第9話 グライダー海を渡る
ドイツ第11空挺軍団長兼空挺兵総監、シュトゥデント中将は、今日も朝の6時だというのに執務室に入っていた。ストレスで早く目覚めてしまうのである。仕事が溜まっているのも確かであった。大戦が始まってから、空挺部隊は拡張に次ぐ拡張で、空挺部隊のトップたるシュトゥデントが決済しなければならない書類はひどく多い。そしてシュトゥデントは、それほど器用なほうではなかったから、処理にひどく時間がかかった。だがこういう時期こそ、邪魔の入らない早朝には別のことをしたいものである。
不用心なことに、彼の執務室の机の上には、次の目標であるマルタ島の地図が広げっぱなしになっていた。木と厚紙で作った、作戦参加部隊を示すマーカーもあった。最近の彼は、起床直後の時間を、この地図とマーカーと共に過ごしていた。
マルタ島はみかんのような横長の楕円形をしているけれども、これを無理に時計の文字盤に例えてみよう。10時から4時までの右上(北東)の部分は、概ね遠浅で、上陸作戦に適した砂浜が多い。この部分に所々出来ている湾部は天然の良港で、そのうちで最大のグランド・ハーバーはおよそ1時の方向にあった。この周囲を囲むようにして発達しているのが、首都バレッタである。そしてバレッタの南、つまり島の中央やや東に、島で最大のルカ飛行場があった。
当時のレシプロ(プロペラ)機に必要な滑走路の長さはジェット機の場合よりずっと短かったから、イギリス空軍は島に数ヶ所の仮設飛行場を作って航空機を分散させ、全滅のリスクを避けていた。しかし小型の戦闘機はともかく、ドイツの輸送機が降りられるところとなると、まずルカであった。
4時から10時までの南西方向は比較的標高が高く、海岸は切り立っていて普通の上陸作戦には適さない。マルタ島は石灰岩のかたまりのような地勢であまり肥沃とはいえず、港湾周辺に人口が集中するため、重要地点はだいたい北東寄りにあった。
ドイツ第6山岳師団と、イタリアのスペツィア歩兵師団を示すマーカーは、無造作に北西方面に並べられた。これらの部隊は普通の上陸作戦を行う。イタリア軍がかき集めた雑多な舟艇の他に、ドイツ軍の新機材も投入される予定であった。ただ山岳師団のうち1個連隊は6時の方向にわずかにある砂浜から上陸し、まっすぐ北へルカ飛行場を目指す。
イタリアのフォルゴーレ空挺師団のマーカーは、島の中央やや西に、いくぶん縦長に散らして置かれた。上陸部隊は島の西に来る。イギリス軍の主力はおそらく首都と要港のある東に置かれているだろう。上陸部隊が島の西半分を制圧するまで、交通の要所を押さえて増援を阻むのがこの部隊の役目である。サンマルコ海兵隊は7時の方向、ディングリの断崖をよじ上り、砲兵がバレッタを攻撃する際の観測陣地になる高台を確保する。
シュトゥデントはドイツ軍人としてはイタリア軍をそれほど蔑視しない方だったが、それでも作戦のハイライトは自分の子飼いの部下のために取っておいた。ドイツ第7空挺師団のマーカーは、ルカ飛行場そのものを囲むように置かれた。ここから新編成のヘルマン・ゲーリング空挺師団を空輸し、可能ならばイタリア軍の手を借りるまでもなく独力で首都バレッタに襲いかかるのである。
最後にマーカーがひとつ余っていた。この部隊は本当に働いてくれるのだろうか? 当の本人たちもそれを自問自答しているに違いないから、強いて尋ねるわけにも行かないが。
シュトゥデントは、「第102戦車旅団」のマーカーを、疑わしげに第6山岳師団のマーカーと並べた。
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第18戦車師団のほとんどの部隊はワルシャワ周辺に駐屯していたが、第18戦車連隊だけは特殊訓練のためウィーン近くの湖に分遣されていた。
今日も戦車のエンジン音が水鳥を飛び立たせる。フロートに取り付けられた給排気口までパイプを伸ばした、密閉された潜水戦車で湖を横断する訓練である。この潜水戦車は、イギリス本土上陸のための秘密兵器として慎重に秘匿されてきていた。
一群の戦車が湖から姿を現し、隊列を整えて木立の中の空き地へ次々に入って来る。
「状況終了、降車してよし」
中隊長の無線指示で、一斉に戦車のハッチが開いて、ぞろぞろとクルーが降りてくる。狭くて空気が悪い車内から開放されて、腰を伸ばす姿や肩を回す姿があちこちで見られる。
「休憩、各自食事準備」
中隊長の指示を待つまでもなく、視界の隅に烹炊車と炊事当番兵の姿を認めた兵たちは、すでに飯盒を取り出して列に並ぶ準備をしていた。
ドイツの戦車は5人乗りが原則である。操縦士、無線士、砲手に装填手。これだけがサポートしないと、戦車長が戦車長としての分析・判断・命令に専念できないと考えてのことである。では戦車長の階級は?
