限りでは、雨のせいというよりも“土の力”が衰えているのではないかと思われます」
「土の力?」
「はい。あまりにも雨が続くと、土に宿る栄養や力が流れ出してしまうのです。麦を支える土が痩せてしまえば、いくら陽が照っても、茎は細くなり、根も張りません」
言いながら、イヴォンヌは自分の声が震えていないか確かめるように、指先を握りしめた。
アレクシスは黙って耳を傾けていた。
彼が机の上の羊皮紙を軽く指で叩きながら、「……それで?」と促す。
「アカデミーで麦の試験栽培をしていたとき、同じようなことがありました。何度も失敗して、もう駄目かと思ったとき……古い書物に“白い粉を混ぜると土が若返る”という記述を見つけました。
それを畑に少し撒いてみたところ、麦がしっかりと根を張るようになり、葉も青々として――」
「白い粉?」
アーネストが首をかしげる。
「石灰というものです。水に混ぜると少し熱を持ちますが、土の底まで染みると不思議と草が元気になるのです」
アーネストが「なるほど」と唸るように頷いた。
アレクシスもまた、静かに息をついた。
「……面白い話だ。学問というのは、実地に役立つものだな」
その声にはわずかに温かさがあった。
イヴォンヌは驚き、顔を上げた。
アレクシスが穏やかに微笑んでいたのだ。
「よく学んでいる。――これを報告してきた者にイヴォンヌの意見を伝えてやってくれ、アーネスト」
「かしこまりました」
イヴォンヌは深く頭を下げ、二人に背を向けた。話は終わったようなので、自分は退室するべきだろう。
部屋を出る直前、背後からアレクシスの声が追いかけてくる。
「ありがとう、イヴォンヌ。……助かった」
扉を閉め、イヴォンヌは目を閉じた。じわり、じわりと、胸の中に熱が広がっていく。
ありがとうと言われた。アレクシスの役に立つことが出来た。アカデミーで学んだことが無駄ではなかったと証明できた。
夫の言葉に、初めて“やさしさ”を感じた気がした。
それは淡い光のように、彼女の心に灯った。




