第4話:私、嫌われたのかしら
夕食は驚くほど美味だった。
焼きたての小麦パンに、香草で香りづけされたスープ、塩気のきいたロースト肉。
けれど、その味を楽しむ余裕はイヴォンヌにはなかった。
アレクシスは執務に追われており、結局、食卓に姿を見せなかったからだ。
(……今夜は、来るのよね)
今日は新婚初夜だ。誓いは先ほど立会人を呼んで簡単に済ませた。
アレクシスの妻となったからには、貴族の女として、自分にはお世継ぎを生み育てる使命がある。
イヴォンヌはそう教えられて育った。
(私にちゃんと、できるかしら。痛くても、何をされても、逆らってはだめなのよ……)
アレクシスに逆らえば、どうなるかわからない。世の中には自分の命令に従わない妻に暴力を振るう男もいるそうだ。
私も、打たれるのかしら――。そう考えるだけで恐ろしく、涙がこぼれそうになる。
食後、侍女たちが部屋に入ってきた。
湯浴みの支度が整っております、と柔らかく告げられ、流れに逆らうこともできぬままイヴォンヌは湯殿へと導かれた。
乳白色の湯に浸かると、香油の香りが立ちのぼる。
侍女たちは手際よくイヴォンヌの髪を梳かし、肌を磨き上げた。
丹念に、まるで大切な宝石を磨くかのように。
白磁のような肌が湯気の中で淡く光を放つ。
「お美しいですわ、イヴォンヌ様」
「殿方が放っておかれるはずがございません」
そんな言葉に、イヴォンヌは笑うこともできなかった。
どれほどの女たちが、同じ言葉をかけられてこの夜を迎えたのだろう――そんなことを考えてしまう。
侍女たちが去り、部屋にひとり残される。
鏡の前に立つと、そこには薄絹の夜着をまとった自分がいた。
月明かりが透け、白い肌の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせる。
肌が透けてしまいそうに薄く、風に触れただけでもはらりと落ちてしまいそうだ。
(これを、見られるの……?)
胸がぎゅっと縮む。
指先が震え、膝が冷える。
アレクシスの太い腕が、自分を抱く姿を思い浮かべてしまい、慌てて首を振った。
そんなことを想像したくもない。
だけど、想像せずにはいられない。
――そのとき、廊下を行き交う足音が聞こえた。
イヴォンヌは思わず息を止める。
心臓が喉の奥までせり上がる。
扉の前で立ち止まる気配。
ノックされるのでは――と、思った瞬間、足音はそのまま遠ざかっていった。
……来なかった。
イヴォンヌは膝の力が抜け、ベッドに崩れ落ちた。
胸の鼓動だけがやけに大きく聞こえる。
安堵と、言いようのない寂しさが入り混じる。
こうして迎えた初夜は、静寂と共に過ぎていった。
***
次の夜も、その次の夜も、アレクシスは現れなかった。
彼はほとんど執務室に籠りきりで、顔を合わせるのは朝食の席でほんの挨拶程度。
彼の不在を責める気持ちはなかったが、胸の中には得体の知れないもやが残っていた。
(私、嫌われたのかしら……)
五日が過ぎたころ、イヴォンヌは少しだけ屋敷の暮らしに慣れ始めていた。
モニカとも親しくなり、屋敷の中をあちこち散歩するのが日課になっていた。
今日は庭園を散策しようと決めて、外に出る。
陽光に照らされる花々を眺めながら、モニカと他愛もない話をしていたときだった。
ひらり――と、上から一枚の羊皮紙が舞い落ちてきた。
「……え?」
イヴォンヌがそれを拾い上げた瞬間、頭上から男の声が降ってくる。
「おーい! ……お? あ~、うん、うん! 悪い、それを持ってきてくれないか!」
見上げると、執務室の窓からアレクシスが身を乗り出していた。
相変わらず鋭い眼差しだが、どこか気まずそうでもある。
イヴォンヌは反射的にうなずいた。
心臓がまた早鐘を打ち始める。
これが――あの初夜の夜以来、初めてのまともな会話になるのだ。
羊皮紙を胸に抱きしめ、イヴォンヌは足早に歩き出した。