自分の戦車に乗る限りで最高の職は戦車連隊長で、ふつう大佐である。ただし本来の車長は別にいて、一時的に乗るのであるが。では最低の、戦車1台をやっと任された戦車長の階級はというと、伍長である。戦時下では20才未満の伍長は別に珍しくないから、兵士から兄貴分に見られる戦車長も多い。
伍長よりはちょっと年季が入った軍曹の戦車長に、パンをほおばりながら若い装填手が聞いた。
「軍曹どの、質問してよろしいでしょうか」
「ああ」
「中隊長殿のご機嫌がよろしくないのは、なぜでありますか」
中隊長と大隊長がどうも最近いらいらしていることを、兵士たちは敏感に感じ取っていた。戦車長が目を丸くしたので、装填手は恐縮した。
「そうだな。第1大隊はどこへ行ったんだと思う」
このころの戦車連隊は3個大隊編成であった。この戦車連隊は上陸戦闘用の特殊部隊だったので、第1大隊が軽戦車ばかり、残りは中戦車ばかりという編成になっていたが、その第1大隊が先頃ひっそりとどこかへ移動してしまった。
「軍曹どのもご存じないのでありますか」
「知っていても言えないこともある」
装填手は連続失言に身を縮め、車座のクルーからくすくす笑いが漏れた。
「だが今回については、知らん」
軍曹は首を伸ばして、他のクルーが近くで食事していないことを確かめた。ここだけの話という奴である。
「きっとどこかで上陸作戦があるんだ。だがこの戦車はイギリス上陸まで秘密だから、連れて行くわけに行かなかった。軽戦車だけで手柄を一人占めにされて、中隊長どのは怒っておられるのだろう」
軍曹は口調を厳かに変えた。
「フェルドシュタイン二等兵、貴官が機密漏洩を慫慂した件に対し、当軍事法廷は次の判決を申し渡す」
装填手は像のように固まった。軍曹は顎をしゃくった。
「コーヒーを5杯、もらってこい」
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マルタ島は年間を通じて霧が出るということのない、乾燥した島である。ところがこのところ、霧ならぬ塵が島民と駐屯兵の悩みの種であった。石灰質の土地が爆撃で砕かれて塵となり、ちょっとした風で吹き飛ばされるのである。
今日はその塵に、別種の煙が混じる日であった。週2回に制限されている煙草の販売日である。潜水艦を使ってエジプトから最低限の弾薬などの軍需物資は届いていたが、とても食料などのかさばる物資は運べない。水をくみ上げる井戸も石油がないとポンプが動かなかったから、マルタ島の運命は風前の灯火であった。
陸軍兵士が3人、家の作る日陰で休もうとしていた。マルタ島の空軍と海軍には、イタリアとリビアの間の交通を脅かす困難な任務が山積みであったが、陸軍はひたすら待つのが仕事になっている。そこを見込んで、陸軍部隊はしばしば飛行機の待避壕を作る作業に駆り出されていた。この3人も近くの飛行場で作業している途中で、樹木の少ないマルタ島で休憩時間を日陰で過ごそうとして、人家のある所まで出てきたのである。
日陰には先客がいた。深いしわを刻んだ老人である。座ろうとする3人に、老人は声をかけた。
「煙草はあるかね」
3人は顔を見合わせた。
「ここはわしの家で、この日陰はわしの家の日陰だよ」
ややプロークンな英語で老人は穏やかに指摘した。一番年長の兵士が肩をすくめて、煙草の箱を差し出すと、老人は1本取った。
「大変な戦争に巻き込んでしまったね」
話し掛けられた老人は、応じた。
「イギリスとマルタは一緒に栄え、一緒に滅びる。はっきりしてるよ」
「なぜそう思うんだい」
年長の兵士は、「一緒に滅びる」のほうが気にかかっていた。
「イギリスの船、マルタで補給する。船を直す。酒を飲む。たくさんお金使う」
