第3話 才女の疑惑
「さあ、あなたの番よ。しっかりとスキルをいただいてきなさい、イニス」
「は、はい。お母様」
ごくり、とつばを飲み込む。
いきなり緊張感が増してきて、足がぶるぶると震えた。
すくんでしまった自分の心をどうにか励まして、俺は一歩を踏み出す。
「お、おめがいします!」
言い間違えた。
舌を噛んだことを後ろで待つ両親に知られたくなくて、俺は顔を赤らめる。
水晶の前に立つ神官は「大丈夫だよ、安心して。ゆっくりと手を伸ばして触れるようにすればいい」、と優しい声をかけてくれた。
「あ、はい。お願いします‥‥‥」
今度は消え入るような声でそう言うと、俺は一礼し手を水晶の上に恐る恐る差し伸べる。
母親の髪色と同じほどに深い青の水晶は、いくどか瞬いて銀色の文字をその上に浮かべた。
一般人には分からないよう神代の古代文字が用いられているのだという。
個人上保護の観点からだとか、なんとか。
とにかく、それは俺には分からなかったし、親にもとっても同様だった。
「あ‥‥‥っ。あれ?」
と、神官が慌てた様子で漏らすその声には、不安が混じっている。
おいおい、俺のスキルは何なんだよ。
属性はどうなっているんだよ。
そう問いたいのを我慢して、俺はおずおずと神官を見上げた。
「もっ、もう一度‥‥‥。いいかな?」
「はい。もちろんです」
「もしかしたら、器材の故障かもしれないから」
と取ってつけたように、神官は言い訳がましくそう言った。
彼の視線は隣の列にちらちらと向けられていて、俺のスキル授与の儀式に、彼が集中していないのは明らかだった。エルメスの侯爵家が消えていった神殿の奥を心配そうに見つめながら、神官は再度、俺を促す。
俺はもう一度、水晶に手をかざした。
浮き上がった紋章のような古代文字を見て、神官はやはり「あああっ」と悲鳴を上げた。
今度は聞き間違いようのない、悲痛な叫びをあげて、神官は俺の顔を覗きこんだ。
「破滅‥‥‥」
と、そこに記された古代文字の一部を彼が声に出した時だった。
水晶が白銀の輝きを失い、いきなり真っ暗に染まったのは。
「なっ! 暗黒のスキルだと?」
その一言が合図になったかのように、世界が一変した。
足元にあった大理石の床が、いきなり鏡張りの廊下のように、全てを真逆に写し込んだ。
俺がそれに気づくと、床は別の景色を俺に教えてくれる。
真上だ。天井もまた、同じように鏡になっていた。
いや、違う。丸い円筒のような形状をした、鏡の中に呑み込まれているのだ、と俺が気づくまでに時間はかからなかった。しかし、それは他人に見えるものではなく、ただ俺にだけ視認できるらしい。
手をかざしていた宝珠からひとかたまりの闇が、意思をもつ生物のように這い出してきて、俺の手にまとわりつく。
その感触がぬるま湯の中に手を沈めた時のような温かさで、生ぬるく気持ちが悪いどろっとした液体のように腕全体を覆い尽くそうとしていた。
そして、闇を穿つように神殿のどこからか、紫色の雷が放たれて、闇は力を失ってしまう。
「うわっ、何!」
「おい、どうした?」
思わず叫び声をあげ、自分の着ていた服を抜き捨てて、俺は闇から逃げようとしていた。そこにかけれた神官の声で、ふと我に返る。
「あ、れ……?」
俺の顔めがけてやってきたはずの闇はどこにもなく、周囲の光景はいつものそれに戻っていた。足元も、天井も、特段、変化のない神殿のままだ。
「きゃっ」と、少し間を置いてエルメスたちが入っていった部屋から小さく悲鳴が聞こえた気がしたが、それはほどなくして神殿の壁に吸い込まれて消えた。
何だ? 闇はどこにいった? 雷はいつも間に消えた? 服がどうして焦げ付いていない? 俺の感覚はどこもしびれていないぞ?
