第14話:どうして、今になって?
麦の穂が風に揺れる季節がやってきた。
陽の光を浴びた金色の波が、屋敷の窓からもきらきらと見える。
イヴォンヌはその景色を自室の窓辺に立って眺めながら、手の中の封書を見つめていた。
淡いクリーム色の封筒には父の筆跡で、丁寧に彼女の名が記されている。
懐かしさと、嫌な予感とが、胸の中でないまぜになる。
封を切ると、紙の上には父コンラッドの穏やかな文字が並んでいた。
――元気にやっているか。そちらの暮らしには慣れたか。
――今年のカティック伯爵領の麦は豊作だと聞く。見事な黄金色で、まるで神の祝福を受けたようだと。聞くところによると、イヴォンヌ、お前の助力あっての豊作だとか。そのことを私は誇りに思っている
そして、文の最後の一行。
――シンシアがその景色を見てみたいと言っている。数日だけ滞在を許してやれないか。
その瞬間、イヴォンヌの指先がぴくりと震えた。
紙を持つ手にじんわりと汗がにじむ。
(……どうして、今になって?)
舞踏会で見たあの夜の光景が、ふっと脳裏に蘇る。
アレクシスの前で謎めいた微笑みを浮かべたシンシア。
そして、彼がそれに返した裏表のない笑顔。
胸の奥で、かすかな痛みが走る。
それは嫉妬ではない。――そう言い聞かせながらも、息が少し苦しい。
昼過ぎ、庭の東屋でお茶をしていたイヴォンヌはモニカに手紙のことを話した。
モニカは給仕をしながら一瞬だけ眉を上げたが、すぐに静かに微笑んだ。
「イヴォン様、嫌なら断っちゃってもいいと思いますよ」
「……え?」
「この屋敷の女主人は、ほかの誰でもなくイヴォンヌ様です。お客様を迎えるかどうかを決める権利は、アレクシス様とイヴォンヌ様のものですから」
その言葉は、優しくも鋭く胸に突き刺さった。
確かにモニカの言う通りだ。それでも――。
「……断ったら、きっと心が狭いと思われるわ。ロベルタ様やシンシアになんと言われるか……。父の不興を買うかもしれませんし……」
「そうなっても良いじゃありませんか。自分の心を削るような選択をしちゃ駄目ですよ」
モニカの声は穏やかだったが、その奥に確かな強さがあった。
イヴォンヌは湯気の立つ紅茶を見つめながら、唇を噛む。
琥珀色の液面が、風に揺れて震えた。
(……私は、どうしたいの? 本当は――)
答えは出ないまま、日が沈んでいった。
その夜。
夕食の席で、イヴォンヌは決意を胸に手紙を取り出した。
アレクシスはワイングラスを傾けながら、静かに彼女の様子をうかがっている。
「アレクシス様……お父様から、お手紙が届きました」
イヴォンヌは息を整えてから、続けた。
「シンシアが、麦の収穫前の景色を見てみたいと申しております。……数日、こちらに滞在させていただけませんか」
アレクシスはグラスを置き、じっと彼女を見た。
灰青の瞳が、薄く光を宿している。
「……本当にそれでいいのか?」
その問いには、疑いと、どこか試すような響きがあった。
イヴォンヌは胸が締めつけられるように感じながらも、微笑みを作った。
「はい。義妹の些細な頼みを断ってしまっては、あまり風聞がよろしくありませんもの。噂好きの方々の良い的になってしまいます」
アレクシスはしばらく沈黙したのち、軽く頷いた。
「わかった。準備はアーネストに任せよう。いいな?」
「もちろんでございます」
アレクシスが再びグラスを手に取る。ワインの赤が揺れ、灯の光を受けてちらちらと反射した。
イヴォンヌは笑みを保ったまま、膝の上で手を握りしめる。指の関節が白くなるほど、強く。
アレクシスの「わかった」が、どうしてか遠く響いて、心の奥を冷やしていった。
(……大丈夫。大丈夫よ、イヴォンヌ。あなたは間違っていない)
そう言い聞かせながらも、胸の奥では何かが小さく軋んでいた。
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