老人は言った。イギリスがジブラルタルとエジプトの中間にマルタ島を獲得したことは、外国港で補給せずにインドまで往復できる巨大なメリットをもたらしたし、イギリス船がマルタ島に落とす仕事は、面積の割に大きな人口を養えるだけのものであった。
「マルタが他の国のものになったら」
老人は「イフ」を大きな声で発音した。
「トリポリ、チュニス、みんないい港。水ある。食べ物ある。誰もマルタに来ない。私英語話す。みなさんマルタの言葉知っているか」
兵士たちは、首を横に振った。
「俺、英語で自分の名前が書けないんだ」
若い兵士が陽気に告白して、年長の兵士に小突かれた。
「マルタの言葉、アラビアの言葉。イタリアの言葉と違う。フランスの言葉と違う」
マルタ語はセム語族に属し、アラビア語に近い。
「マルタの若い人、イタリアの言葉知らない。フランスの言葉知らない。競争できない。他の港が勝つ」
「そうだな。さあ、そろそろ戻ろう」
年長の兵士が立ち上がった。彼は、マルタが中継港としての役割を減じはじめていることを知っていた。帆船から石炭船、そして石油船への転換が進んできて、エジプトからジブラルタルまで無補給で通過する船が増えていた。もしマルタが滅んでもイギリスは滅びないとすると…
俺たちは、捨て石か。
年長の兵士は、苦い思いを振り払って、仕事場へと戻って行った。
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空挺部隊は新設間もないので、正規将校は極端に不足している。シュトラッサーはまだ軍曹だったが、本来中尉が務めるべき小隊長を拝命していた。50人ほどの部下を預かる仕事を軍曹の給料でやらされているのだから、割に合わない話であった。
シュトラッサーは開戦以来2度ほど実戦降下を経験しているが、今度の任務は桁外れに大規模であった。ドイツにひとつしかない空挺師団-最近できたヘルマン・ゲーリング空挺師団は落下傘降下をしない空輸師団だから、彼に言わせれば空挺師団に入らない-を全部投入するだけでは足りなくて、イタリアの空挺師団も参加させるのだ。
シュトラッサーの実感では、降下は試みる度に危険になってきていた。いまや敵は空挺降下の可能性をすっかり計算に入れていて、完全に奇襲に成功した場合でも、ひどく早いタイミングで敵が現れるのだ。
「どうした、小隊長」
食堂でぼんやりしているシュトラッサーを見て、中隊長のマイセ中尉が声をかけた。マイセはシュトラッサーをわざと小隊長と呼んで、自信を植え付けようと気を使ってくれていた。
「注射みたいなもんだ。すぐ作戦は終わるさ」
「はい、中尉どの」
「君は、士官課程に行く意思はあるかね」
シュトラッサーは言葉に詰まった。別の小隊の小隊長を務めるドルマン曹長が微笑を浮かべてやり取りを聞いている。士官候補生として学校にも行き、その後で部隊配属されているのである。ドルマンはこの戦闘が終わったら軍学校に行って、少尉への課程をすべて終えることになっていた。士官養成課程はどんどん短く、間口はどんどん広くなっている。
「あ、あの、はい、光栄であります」
いま声を掛けられているのは、受験するなら推薦するぞということであった。
「2年経ったら中尉になって、新品の中隊長どのだ。そのときのことを考えて、目先のつまらぬ心配は忘れたまえ。空挺兵はひとりで降下することは決してないのだ」
「おめでとう」
ドルマンが陽気に言い添えた。
……………………
爆弾は、当たるときは当たるが、当たらないときは当たらないものである。そしていつの時代でも、敵弾は当たらなければどうということはない。グランド・ハーバーには大小多数の船舶があって、ドイツ軍の急降下爆撃機にしょっちゅう空襲を受けているというのに、潜水母艦HMSタルボットには今のところ深刻な損害はなかった。いずこも同じ予算不足で、潜水艦のための保護されたドックの建造は認められていなかったので、イギリスの潜水艦はこの潜水母艦が頼りであった。
