第9話 side アニー 1
◇ ◇ 一時間前、アニー。
「アニー! ホラ逃げろ! さもなきゃ蒸し焼きだ!」
天井に近い場所から命令が下される。
無慈悲な勧告は、数舜後にはボクが全身を灼熱の溶岩シャワーで溶かされることを意味していた。
ルコック! ランクAの冒険者の癖に、なんて残酷な男なんだ!
「ふぎゃああっ!」
ボクは大型の猫種が悲鳴を上げるときのように、無意識な獣の咆哮を挙げてそれを威嚇する。
しかし、ルコックを始めとして、この賭けに参加している連中は、下卑た笑いと品のない素振りで、ボクの威嚇をあっさりと無意味な物へとした。
それどころか、彼らの興味をさらに悪い方向に注いでしまったらしい。
「ほ、ら、よ」
リーダーの片手が上がる。
ヤバイやつが来る! 本能が叫んだ……逃げなきゃ! 眼前に迫る巨大な魔獣は、上から吹きこぼれた溶岩の一滴に身を焼かれて、凄まじい轟音のような悲鳴を上げた。
今しかない――生き延びるには、今しかない。
ボクは慌てて、視界の隅に見えていた、暗黒へと身を躍らせた。
そこは更なる地下へと続く、はるかなる断崖だった。
光が当たらない底がどうなっているのかはうかがい知ることすらできない。
いままでいた場所はちょっとしたコンサート会場のようになっていて、ボウル状の建物の底に当たる場所だった。
仲間たちはそこに嫌がるボクを行かせた。珍しい魔獣がいるから。
四つ足で、虎のような四肢を持ち、こうもりのような顔を持つ、そんな魔獣が巨大な全身をよこたえて、そこで気持ちよさそうに眠っていた。
わざわざ寝た子を叩き起こすようなことをしなくてもいいのに、仲間たちはボクを突き落した。
数階上の、テラスになっているその場所から、さきほど溶岩を魔獣の上に降らせた男の足によって蹴落とされた。
ふっと、重力から解放され、また捕まって落ちた先は、魔獣の腹の上だった。
にゃーごと可愛らしい声で鳴き、じっとりとした視線で自分の眠りを妨げたやつをにらみつける魔獣。
猫に睨まれたように動けなくなるボク。
猫耳族が猫種の魔獣に餌にされるなんて、笑い話にもならない。
あとはもう簡単で、たった一撃でも喰らえば胴体が真っ二つになるような凄まじい魔獣の攻撃をどうにか回避しつつ、逃げ道を模索し……。
いや、猫が捕まえたネズミを虐めるがごとく、さんざんにいたぶられて、いつ死んでもいいと思っていた。
「おいおいおいおい! なにやってんだよ、アニー! もう疲れたのか、それはないだろう? おまえにどれくらい賭けたと思ってんだよ! あと二分なんとかしろよ、このゴミカスが!」
「やめてやれよ、可哀想じゃないか、ルコック。ほら、見てみろよ、マリー。あのアニーの逃げっぷり。なかなか様になってないか?」
「まあ、エルドレッドにルコックまで。酔狂が過ぎますよ。お二人とも、仮にもランクAの魔猟師なのですから。もう少し威厳というものを大事にしなくては。悪趣味と笑われてしまいます」
「これは失礼。白魔導師のお嬢様には、お見苦しいものをお見せしましたな」
「カナリア。白魔導師の君もそう言いながら、下世話なこのゲームを楽しんでいるように見えるがな?」
「そうね、そうかも」
魔獣から逃げ惑っている間、上から、三者三様の言葉が降ってくる。もう一人、ボクのためにどうかこの最悪なゲームを終わらせようと発言してくれる、あの子がいるはずだった。
清廉潔白で真っ青に澄み切った冬の空のように、一点の染みも曇りもない、そんな女剣士。
主君に忠実で弱気に優しく、まがったことの嫌いなあの姫騎士なら、彼らの非道な行いを止めてくれるに違いない。
少なくとも、ボクは彼女に期待していた。この地獄から早く解放されたいという、そんな欲求が募っていた。
奴隷として購入されてから、もう二週間になる。
その間、彼女は魔物と対決しては生き延びたにボクに、「大丈夫だったか」と優しい声で回復魔法をかけてくれていた。
ああ……でも待てよ。
彼女がこれまで一度でも、「やめてやれ! 可哀想だ!」とルコックやエルドレッドがゲームを始める素振りを見せるたびに、止めてくれたことがあっただろうか?
カナリアのそうかもね、の言葉の後に続いて聴こえたのは「情けない。奴隷のクズが」の一言だった。
そうか、ネル。君もボクを、奴隷だと見下して、この惨状を遊んでいたのか。
そんなことを思い返しながら、断崖から闇へと身を投じた。
もう……許されるなら死んでしまいたい。
彼らから逃げたい、とそんな想いが取らせた自殺行為だった。
しかし、それは叶わない。気付くと、身体はふわふわと宙を浮かび、ルコックが焼き殺した魔獣の亡骸を飛び越えて、落とされたテラスへと戻される。
カナリアの白魔法だった。
たしか、帰還の魔法だったか。こんな惨い使い方もできるのか、と涙する。
待っていたのは、エルドレッドの容赦のない蹴りと、ルコックの硬くて歯が欠けそうになる拳の鮮烈な痛みだった。