第11話 其れは最高位の破邪の権能
フローラの話によると、ドワーフの村までは大樹から歩いて一日半ほどかかるそうだ。
直線距離で言えば大したことはないが、ここが足場の悪い森の中であり、途中に川や崖があって何度か迂回しなければならない。
エルフの村にいたときは片道三日ほどかかったと、フローラが苦笑いを浮かべながら語った。
道中は当然ユグシルの結界の範囲外に出ることになり、魔物に襲われるリスクも付き纏う。
その心配をするゼスに、ユグシルは淡い笑みを向けた。
「ゼスなら大丈夫」
「大丈夫って言ったって、俺は魔物と会ったことがないんだぞ」
王太子としての教育の中で、魔物がいかに凶悪な存在かは学んできた。
影や闇を操る権能は、簡素な武具を貫く。
対抗できるのは選りすぐりの個人か、あるいは洗練された一団。
およそ戦闘経験のない自分に何の根拠があって大丈夫だと言っているのか、ゼスは抗議する。
しかしユグシルは涼しい顔で受け流すと、その翡翠色の瞳でじぃっとゼスを見つめた。
「前にも言った。ゼスの《浄化》は最高位の破邪の権能。……大丈夫、魔物に遭遇したらわかること」
そんなユグシルの自信に満ちた言葉に折れる形で、フローラの案内の下、ゼスたちはドワーフの村へ向かうことにした。
ちなみにユグシルは結界外に出たくないようでお留守番。
ハクは遙か上空から見守ってくれるらしい。
「無理はするなよ」
ユグシルからそのことを伝えられたゼスは、なぜだかハクにそんな言葉をかけていた。
「ガルゥ!」
ハクは嬉しそうにゼスの額に鼻先を擦りつけた。
◆ ◆ ◆
出立したのが早朝。それから丸一日歩き続け、すでに日は傾き始めていた。
近くに流れの穏やかな川を見つけ、せっかくなのでその傍で野営することになった。
「――《洗浄》」
ゼスの泡の光がピーターを包み込む。
ピーターは天にも昇るような表情で恍惚とした声を漏らす。
「ふわぁ、やっぱりゼスさんの《洗浄》、とっても気持ちいいですっ。嫌な汗がすっきり吹き飛んで、体は疲れているのになんだか不思議な感じですね」
「ふふん、そうだろそうだろ。いくらでも汚れていいぞ! というかむしろたくさん汚れてくれ! 俺が綺麗にしてやるっ」
得意げになりながらゼスは自身にも《洗浄》をかける。
身体的な疲労はなくならないが、ベタベタと汗が纏わり付く感覚が一瞬でなくなるのは中々に爽快である。
「あれ? フローラさんは?」
「向こうに薪を取りに行くって言ってました」
「そっか。せっかくだしフローラさんにも《洗浄》をかけてくるよ。火起こし、任せた」
「はい!」
ハクがいないので火の確保はピーターに一任した。
彼の【料理人】のスキルの中に火種を作るスキルがあるのだ。
そうでなくてもこの大樹海で暮らすような人間は一から火を起こすことができるらしい。
ゼスもそのうち習得してやろうと心に決めつつ、フローラの姿を探す。
「ん、これって……」
ピーターの示した方に歩いて行くと、川の水音が聞こえてきた。
音のする方を向くと、すぐ傍の枝葉に白い何かがかけられている。
歩み寄って手に取ってみた。
長い布だ。肩紐があって、裾があって、襟がある。
「って、これフローラさんが着てる服じゃん!」
慌てて元の場所に戻そうとして、はらりと何かが落ちる。
地面の上にひらひらと落ちたそれは、シンプルな白の下着だった。
慌てて拾い上げ、木の枝にかけ直す。
この先の川辺でフローラが何をしているのか察したゼスは、すぐさまこの場を離れようとして――気になった。
「い、一瞬で終わるから」
言い訳するように呟きながら、ゼスはかけ直した服を手に取る。
今日一日で汗と泥で汚れているフローラの服へ、《洗浄》を使った。
「ふぅ……満足満足」
綺麗になったフローラの服を眺めてうんうんと頷いていると、後ろから声が飛んできた。