「どうも怪しい雲行きだ」
シンプソン大佐(マルタU級潜水艦戦隊司令)は、ブリッジの窓から雲一つない空を見上げた。
「空軍はまだ飛行機を回してくれる気にならんのか」
「サンダーランド飛行艇が沈没したのがショックだったのでしょう」
長いことマルタ島の目となっていたサンダーランド飛行艇は、泊地にいるところをドイツ戦闘機に見つかり、先頃撃沈されていた。
マルタには元々、ほとんど飛行機は配備されていなかった。大戦が始まってから、周囲を通りかかる航空母艦に戦闘機を運んでもらっているが、運ばれる尻から連日の空戦で消耗し、現在ではようよう10機強の、それもやや旧式のハリケーン戦闘機が島を守っているに過ぎなかった。大型機なら夜陰にまぎれて本土から直接送り込むことも出来るのだが、唯一配備されていたウェリントン双発爆撃機の小部隊が、ドイツ軍の爆撃により地上で大損害を受け、エジプトに撤退したばかりであった。
当面の問題として、独伊の構えがわからないのがイギリス側としては苛立たしかった。このところ爆撃は昼夜を分かたぬものになっている。夜間爆撃の度に市民も軍人もたたき起こされるが、翌朝になってみるとさしたる損害はなく、対空砲弾薬の浪費と人心の消耗を狙っているようにも見える。
「やはり自分で見に行くしかないか。次に帰還するのはアトモースト(当時マルタを基地にしていたU級潜水艦の1隻)だったな」
「はい、大佐」
「哨戒の往路にタラント(イタリア南部の軍港)を偵察するよう予定を組んでくれ」
「承知しました」
副官は敬礼すると退室した。
もし侵攻があれば、タルボットはアレクサンドリアへの脱出を試みるべきだろう。各種の工作機械を積んだ潜水母艦はかけがえがない。出動中の潜水艦は事態に気がついてくれるだろうか。祈るしかなかった。各艦の乗組員にはその心の準備があるはずだ。マルタ島はイタリアの参戦以来、いつ戦場になってもおかしくない前線の島であり続けていた。
シンプソンはつい2ヶ月前に着任したばかりだった。先月の終わり近くになって、やっとイギリス政府は空しい面子を捨てる決定を下した。ドイツの無制限潜水艦作戦を非難する立場から、地中海のイギリス潜水艦はイタリアとリビアの沿岸以外では無警告で攻撃をかけないよう命じられていたが、この制限が解けたのである。やっと攻撃が軌道に乗り始めたとき、この基地を失うとしたら、それはつらいことだった。
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メルダース中佐(ドイツ第2航空艦隊参謀長)は、もうすぐ28才の誕生日を迎えるところであった。彼はこの当時ドイツ最高の-ということは世界最高の-個人撃墜記録を持っており、穏やかで人付き合いの良い性格もあって、戦時下としても異例のスピードで昇進していた。
彼は航空艦隊司令部と共に、イタリア半島の長靴の先、レジョジカラブリア市に進出していた。今回の空挺作戦では多くの輸送機が相次いで飛び立つ必要があるため、イタリア半島南部とシシリー島のめぼしい飛行場は輸送機と最低限の戦闘機で満杯になってしまい、戦闘機と爆撃機の多くはリビアやサルジニア島に追いやられる始末であった。それらの雑多な部隊を統括し攻撃の秩序を維持することが、メルダースの任務である。いま彼は、航空艦隊司令との打ち合わせの最中であった。
「今朝の海軍からの報告書の写しはもう読んだかね」
第2航空艦隊司令・イェショネク大将は、メルダースに尋ねた。
「また輸送船が潜水艦に襲われたようですね」
「この方面への航空偵察はどうなっている」
「平常時には、ハインケル爆撃機による哨戒が行われております」
