第2話:イヴォンヌ、お前にはカティック伯爵家に嫁いでもらう
「イヴォンヌ、お前には――カティック伯爵家に嫁いでもらう。」
薄曇りの午後、書斎に満ちる紙とインクの匂いがやけに遠く感じられる。
イヴォンヌは椅子に座ったまま、指先をぎゅっと重ね合わせた。声が出ない。
「……カティック伯爵家、でございますか?」
ようやくしぼり出した言葉は、自分でも驚くほど小さかった。
重厚な机の向こうで、父のコンラッドは娘を心配させまいと微笑んだ。その瞳は迷うように揺れていたものの、憂いや苦しみの色は見られなかった。
「お父様、そのお話はいつから……」
やっとの思いでそう尋ねると、先に答えたのは継母のロベルタだった。
艶やかな笑みを浮かべ、まるで用意していた台詞を披露するように言う。
「あの領地は王国一の小麦の産地ですのよ。イヴォンヌさんは王都の学園で農作物の研究を学ばれたでしょう? その知識を最も活かせる場所を、探して差し上げたかったの。そうしましたら、折よく、カティック伯爵家のご当主様がご縁談をお探しとのお話を耳にいたしましたの」
その言葉を聞いてイヴォンヌは小さく肩を震わせた。しかし父は気付かない。
ロベルタの声音は柔らかく、けれどどこか、逃げ場を与えない冷たさがあった。
イヴォンヌの胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
確かに、自分は王都の農学課程を修了した。
作物の病害を防ぐ方法、土壌の改良、種の選別――学んだことは多い。
努力を認めてくれる人がいるなら、本来は喜ばしいはずなのに。
けれど今は、違った。
「……お父様も、そのようにお考えなのですか?」
おそるおそる問いかけると、コンラッドは泣いている赤子をあやすような口調で言った。
「イヴォンヌ、私はお前の学びを誇りに思っている。王都のアカデミーであれほどの成績を修めたこと……シルヴェーヌも、きっと喜んでいるだろう。アレクシス・カティックは少々難ありの人物と聞くが……かつては近衛騎士団の団長をも務めていた男。騎士として王からの信任も厚い男だ。彼の妻となれば、お前の将来も安泰だろう」
その言葉に、胸の奥が熱くなる。
父は優しい。昔も今も、変わらない。貴族でありながらどこまでも優しく、穏やかで、清らかで、人を疑うことを知らない。
けれど――だからこそ、父は真実に気付かない。これは前妻の子であるイヴォンヌの存在を疎ましく思うロベルタとその娘であるシンシアが、この屋敷からイヴォンヌを追い出すために仕組んだ縁談なのだと。
イヴォンヌを生まれ育ったこの屋敷の中に居させるのは宝の持ち腐れだ。愛しい我が子を思うなら、羽ばたける場所を探してあげるべきだと。
「カティック伯爵領は豊かだ。お前の知識があれば、人々の暮らしをより良くできるはずだ。……これは、お前の未来のためでもある。」
父はそう言いながら、目を逸らした。
彼がそう信じようとしているのは、痛いほど伝わってくる。
ロベルタが、やわらかく頬をゆるめる。親しげに、愛おしいといわんばかりに。
「お父様の言う通りですわ。あなたほどカティック伯爵家にふさわしいお方はいらっしゃらなくてよ」
扇の先が、わずかにイヴォンヌを指した。
その笑顔の裏に潜む思惑を感じながら、イヴォンヌは静かに頭を下げた。
「……はい。謹んでこの度のご縁談をお受けいたします」
小さな声でそう言うと、父がわずかに唇を開いて閉じた。
「私はいつでもお前の幸せを祈っているよ、イヴォンヌ」
父が本当に言いたかった言葉がその台詞なのか、イヴォンヌには分からない。
――お母様、どうか見ていてください。
私、泣かないわ。
イヴォンヌは背筋を伸ばし、父の前で静かに一礼した。
窓の外では、色とりどりの花々が風に揺れている。
日の光を浴びて咲き誇る庭園の花たちは、少女の決意を映すように、まぶしく輝いていた。