第3話:しばらくは距離を置く
馬車の車輪が石畳を叩くたび、期待よりも不安が大きくなっていく。
窓の外に流れる景色はいつしか王都を離れ、のどかな田園地帯へと変わっていた。
イヴォンヌの思考は自然とこれから夫になる男、アレクシス・カティックへと向かう。
近衛騎士団の団長として、幾度もの暗殺を未然に防ぎ、王の盾と呼ばれた男。
今は近衛騎士団の団長の座を後進に明け渡し、領主としての務めに心血を注いでいるという。
数多の騎士たちにとって憧憬の対象であり、数多の淑女たちにとって理想の恋人とささやかれる男。
しかし彼には色狂いという悪い噂があった。
美しい女人であれば、誰彼構わず手当たり次第というのが王城での評判だった。聞くところによると、彼は己の屋敷では年若い侍女を周りに侍らせ、夜な夜な寝室に気に入りの者を呼び出しているだとか。
――そして何よりも重要なのは、彼が三十二歳であり、中年一歩手前の域に差し掛かっているということだ。
イヴォンヌは十六。自分との年齢差など、もはや親子といってもいい。
嫁げばどうなってしまうのだろう。自分はどんな目で見られるのだろう。奥方として大切にしてもらえるのだろうか。
永遠にやってこないでほしいと思っていたのに無情にも馬車が止まり、扉が開く。
御者に手を引かれて馬車から降りる。
青空を背景に佇むカティック伯爵家の壮麗なお屋敷は、一服の絵画のように美しかった。
御者が呼び鈴を鳴らす。しばらく待っていると、重厚な扉がゆっくりと開き、ずんずんと大股で大広間を渡ってくる男の姿が見えた。
――あれが。
扉の向こうから現れたのは、鋼のような体躯を持つ男だった。
上背は高く、胸板は厚い。髪は栗色。二の腕も太腿も丸太のように太く、肌は日焼けし、顎には髭のあとがうっすらと残っている。
鋭い眼差しがこちらを捉える。イヴォンヌはその瞬間、無意識に背筋を正していた。
その存在だけで空気が引き締まるようだ。
「……悪いが、仕事が立て込んでいてな。あとのことは使用人に任せる」
低く通る声に、イヴォンヌはただ萎縮して小さく会釈するしかなかった。彼がどんな感情を抱いているのか、口調や表情からは読み取れない。
アレクシスが踵を返して去っていく。彼と入れ替わるように屋敷の中から姿を現したのは、仕立ての良い燕尾服に身を包み、顎髭をきれいに撫で付けている好々爺だった。
「イヴォンヌ様、私は侍従頭のアーネストと申します。ご無事にお着きになられて、何よりでございます。――モニカ」
「はい」
呼ばれてアーネストの隣から進み出たのはイヴォンヌと同じ年頃の赤毛の少女だった。くるぶしまでもを覆う長いスカートの制服にエプロン。身なりからして彼女はメイドなのだろう。
「このモニカがこれからイヴォンヌ様の身の回りのお世話をさせていただきます」
「モニカでございます。どうぞよろしくお願いいたします。イヴォンヌ様におかれましては、長旅でお疲れでございましょう。早速、お部屋へご案内いたします。――こちらへ」
モニカがイヴォンヌの荷物を持ってすたすたと歩いていく。慌ててイヴォンヌはモニカの後を追いかけた。
屋敷の中は活気に満ちていた。慌ただしく行き交う足音、にぎやかな笑い声。
行き交う使用人たちは若者のほうが多かった。四十代、五十代の者もちらほらいるが、多くはイヴォンヌと同じ年頃の者のようだ。
白髪の者など、侍従頭のアーネストただ一人。
「モニカ……ここの使用人たちはあなたくらいの年の方が多いのかしら?」
「ええ、そうですね。ですからみな、イヴォンヌ様を歓迎しておりますよ。アレクシス様と同年代の奥様に仕えるよりも、気が楽だーって。あっ、申し訳ありません。今のは失言でございました」
モニカが茶目っ気たっぷりに片目をつむる。その仕草だけでイヴォンヌは彼女が好きになった。モニカとは上手くやっていけそうだ。
けれど……。
イヴォンヌの胸にはまだ重石のようなわだかまりが残っている。
(噂は本当なのかしら……)
若い侍女を侍らせ、夜ごと誰かを寝所に呼ぶという……。
考えまいと首を振るが、その疑念は一向に晴れそうにない。
***
その頃、執務室の奥。
アレクシス・カティックは窓辺に立ち、遠ざかっていくマルティネス家の馬車をぼんやりと眺めていた。
「……怖がらせてしまったな」
第一印象は愛想良く。
耳にタコが出来そうなほどアーネストに言い聞かされていたというのに、イヴォンヌに笑顔一つ向けてやれなかった自分をアレクシスは恥じていた。
「仕方ないだろう、あんな儚い容貌をした幼い娘が俺の妻だぞ? 我が目を疑うだろうが」
まさに美女と野獣。百合とドブネズミ。そんな表現がぴったりである。
アレクシスはため息をついた。イヴォンヌを迎えたことによって、アレクシスの好色家という噂は更に加速するだろう。
十六歳の娘を妻として自分の屋敷へ迎えるなど本当は気が進まなかった。これくらいの年の差婚は貴族社会では珍しくもないが、少なくともアレクシスはためらいがあった。
だが、それでも、興味を持ってしまった。
イヴォンヌ・マルティネスが執筆した新しい農法についての論文を読み、彼女の知恵を欲しいと思った。
彼女が幼くして実母を亡くし、継母に疎まれているという噂は社交界では有名だった。
よほど目障りだったのだろう。アレクシスが縁談の話を持っていくと、ロベルタ・マルティネスはすぐさま飛びついてきた。
嫁ぎ先も決まっていないのであれば、カティック伯爵領で好きなように暮らせばいい。
別に夫が自分でも良いだろうと――そう思った。
だが実際に対面してみると、そのあまりの儚さに胸が痛んだ。
吹けば飛んでしまいそうな小さな体。人形のように整ったかんばせ。乳白色の肌、やわらかに波打つ白金髪、あの怯えた瞳。
まさに深窓の令嬢といった雰囲気のイヴォンヌの瞳に自分のような粗野な男が、恐ろしく映らぬはずがない。
「……あれは良い女になる。先が思いやられるな」
アレクシスは深くため息をついた。まったく。あんなにも美しいご令嬢と寝床を共にするなど、正気の沙汰ではない。
「しばらくは距離を置くか。まずは俺がどういう人間かを知ってもらわんとな」
それが、彼が彼女に与える最初の愛情だ。