子供心に驚いていいのか、騒いでいいのか、焦っていいのか、悲しんでいいのかが分からず、俺は納得のいかない出来事に晒された奴隷のように、憮然とするしかなかった。
そんな仏頂面を見て、神官は「大丈夫か?」と気遣いを装って話かけてきた。
「はい?」
「ああ、いや! いや、何でもない。ありがとう、君の属性と能力は覚醒した‥‥‥あちらで証明書を貰って帰ってくれるかな?」
「ありがとうございました!」
なにがありがとうなのか、まったく理解できないままに、俺はその場を順番待ちをしていた次の相手に譲って席を立つ。
だけど俺と母さんを見送るその視線には、奇妙な意思が混じっていて。
学院の同級生がよく向けてくるそれと同質のものを、俺はよく知っている。
それは――同情という名の憐れみだった。
あの水晶と同じ色に揺らぐ母の後ろ姿を見上げた俺は、後ろ髪を引かれる思いで背後を振り返る。
証明書はきちんと印刷され、丁寧な設えの円筒形の入れ物に入れて、手渡された。
別の神官が二人、母と何やら話していて、俺は聞き耳を立てる。
母はどこか嬉しくなさそうな顔をしていた。
「こちら証明書になります」
「ありがとうございます、こちらは既定のお布施です。どうかお納めください」
「これはこれは。いつもお世話になっております、侯爵様にもよろしくお伝えください」
「ほら、イニス。行きますよ。帰りましょう、お父様にご報告しなくては‥‥‥ね」
「はい、母様」
母が受け取る。蜜ろうで封がされたそれはここでは開けることを拒んでいるらしい。
過去に素晴らしいギフトだと古代文字を読んで理解した連中が、偉そうに証明書を掲げて「俺たちは選ばれた民だ!」とかなんとか叫んだらしい。
それ以降、神殿では付き添い人にギフトの詳細を述べるものの、相談は各家庭でやってくれ、と案内することになったようだ。
差別を助長するとかなんとか、難しいことを言われたが、その時は理解できないでいた。
今なら分かるけれど。
母は敬虔な大神ダーシェ信徒だったから、先例に漏れず、ここで封を開けることも聞いた内容を口外することも無かった。
ただ、神官と後ろに立つ青い法衣のいかにも偉いさんという感じの老人‥‥‥あとから神官長だと俺は知ることになる。
「夫人、気を落とすことのないように」
「神官長様、ありがとうございます。ですが‥‥‥」
「後から陛下の使者が向かうかもしれん」
「えっ、それは、そんな。はい……畏まりました」
とか、彼らが会話していたの耳にする。
陛下とはもちろん、国王陛下であり、その使者が来るとすれば、俺はとんでもないギフトを引き当てたことになる。
だが、気を落とすことのないように、とはどういう意味だろうと子供心に思案していたら、後ろが騒がしい。
奥の方から目を泣き腫らしたエルメスが出て来るのが見えた。
「どうして! お母様、わたしがどうして、そんな‥‥‥。どうして!」
「やめなさい、はしたない。こんな場所で涙を流してそれでも侯爵家の娘ですか、情けない!」
「――っ! お母様‥‥‥?」
俺はてっきり、さっきの雷や闇が関係しているものだとばかり思っていて、責任を問われないかと視線を反らすことで逃げようとしていた。
だが、それは思い過ごしだったらしく、侯爵夫人も、家来の騎士たちも、同様に涙を流していた。俺の勘違いだったのかもしれない。
「母様、一体、何があったのですか」
「お前が知る必要は無いのよ。それよりも自分の心配をしなさい、イニス。他人に構っている暇はないわよ」
「え‥‥‥はい」
普段は温和な母の声が硬質なものに変化する。
試験のテストを自分が受けるような張り詰めた雰囲気を、母は醸し出していた。
今度は親が試験官になり、俺の人生が左右される決断を下されるのかと思うと、心がきゅっとすぼまった。
「戻り次第、お父様とこれについて話します。お前も、もう十二歳……貴族の息子として、弁えて行動するようにね」
「……はい、母様」
優しさがうっすらと抜いていくその空気感が、俺にはどうにも受け入れがたかった。
馬車に乗り、邸宅を目指す。
「イニス」
「はい」
「あの子のことは‥‥‥忘れなさい」
「……」
エルメスのことを指しているのだと理解するまでに俺は数分を要した。
屋敷に戻るまでの道程で、俺はずっと考えていた。
自分の未来。ギフト。覚醒した俺だけのスキル。
エルメスを忘れろという母の言葉。
この年齢の子供にとって、親の言うことは絶対だ。
守らなければならないという強い義務感を強いられてしまい、冷静な思考だって追いつきやしない。
だから、俺は考えることを止めた。
エルメスのことを。考えるのを止めたんだ。