第5話 追放と遭遇と
南の辺境、アベンシス市。
北に住む魔王の都に近い土地は、近づけば近づくほど、王都よりも治安が悪く、魔獣も活発に活動すると俺は、同行しているオロン爺に事前情報として聞かされていた。
父親から与えられたものは幌付きの荷馬車が一台とそれをけん引する馬が二頭。御者兼護衛役の五十代の老騎士が一人。
身長は百八十を超え、体格はまだ三十代といっても通用しそうな、金髪碧眼の老騎士。それがオロン爺だった。とはいえ、いまは剣を帯びているだけで、甲冑すら身に着けていない。
荷馬車の中にある荷物の大半が、自分の着る服であることに苛立ちを感じる。
心配性の母親は、貴族の息子がどこに出ても恥ずかしくないように、礼服一式すらも欠かさずに詰め込んでいた。お陰様で、馬車の中に寝るわけにもいかず、初日から野宿する有様だ。
隣町までは二日ほどかかる。
街道にはその間に適当な宿屋となる農家もなく、ただ延々と続く赤レンガ造りの道の両脇に、土地の農民が管理している大麦の畑が連なっていた。
小麦というよりは灰褐色に近い見慣れた景色が、ずっと向こうの山裾まで続いていく。
辺りには山というものもなく、ただ一面の麦畑だった。
「本当に魔獣が出るの、こんなとこに?」
まだ僕、のままで一人称を続けていた俺は、馬たちから続く手綱を握るオロン爺に訊いた。
御者席で二人仲良く並んで座る男だけの旅路。
オロン爺はたくわえた髭をぞりぞりと手でなぞりながら、昼間はまだ、出ませんな、と言葉を濁す。
遠く、百キロ程度向こうに見えるのが、次に泊る予定の街、レットーだ。そこにいくまであと二日ほどだという。
大麦畑と同じ色をしたオロン爺の薄くなった頭を見上げて、俺はため息をついた。
学院の同期生たちにさよならを言う暇もなく、追い出されてしまった。衣服も貴族の服装だと野盗などに狙われるから、平民の恰好をしなさいと言われて、街中の古着屋で購入したものを着せられている。
靴までは交換しなくて良かった。けれど、これまで新品ばかりをあてがわれてきた俺は、他人の中古品を売買するという商売があることに驚いた。
使用人の息子たちが、俺のお古を着ているのは何度か目にしたことがある。兄上たちのお古を与えられた使用人の息子たちもいた。しかし、それは上等な生地で、高価な品だから当たり前のことだと思っていた。
こんな麻とシャツと綿のズボンなんて、ごわごわしていて肌の触感も最悪だ。
途端に貧乏人に堕とされた気分になる。ああ、もう俺は貴族ではなくなったのだと痛感させられて、途端に、虚しさに心が寒くなる。
季節も変わり目で、王都から出たこの場所は遮るものがないふきっ晒しの土地だ。
山から吹きつけて来る北風に首元を撫でられて、俺はぶるっとひとつ、震えた。
「イニス様」
「イニスでいいよ。ただのイニスだ。もう爵位も名乗れない」
「そう言われずに……困ったな。旦那様もしたくてこうしたのではありませんよ」
「それは――」
ひとりで勝手に見捨てられたと思うな、とオロン爺に説教じみたことを言われて俺は反発しそうになる。
オロン爺は、父親の元部下で、若いころは相当ならした凄腕の冒険者だったらしい。
家の中でも執事長に次いで権力があり、主に雑務をこなす者たちの長として、父親を助けていたという。そんな彼とは俺が生れたときからの付き合いだ。
気心を知られ過ぎていて、ふてくされるにも面倒が先に立つ。
俺の言いたいことを理解してくれているのは、ここではオロン爺だけだ。
これから旅先で出会う誰よりも、俺たちの仲は深い。今のところは。
だから、うん……と、軽くぼやく程度に収めた。
「名うての冒険者になって、王都に凱旋しましょうな。爺が手伝いますから!」
「いたっ、痛いって、痛い!」
爺はそのでっかくてぶっとい手で俺の頭を握ると、がしがしと遠慮なく撫でてくる。まるで虎にでも抑えつけらえている気がして、俺は手加減のない握力の強さに涙をこぼしそうになった。
痛いっを連呼してどうにかその枷から逃れると、警戒しつつ、御者席の端の方に逃げ場を求める。オロン爺は反対側に座っていて、ブレーキの管理もあるし、手綱を握ったままではそこまで手が届かないからだ。
