第10話 side アニー2
そして今度は一つ下の階層で、同じように魔獣に追い掛け回されて死にかけている。
はっ、はっ、はっ、は――ッ。
白い息が世界を舞う。
心臓の鼓動が激しく脈打ち、まるで恋でもしているかのように、頬を熱くさせる。
だめだ、もう限界。
ボクの心はもう全開。
足のつま先から頭のてっぺんに至るまでありとあらゆる力を総動員して走り抜けてきた。
自分の感覚では風よりも速く走ったと思う。
疾走。
そう疾走だ。でも、そろそろ失踪しそうだ。
なぜかって?
だって目の前には底が見えず、向こう岸もまた暗黒の最中にうっすらと白い何かが見える程度のものが、どーんと巨大な口を開いて待っているのだから。
もう限界だ。もう限界って言っていいだろう?
ここまでやったんだからもう助けてよ!
ねえ、ルコック!
君たちは今そこで、余裕ぶってボクの晒すこの醜態を観劇している、君たちは!
最強のハンター達じゃないか。
……グリザイア王国が誇る最強の魔獣ハンタークラン【暴虐の顎】のメンバーじゃないか。
どうしてそんなとこで見てるんだよ。
なんでそんなに薄ら笑いを浮かべて、この無様な姿を見て喜んでるんだ!
助けてくれよ。
もう無理だ、本当に無理だ。これ以上は足が進まない。
このまま走り続けていたら、間違いなくあの暗闇の底へと吸い込まれていってしまう。
まずいんだ。
それはまずいんだよ。
地上には、王都にはボクの帰りを待つ家族がいるんだ。
母さんとまだ幼い四歳の妹が――十二歳のボクを奴隷市場に売り飛ばし、自分は日々のんだくれてどこかの女の家に入り浸っている父親の記憶を消した。
あの父親はどうでもいい。
とにかくここで死ぬわけにはいかないんだ……と、叫んでみた。
あらん限りの声を振り絞って、リーダーに助けを求めてみた。
「ルコッーク!」
名前を呼ぶ余裕しかなかった。
リーダーたちは三階ほどある高さの場所から、まさしく高みの見物。
いまはこの死んだ迷宮がボクの墓場になりつつある。
ルコックたち【暴虐の顎】は、王国各地に眠る、休眠したり破棄されたりした迷宮の再調査を国王から命じられた、魔猟師たちだった。
ここもそうだ。探索対象になった元迷宮の一つ。
一通りの調査を済ませて、ようやく最後に見つけたのが――魔獣たちが封印されていた格納庫。
古代の人々は、魔獣を格納庫に封印しておくことで、必要となればその封印を解き、人間か同じ魔獣か、もしくは哀れな犯罪者か。
そのどれかかはわからないけれど、両者をこの闘技場で対決させて、殺し合いを楽しんでいたと思われる……今度はボクが餌食になりそうだけどね!
なんて悪趣味なんだ。
朝からこれで三頭目の魔獣との御対面。
一頭目はライオンの頭を持ち、牛の胴体をもつキマイラのような魔獣だった。
これはある程度、ボクが走り回ってまだ余裕がありそうだったから、仲間の一人は眉間を撃ち抜いて殺してしまった。
そのキマイラの死骸を美味しそうにバリバリと食べてしまったのが、二頭目のガーゴイルだ。
こいつはガーゴイルと言っても、翼があるだけで頭部はまん丸い。
ボールのような頭部のどこからどこまでが口なのか、よくわからない魔獣だった。
ぐわっーと一声嘶くと、そいつはキマイラを美味しそうに頬張って、跡形もなくたいらげてしまった。
こいつとのやり取りはキマイラよりもっと大変で、なんとこいつは、開いた口とは反対方向の後頭部から、にゅるにゅると気持ち悪い触手を数千本ほど吐き出して来たのだ。
炎球の魔法でそれらを焼き切り、胃の奥底から気持ち悪さがこみ上げてくるのを我慢しながら、扱える初級魔法を使うことでどうにか逃げ延びた。
命の危機に瀕しているというのに、他に四人いる仲間のハンター達は面白そうにケタケタと、腹を抱えてボクのカッコ悪さをあざ笑っている始末。
笑うのにも飽きたのか「次だ、次! もっとすごいの行くからなー、ちゃんと逃げろよボケ!」とリーダーが叫んだ途端、二頭目の魔獣は焼け焦げた。
冗談じゃなくて、天空から太陽の光を集約した熱線が、迸る光の柱となって落ちてきたのだ。
その熱線が放出する熱波から、氷魔法で全身を覆い、鼻と口を塞いで、地面にたまたまできていた穴の中に逃げ込んだ。
それが出来なかったら、肺と気管を焼かれて死んでいた。
三頭目がいま戦って――いやいや格好よく言うのはやめよう。
まるで子ウサギが、天空から舞い降りた鷹の猛攻に負けそうになっている、そんな状態だ。
「こっちにくるな、どっかに行け、この間抜けヅラをした三流の魔獣が!」
悪態だけは満足に、言葉とは裏腹に態度はだらしなく。
ペタンと尻餅をつき、四つん這いになり、魔獣の吐く毒霧から身を守るために浄化魔法をせっせと唱え、どうにか生きている。
だけどもう、本当に無理だよ。
だって今さっき、魔毒竜が振り下ろした前足が、四つん這いになって逃げ延びていたボクの腰を強打した。
バキンっと背骨に強烈な音が走り、痛みはなく、しかし下半身が動かない。
恐る恐る後ろを振り向くと、魔獣の手が退いたそこには、かつてボクの下半身だったものが、べっちゃりと潰れて肉の塊となっていた。