イタリア南部からマルタ島の東を通ってベンガジやトリポリに向かうイタリア輸送船団のルートは、今回の作戦空域そのものといっていいから、作戦に直接関係しない水上偵察はおろそかになっている。ご自慢の対空レーダーも潜水艦には無力である。
「爆撃機を分派しても構わないから、警戒措置を取って欲しい。上陸船団の安全を確保せねばならん」
「承知しました」
結局、この措置は不十分であった。練度の高い乗員は上陸作戦のため温存されていたから、経験の浅い乗組員が出動し、大きな見落としをしてしまったのである。
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夜明けにはまだ間がある。温暖な地中海といえども、この時節の早朝の北西風はまだ肌寒い。ドイツ第6山岳師団に属する2000名の兵士を満載した、イタリアの貨客船オチェアニア号は、マルタ島南岸に接近すべく、シチリア海峡を抜けて東地中海に入るところであった。
上陸作戦にはもっと小型の艦艇が望ましいのだが、2個師団に加えてサンマルコ海兵隊を一度に運ぶとなると、上陸用舟艇の数が揃わない。イタリア軍はさっさと自軍の部隊に揚陸艇を割り当ててしまったので、ドイツ軍に貧乏籤を引く部隊が出たのであった。
もっとも、ドイツ軍の力の及ぶ限り、実際の上陸用の小舟艇は用意されていた。第1次大戦で、兵士が長時間無防備状態にさらされて大きな損害を出した上陸作戦があったことから、海岸で迅速に兵士が降りられる舟艇は世界中で開発が進められていた。基本構造はみな同じで、海岸に乗り上げると同時に船首の歩板が倒れて、兵士が一斉に飛び出すのである。1個小隊(50~60人)を運ぶ舟艇は戦車1台と重量がほぼ同じであったから、ドイツは各種車両の工場を動員してこの種の舟艇(ドイツはKLボートと呼んだ)を急造中であった。
突然、前方で砲火が見えたかと思うと、イタリア海軍の護衛艦艇が激しく応射を始めた。リビアへ向かう輸送船団を狙って奇襲をかけてきた4隻のイギリス駆逐艦が、別の大きな獲物を幸運にも-枢軸軍には不運にも-見つけてしまったのである。
護衛に加わっていたイタリア巡洋艦の1隻が、敢えて探照灯の使用に踏み切った。夜陰に浮かび上がる敵の砲火の配置から、イギリス艦は駆逐艦で、巡洋艦がいれば制圧できると踏んだのである。重要な船を護衛していることが、かえってイタリア艦隊をいつになく積極的にしていた。
イタリア巡洋艦からの斉射を浴びて、イギリス艦隊は慌てて反転避退に移った。しかし横腹を見せるついでに、イギリス駆逐艦から伸びた数条の雷跡は、オチェアニア号に悪魔の指のように近づいて行った。
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このところ、かなりの数の島民が、家の外で寝るようになっていた。多くの民家は石造かコンクリートで、寝ている間に直撃弾を受けたら助からないからである。だからイタリア軍のフィアット複葉戦闘機が大挙してマルタ島に押し寄せてきたとき、夜明けから1時間前後だったにもかかわらず、防空壕へ急ぐ島民の反応は素早かった。
見たこともない大群だった。それがまるで寝床を探す椋鳥の群れのようにいくつかの方向に分かれたかと思うと、そのひとつは首都バレッタに直進してきた。
対空砲火はまばらだった。弾薬節約のため、価値の低い戦闘機への砲撃は抑制されていたのである。特に、最も頼りになる市内随所のボフォース対空砲はまったく反撃しなかった。
トラックが連射を浴びて前輪を飛ばし擱座する。引き綱を結んでいた杭が叩き折られ、荷車が石畳の坂道を転がる。対空銃座を囲んでいた、砂を詰めたドラム缶が被弾して鈍い音を立てる。フィアット戦闘機の機関銃は小銃弾と同じサイズだから、よほど当たり所が悪くない限り、何かが爆発するということはない。
