その日消えたものは何か?
「物語を形造るのは"想像"だ。登場人物がどのように生きてきたのか。信条は?そいつにとっての常識は?朝起きた時にまず何をするか?歯ブラシの持ち方は?歩き方に癖はないか?
大きなものから小さなものまで全てを想像し、人生を創造する。そうして初めて、登場人物は物語の中で生き始めるんだ。物語が説得力を持つんだ。」
目の前の男は話し続ける。
「"想像"には"経験"が必要だ。"経験"の無い"想像"は空虚になる。空虚な想像によって生み出された登場人物は、いつのまにか自分の中だけの常識に沿って動くようになる。生気の無い人形のようなキャラクターになってしまう。」
手首を縛る縄は解けそうに無い。椅子から立ち上がることも出来ない。
「"経験"があれば...生きたキャラクターさえできれば、舞台もおのずと出来上がる。舞台とキャラクターが有れば、物語は作り出される。生きたキャラクターが、勝手に動いてくれるんだ。」
頭から流れてくる血は止まりそうにない。肩を濡らし、横腹を伝い、床へ垂れていく。
「君も物書きなんだ。分かるだろう?自らの筆が編み出す物語がどこか偽物に見えてしまう瞬間が。感じたことのない感情を書くとき、どうしても嘘くさく見えてしまう瞬間が。」
.......。
「だから。だからこそ足りないんだ。今僕が書かなきゃいけないもの。それを書き切るには君の協力が不可欠なんだ。『親友の肉を喰らう主人公』を書くためには。」
「...くっだらねぇな...。」
目の前の男は眉を顰める。
「...分からないのかい?いいや分かるはずだ。僕が認めた物書きである君なら、僕の言っている事が分かるはずだ。」
「経験が無いと書けねえとか...てめぇそれでも物書きかよ。ファンタジー書いてる奴はみんな異世界に生きてんのか?ミステリー書いてる奴は全員探偵か殺人鬼か?ちげぇだろ。逆だ。経験してないこと、経験できない事を表現できるのが物書きだろ。」
意識がぼんやりしてきた。それでも、それでも言葉は止まらない。
「読者に自分の中の世界を魅せる事ができるのが物書きの特権だ。それを放棄して経験が必要?キャラクターが勝手に動き始める?ちゃんちゃらおかしいぜ。」
「...残念だよ。君は僕と同じように、経験を糧にする物書きだと思っていたのに。君もただ妄想を書き出すだけの凡人だったのか。」
「...違えよ。てめえは経験を糧にしてるんじゃねえ。経験しか書けねぇだけだろ。事実だけ書きたいなら日記帳でも書いてろ。もうてめえは物書きじゃねえ。ただただ人を喰いたいだけの狂人だ。」
目の前が少しずつ暗くなっていく。
「......ははは。今から死にゆく人間と言うものはここまで無様に見えるのか。親友を喰う、となるとやはり感傷的になるかと思っていたが...。どうやらそうでも無いらしい。今の僕なら、優越感を持ちながらゆっくりとその体を味わうことが出来そうだ。」
もう目の前が真っ暗だ。少しずつ寒くなっていく。意識が、消えて行く。
「...後悔するぜ。最後に、物書きとして言っておく。」
「ははは。その言葉、次の作品で使わせてもらおうか。」
沈んでいく。体は動かない。ゆっくりと、ゆっくりと、死に浸かっていく。
「さあ。どう料理していこうか。」
もう、何も聞こえない。