第17話:私、アレクシス様が好きなんだわ
白いもやが地面を這い、夜の冷たさをまだ少しだけ残している。
夜露を吸った草が陽に濡れ、遠くで小鳥のさえずりが目を覚ましたように響いた。その静かな朝に、蹄の音がゆっくりとこだました。
厩舎の前では、二人の男女の姿が並んでいた。
アレクシスは愛馬ローズのたてがみを優しく撫でながら、手際よく馬具を整えている。その横でシンシアは、白いマントの裾を翻しながら軽やかに鞍へ手をかけた。
その動作ひとつひとつが洗練されていて、まるでお芝居のワンシーンのようだ。
イヴォンヌは屋敷の二階の窓辺から、そっとその光景を見つめていた。薄いレースのカーテン越しに、二人の姿が朝の光に包まれて揺れている。
アレクシスが何かを言う。シンシアが笑う。
澄んだ笑い声が風に乗って、イヴォンヌのいる窓辺まで聞こえてくるかのようだ。
息が苦しい。昨晩からずっと締め付けられるように胸が痛む。
昨夜、自分で「二人で行ってらして」と言った。それなのに――どうして、こんなに胸が痛むのだろう。
彼がシンシアを見る眼差し。その瞳の輝きは、いつも自分の前では見せなかった種類の光に思えた。久しぶりの遠乗りで気分が高揚しているだけ。特別な事情などない。
頭では分かっていても、心の奥で本当に? とささやく声がする。
――アレクシスがシンシアに惹かれていることに気付きたくないから、見て見ぬ振りをしてるのでは?
思った瞬間、心の奥に冷たい風が吹いた。イヴォンヌの肩が小刻みに震える。
(私が愛する人はみな……私を置いて行ってしまう)
そういう星のもとに自分は生まれたのではなかっただろうか。
ローズがいなないた。
アレクシスが軽く手綱を引くと、彼は朝日を背にして馬にまたがった。
陽光が彼の栗色の髪を照らし、金の粒のような光が跳ねた。
隣でシンシアの美しい黒髪もまたきらめき、二人の姿が調和するように見えた。
イヴォンヌの唇から、小さくため息が零れる。白い息が窓ガラスを曇らせ、外の景色を滲ませた。
「……私、アレクシス様が好きなんだわ」
自分でも驚くほど素直に、その言葉がこぼれた。誰にも聞かれない独白。ただ、冷たい朝の空気に消えていくだけの音。
でも振り返ってみると、ずっと前からイヴォンヌはアレクシスに心を奪われていたような気がする。
アレクシスが麦の育て方について意見を聞いてくれたあの日の喜び。
悪夢にうなされた夜に東屋で語り合ったあの穏やかで心地よい時間。
恐ろしい獣から自分をかばってくれたときのアレクシスの頼もしさ。
舞踏会の帰りの馬車の中で垣間見た彼の子供じみた素顔。
そのすべてが――イヴォンヌの凍てついた心を溶かすには十分だった。母を亡くしてから、ずっと、愛を遠ざけていたけれど。
アレクシスの太陽のような温かさをイヴォンヌはいつの間にか愛していた。
「アレクシス様……」
アレクシスが弾かれたように振り返った。一瞬、自分の想いが通じたのかと、イヴォンヌは焦る。しかしその視線はまっすぐにシンシアに向かった。
彼女が笑い、軽く頷いたのが見えた。そして二人は丘を越えていった。
ローズの蹄音が遠ざかる。朝もやの中へ、黒い馬と白い馬の姿がゆっくりと消えていく。
イヴォンヌは窓辺から動けなかった。
その場に立ち尽くしたまま、手の中でレースのカーテンを握りしめていた。爪が白くなるほどに力を込めて。
遠乗りなど、いつものことだ。領内の見回りにアレクシスが出かけるのは珍しくない。
けれど、今日は違う。
まるで心の中に、見えない棘が刺さったようだった。抜こうとしても抜けない。それどころか、触れるたびに傷が深くなる。
(お伝えしなければ。アレクシス様に。私の気持ちを)
帰ってきたらアレクシスに告白しよう。あなたが好きです、と。あなたの本当の妻になりたいのだと。
(ねえ、お母様。私をどうか見守っていてくださいね)
イヴォンヌは目を閉じて静かに決心した。
毎日21時に更新。25話+エピローグで完結。全話執筆済みです。