「冒険者って……。どうする、のさ」
「興味がありますか? 爺は若いころ、魔王とも戦ったことがありますぞ」
たくさんの味方とともに、魔王軍の一部隊と戦ったことがある、の間違いだろ、と訂正してやりたくなる。魔王と直接対決できるような猛者が、こんな場所で子供のお守りをさせられているはずがない。
「それはどうでもいいよ。でもなりたいとは、思うかな。なれって言われたし」
「旦那様の優しさでございますよ、レイドール伯爵家にイニス様を再度迎えるには、それなりの武功がないと難しいのです」
「呪われたスキルのせい?」
それは難しいですな、とオロン爺はまた顎に手をやる。
考え事をする時の、彼の癖だった。
「坊ちゃんのスキルは、他人のスキルを消去してしまう。実に分かりやすく、とても扱いに難しいものだと聞いております」
「……そうみたいだね」
言われて父親の書斎で読んだあの辞典の内容が、頭によみがえる。
【消去者。すべての技巧を無効化し、消去する】
実に分かりやすいことこの上ない。
俺はこれからなろうとしている冒険者のランクに例えて考えてみた。最低ランク名は知らないが、そこから最上位であるランクSに成り上がろうとするには、相当の努力がいる。才能も必要だし、並外れた経験も積まなければならないだろう。
そうしたものを、瞬時に無効化して、経験と知識だけを遺して、スキルのそのものが消滅する。
努力した人間から、その成果物を奪うのだ。嫌われて当然のスキルだった。
「ワシのスキルは炎属性の、小さな火を操る程度の物ですが」
と、爺が俺に彼の経験を語ってくれる。
「小さな炎でも、数をこなせば――」
そこで馬車から片腕を遠ざけて手のひらを上にしたら、ぼうっと凄まじい火力の火柱が立った。紫色、朱色、青色。さまざまなものが混じって、最後は七色に変化して、黄金となり、墨色にまで黒々と輝いて消えていく。
一瞬の光景だったが、彼のスキルが発動した瞬間、俺の左手がズキンっと痛んだ。
左腕には父親から譲り受けた魔導具をはめてある。銀色の腕輪がキンっと澄んだ音を立てて煌いた気がした。
もしかして、俺のスキルは他人のスキルがどんな形でもいいから発動したら、それに無条件で反応してしまうのかもしれない。全てのスキルを奪いつくのかも――しれない。
「オロン爺はそのスキルで何ができるの?」
「これでですか?」
時刻は夕刻。そろそろ秋になりかけたこともあって、夕方に近づくと太陽は西の山裾に階段を降りるようにして、消えていく。
その反対側から、月がゆっくりと顔を見せつつあった。
そろそろ野営をする準備が必要だ、とオロン爺は話題を変えて、前に見える数本の木が生えた野原を指差した。
多分、農夫たちが昼休憩を取るのだろう、人工的に作られたその土地には、幾つかのテーブルとイス、そして野営する旅人向けになのか小屋の様なものまで用意されていた。
小屋は一段下がった場所にあり、その横には水路なのか小川のようなものが流れている。
サラサラと聞こえてくるせせらぎの音に、俺の心はなんだか落ち着きを取り戻しつつあった。
爺が馬車から野営用の道具類を降ろし、食事の準備をしている合間、俺は小川に落ちないように気を付けながら、周囲の探索を始めた。
まだ十二歳。幼さと、大人の中間地点で、自分のやっていることの分別がようやくつくような、そんな年齢だ。
小川のように思えたものはまだ薄っすらと残っている陽光のおかげで、人工物だと分かった。石を切り出した両岸は飛び越えれるほどに狭いが、深さは俺の背丈ほどはありそうだった。じっと水の行き先を確認すると、水路はより下へ下へと続いている。
しかし、その方向には畑はなく、水路は地下へと続いているようだった。
俺はなんとなく興味を覚えて水路と地面の境目まで探索してみる。
すると、地面にぽっかりと穴をあけた闇の中から、なにやら破裂音と怒声、大きな獣の吠える声と……女の子の悲鳴が聞こえてきたので、びっくりして目を見開き、慌ててオロン爺のところへと飛んで帰った。