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第13話:今夜の俺はどうかしている

 あのシンシアの意味ありげな微笑みを思い出すたび、イヴォンヌの腹の底はずしりと重たく沈んだ。

 脂っこい料理を食べすぎたときのように、胸の奥が焼けつく。

 どうして――どうして、たったあれだけのことで、こんなにも心がざわめくのだろう。

 彼女は窓を指でなぞりながら、自分の思考の渦に沈み込んでいた。

 外の風の音も、車輪の軋みも、もう耳には届かない。


「……イヴォンヌ」

「……」

「イヴォンヌ」


 三度目に名前を呼ばれて、はっと顔を上げた。

 アレクシスが、どこか面白くなさそうな表情でこちらを見ていた。深い灰色の瞳が、かすかに揺れている。


「ずいぶん考え込んでいたな」

「えっ、あ……申し訳ありません。少し、ぼんやりしてしまって」


 慌てて笑みを取り繕う。けれど口元がうまく動かず、声も少し掠れていた。

 アレクシスは短く息を吐き、窓の外へ視線を逸らす。

 馬車のランプの光が、彼の頬を斜めに照らした。

 その横顔はいつになく冷たく見え、イヴォンヌの胸が小さくざわつく。


(……どうしたの、アレクシス様。こんな顔、今まで一度も……)


 たまらず問いかける。


「体調でも悪いのですか?」


 アレクシスはわずかに眉をひそめ、長い沈黙のあと、低くため息をついた。

 そして、呟くように言った。


「どうやらお前だけではなく、俺も――不倫の心配をする必要がありそうだな」

「えっ……?」


 イヴォンヌは呆然と彼を見つめた。

 言葉の意味が、すぐには理解できない。なぜ、そんなことを?


「予想外だった」


 アレクシスの声は、苦笑と皮肉の間をたゆたっていた。


「お前はずいぶん貴族の若者たちに好かれていたようだな。散々嫌味を言われたぞ。『もっと早くに我が家からも縁談を申し込むべきだった』だの、『あんな年寄りが夫ではお気の毒だ』だの、好き放題言われた」

「そ、そんな……私は、ただ、お話を――」


 イヴォンヌの声が震える。

 あの場で彼女はただ、礼を失しないようにやり過ごすだけで精一杯だった。

 けれど、アレクシスの瞳には、それが違って見えたのだろうか。

 胸の奥に、ちくりと鋭い痛みが走る。

 目頭が熱くなり、視界がぼやける。

 気づけば涙が頬を伝っていた。


「イヴォンヌっ」


 アレクシスが慌てて身を乗り出す。

 彼の表情に、焦りと後悔が交錯する。

 その手が宙で止まり、触れようとして――ためらった。


「……すまない」


 彼は深く息を吐き、頭を下げた。


「面白くなかったのだ。お前が男たちにちやほやされ、取り囲まれていたのが。俺を好いていた女たちの気持ちが初めて分かったぞ。あれは――本当に不愉快だ」

「……不愉快、ですか?」


 イヴォンヌはぽつりと呟いた。

 信じられない、という思いが胸を満たしていく。


(アレクシス様の独占欲が刺激された、ということ?)


 自分と彼は政略結婚。

 そう割り切っていたはずだった。

 アレクシスはいつも紳士的で、イヴォンヌと一定の距離を保ち、触れようとさえしなかった。

 互いに踏み込みすぎない穏やかな関係――それが二人の在り方だと、ずっと信じていた。

 けれど今、彼はそんな彼女に対して明らかに嫉妬している

 アレクシスはなおも、言葉を探すように視線を彷徨わせていた。


「俺は……他の誰かが、お前を見るのが嫌だった。お前が笑っているのを見ると、どうしようもなく……」


 そこまで言って、片手で顔を覆った。耳の先まで赤く染まっている。

 その不器用な仕草が、あまりにも真っ直ぐで愛らしくて、イヴォンヌは気づけば、声を立てて笑っていた。


「ふふっ……アレクシス様って、そういうお顔もなさるのですね」

「今夜の俺はどうかしている」

「ええ、お酒の飲み過ぎかもしれませんね。……でも、私は嬉しい。嬉しいです、アレクシス様」


 イヴォンヌは袖で涙をぬぐった。角砂糖が崩れるようにほろほろと口元がゆるむ。

 アレクシスが大きく目を見開いた。

 イヴォンヌの顔を凝視し、口の開け閉めを何度か繰り返す。アレクシスの手がこちらに伸ばされ、目と鼻の先で止まった。


「イヴォンヌ」

「はい」

「お前は……もう俺のことが……いや、なんでもない」


 伸ばされた手が引っ込められる。イヴォンヌは首を傾げた。アレクシスは今――何を言おうとしたのだろう。

 いつしかイヴォンヌはシンシアのことも、アレクシスを取り囲んでいた女性たちのことも忘れていた。今夜起きた有象無象がもうどうでもいいと思えた。

 今はただ、隣にいるアレクシスの顔を見ていたかった。

毎日21時に更新。25話+エピローグで完結。全話執筆済みです。

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