「ゼス、さん……何してるんですか?」
「……あ」
反射的に振り返ると、草木の影に隠れてこちらを窺うフローラの姿があった。
彼女の長い桃色の髪からは水が滴り落ちていて、肌色がちらちらと覗いている。
ゼスは慌てて服を枝葉にかけ直すと、両手を上げながら叫んだ。
「だ、大丈夫! 汗染みも泥汚れも全部綺麗にしたからっ」
「~~~っ、そ、そういうことじゃないですっ!」
◆ ◆ ◆
「本当に申し訳ありませんでした。配慮が足りませんでした。ユグシルにもよく言われるんです。以後気をつけます」
翌日。朝早くに野営地を出立した一行。
ゼスはその道中でも、前を歩くフローラへ謝罪の言葉を重ねていた。
「もう、わかりましたから。私がゼスさんに水浴びすることを伝えなかったのがいけなかったんですし、……その、ゼスさんがそういうことをしないのはわかっています」
頬を微かに朱に染めつつそう応えるフローラの顔を、隣を歩くピーターが覗き込む。
「そもそも姉さんもゼスさんの《洗浄》を受ければ水浴びなんてしなくていいのに」
「っ、ピーター……!」
弟の言葉に顔を真っ赤にするフローラ。
しかし、ゼスはピーターの肩に手を乗せた。
「ピーター、俺にはフローラさんの気持ちがよくわかる」
「え?」
「自分のものは自分で綺麗にしたいんだ。ピーターだって料理はされるよりもする方が好きだろ? そういうことだ」
「な、なるほど……っ」
「……はぁ、もういいです……」
フローラの諦めたような声にゼスたちは顔を向かい合わせて不思議がる。
そうこうしているうちに、最後の難所である小高い丘を越え、ドワーフの村が迫ってきた。
「この木々を抜けた先に鉱脈へ繋がる山があるんです。ドワーフの村はその山の麓に――」
説明をしていたフローラがピタリと足を止める。
訝るゼスだったが、彼女の肩越しに覗き見た前方の光景に得心がいく。
――それは、影であり、闇だった。
足場の悪い森の中。
木々が生み出す陰の中に溶け込むようにして、ゼスたちの前に立ちはだかる異形の存在。
かろうじてわかるのは四足であること。
漆黒の体躯が逆立ち、ゼスたちへ正対している。
例えるなら、黒い狼。しかし実物から放たれる重圧は野生の狼の比ではない。
ピーターが息を呑み、フローラがかろうじて「逃げましょう」と小さく囁く中、ゼスは一歩前に歩み出た。
「ああ、なるほど。ユグシルの言ってたことってこういうことだったのか」
「っ、ゼスさん?!」
魔物の方へ歩き出したゼスを、フローラが慌てて呼び止める。
だが、ゼスはいつもと変わらぬ調子で歩を進める。
(……本当だ。俺にはただの汚れにしか見えない)
神呪に冒されたハクやユグシル然り、彼女の放った黒い葉の攻撃然り、大樹海の中に現れた黒一色の空間然り。
目の前で、呪詛のようなうなり声を上げる魔物然り。
それは世界という布地に染みついたただの汚れとして、ゼスの目には映っていた。
そして彼の本能が囁く。
――この汚れを、綺麗にしなければと。
「LULUAGAGAAAAAA!!」
劈くような咆哮と共に魔物がゼスへ飛びかかる。
フローラとピーターの悲鳴が後ろから聞こえてくる。
そのただ中で、ゼスはただ眼前へ手をかざした。
「――《浄化》」
それで終。それだけで世界の汚れが一つ消える。
鼓膜が破れるような咆哮はかき消え、魔物の体躯が光に包まれる。
そして、闇は清浄な光に飲み込まれて虚空の彼方へと消えていった。
「ん? ああ、ハクは心配性だな。いやまあ俺もちょっと驚いたけど、なんとかなったよ」
ふと足下に影が生まれて顔を上げると、上空から勢いよく降下しているハクの姿が目に入る。
そんなハクに笑いかけるゼスを、フローラたちは唖然とした表情で眺めていた。




