第7話 とある竜の夢
空を飛んでいた。
どこまでも広がる悠久の青空。眼下には地上との隔たりを示すように、白雲が浮かんでいる。
そして彼女の前方には、複数の竜の姿があった。
天空の支配者。世界最古の生物。神代より自然界の頂点に君臨する最強の生物。
しかしそんな彼らにも家族があり、友があり、所属する群れがあった。
彼女は、その群れの中で迫害されていた。
生まれた時から《竜の息吹》を使えず、空を飛ぶ速度も群れの中で遅いために。
竜の社会は自由ではあるが、過酷でもある。
弱きモノに合わせ、協調するという意識がない。
一日の移動を終えて群れが止まるまで、彼女は必死に空を飛び続ける。
過酷で孤独な日々の中で――遂には、旧き神が遺した呪いが発現した。
意識が黒く染まる。空が灰色に見える。不思議な破壊の力と衝動が湧き上がってくる。
そんな彼女の異変に気づいた竜の群れは、彼女に向けて《竜の息吹》を放った。
白雲を貫き、地上へ落ちる中、彼女は飛び去っていく竜の群れを見上げ――自我を失った。
塗り潰された自我の中でも、無意識に天空を恐れ、どこまでも広がる樹海をその代わりとして、彼女は地上を飛び回る。
破壊の衝動のままに顎を開けば、あれだけ使えなかった《竜の息吹》が発動した。
心地よかった。地上に敵はいない。
味方も、仲間も、友もいない。
何もないからこそ、傷つけられることはない。
この衝動に身を任せ続けていれば、何も考えなくていい。
――それでも、寂しい。
微かに残った彼女の心が助けを求めていたとき。
彼を見つけた。
鬱蒼と生い茂る木々の袂。無様に手と足を縛り上げられた、あまりにも無力な人族の少年。
この魔境で生きていくには矮小すぎる存在。しかし地面を転がりながら楽しげにスキルを使うその姿に、彼女の心は強く惹かれた。
そして。神呪で塗り潰された破壊の衝動が、彼女の自我に反して牙をむく。
翼が強く羽ばたき、上空より少年に向けて降下を始める。
逃げようとする少年の目の前へ降り立った彼女は、《竜の息吹》を放とうと口を開き――。
少年の、無邪気な輝きを帯びた黒い瞳と目があった。
「――《洗浄》」
少年がスキルを使ったかと思えば、突然口内がスッキリする。
そのことを驚く以上に、彼女を支配する衝動が畏れを抱いていた。
漆黒の衝動が少年から逃げるように地上から飛び立つ。
その衝撃で地上に吹き荒れる風に黒髪をなびかせて、彼はじぃっと彼女のことを見上げていた。
そして、その瞬間が訪れる。
全身を綺麗で心地よい光が包み込み、自身を苦しめていた衝動が苦悶の叫びと共に吹き飛んでいく。
意識と自我を取り戻し、空が青く見えて、体が軽くなる。
それと同時に彼女は自覚した。
自身が【神竜】であることと、多くのスキルを宿していることを。
生まれ変わったような心持ちで、恩人である地上の少年を見ると、彼はゆっくりとその場に倒れ伏していた。
しばらくして目を覚ました彼は、彼女がどれだけ心配したかを知らない。
だけど、いきなり襲いかかった彼女のことを彼は事もなげに受け入れてくれた。
そうしてハクという名前を授かった彼女は、地上の広さを知り、孤独を忘れた。
彼は知らない。
彼女がどれほど感謝をしているか。今この瞬間にどれほどの幸せを抱いているか。
大樹の傍で暢気な寝顔を浮かべる少年の顔を見つめながら、彼女は翼を少年の体の上にそっと被せた。
◆ ◆ ◆
「……君も大変だったんだな」
雨風を凌ぐ屋根のように伸びた大樹の幹の下。
屋外で一夜を過ごしたゼスは、寝ぼけ眼を擦りながら夢の内容を振り返る。
竜として空を飛ぶ夢だった。
同族から迫害され、天空から追い落とされたところで夢は途絶えた。
目を覚ました今、それがハクの記憶であるとなぜだかすんなりと受け入れられた。
片翼をゼスの体に乗せ、彼の周囲に寝そべるハクを見つめてぽつりと零す。
するとその呟きに反応するように、ハクの瞼がゆっくりと持ち上がり、黄金色の瞳が露わになる。
「おはよう、ハク。今日から俺たちの拠点作りを頑張ろうな」
「ガルゥッ」
ハクはご機嫌な声を上げながら、鼻先をゼスへと擦り付けた。
定住初日の朝。
全員に《洗浄》をかけてから、一日が始まった。
簡単な朝食を済ませて早々に、ハクはどこかへ飛び立っていく。
ユグシル曰く、「食べ物を獲ってくる!」とのことらしい。
そんなわけで、ゼスはユグシルと二人で大樹周辺の散策を始めた。
「なんだか楽しそうだな」
周囲をくるくると飛び回るユグシルへ声をかけると、彼女は「むふぅー」と鼻息荒く答える。
「当然。私は大樹に宿った精霊。だからこそこうして周囲を出歩くことはできなかったから、すごく楽しい」
「今は大樹に宿っていないのか? 昨日は大樹が自分の体のようなものとか言ってたけど」
「半分そうだけど、半分違う。今はゼスと契約しているから、ゼスの近くなら動き回れる」
「……そういえばその契約について、俺は何も聞いていないんだけど」
ジト目で見上げると、ユグシルは少し照れたように答えた。
「ゼスに要求するものは何もない。契約は精霊にとっての親愛の証。与えることはあっても、奪うことはない」
「……そ、そっか。なんだかありがとう」
「ふふん、どういたしまして」
ストレートな愛情表現に気恥ずかしさを覚えつつ、ゼスは《精霊の眼》で周囲を観察する。
先を見据えて、この機会に畑に植えられそうな作物を見つけておこうという算段だ。
「これは毒……これは栄養がほとんどなくて、これは育てるのが難しい……」
《精霊の眼》を通して脳内に入ってくる情報に驚きつつ、畑作が可能そうな芋や山菜なんかを集めていく。
両手一杯になった作物を白シャツのポケットの裾で抱えると、シャツが土で汚れた。
その汚れに、ゼスは不敵な笑みを浮かべる。
「ははは、それがなんだというのだね! 《洗浄》!」
泡状の光に包まれ、白シャツは元の輝きを取り戻す。
「……ゼス、今綺麗にしてもどうせすぐに汚れると思う」
「そんなのは汚れを綺麗にしない理由にはならないって。それにスキルを使えば使うほど、レベルもあがるだろ?」
「その通りだけど、今のゼスにとってレベルを上げる必要があるとは思えない」
「? それってどういう――」
ユグシルの呟きの意味を訊ねたその時だった。
突然、ユグシルがゼスへ背中を向け、前方を見据えた。
「どうかしたか?」
「……人がいる」