最後のフィアット戦闘機が銃弾を撃ち尽くして去っていくまで、長い長い時間がかかった。ひとつ、またひとつ、島民の顔が安全な場所から現れて、外を見る。
静かだ。いや-あの音はなんだ? 震えと共に伝わってくる、甲高い響き。それはほどなく大きくなって、肉眼でも音の主が見分けられるようになっていた。
メッサーシュミット戦闘機だ! しかも翼の下に、不吉な影を連れている。最近のメッサーシュミットは、去年の夏にイギリス本土を襲ったタイプと違って、爆弾や追加燃料タンクをつけられる。
島民たちは感じ取っていた。今日は特別な日だ。ついに、恐れられていた日が来たのだ。
全島のボフォース対空砲が、一斉に射撃を始めた。
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イタリアの誇る新鋭戦艦ヴィットリオ・ヴェネトは、僚艦チェーザレ、ドーリア、リットリオと共に、夜明けと同時にマルタ島の上陸地点近くに猛射を浴びせた。
イタリア艦隊は前年の11月、イタリア南部のタラント軍港に全戦艦を集めたところをイギリス艦載機に襲われ、リットリオはようよう復帰したものの、なお2隻の戦艦が修理中であった。今回も出撃を渋る海軍司令部に、「マルタ島西部からはシチリア島が視界下にある。この位置が危険だというなら、イタリア艦隊はどこにいようとその存在価値はない」とムッソリーニが啖呵を切って、しぶしぶの出撃命令を引き出したものであった。
続いて始まった上陸作戦には、ドイツの新兵器、GLボートが50隻投入されていた。それぞれ1個中隊(200名足らず)の兵員を載せ、直接海岸に乗り上げる大型の上陸用舟艇である。艇体は3プロックに分けてドイツ勢力下の各地の工場で生産され、造船所で組み立てられた。エンジンには、フランスから接収した航空機用エンジンが使われていた。
ドイツ第6山岳師団は、マルタ島北部の港ブギバを挟むように2ヶ所から上陸し、包囲にかかっていた。爆撃機も戦艦も、海岸に向けられた砲座をつぶすようできるだけの努力はしていたが、成果は完璧ではなかった。何隻かのGLボートは兵士を揚陸させる前に直撃弾を浴びた。生き残った兵士を脱出させるために歩板が下ろされると、周囲の海面は赤く染まった。
GLボートと付かず離れず、集団遠泳中の生徒たちの頭のように、数十の砲塔が海に揺られているのに、イギリス兵たちは気づいた。やがて、それらは海岸に姿を現した。浮き輪のように浮航用のボートをかぶせられたドイツの軽戦車であった。同様の処置を施されたイタリアの軽戦車と共に第102戦車旅団を構成する、第18戦車連隊第1大隊の車両群が、いま史上初めて戦車として海を渡っていた。
本来なら時速40キロで走れるはずのこの戦車は、重い荷物を背負ってのろのろと前進した。集中砲火でボートの前半を吹き飛ばされた戦車は、ボートの後半部の重みで車体の前半が浮き上がってしまい、動けなくなった。別の戦車はボートの重みでキャタピラの接地圧が上がったため、砂地に足を取られて行動不能になった。
1台の浮航戦車がコンクリートのトーチカの銃眼を遮るように肉薄した。イギリス兵士がトーチカの上を這い寄り、転がすように戦車のキャタピラに手榴弾を踏ませた。
大音響と共にエンジン音が止まったので、兵士はそっと顔を上げた。兵士の視界には、戦車から上がる黒煙に加えて、ケーブルを送り出しながら小走りに後退するドイツ工兵の姿が映った。兵士は喉から絞り出すような音を立てると、工兵を撃とうと半身を起こし、2丁の軽機関銃から十字砲火を浴びた。彼がトーチカから滑り落ちると同時に、工兵が仕掛けた爆薬に点火し、中にいるものすべてを道連れにトーチカが半壊した。
砲撃と爆撃によって分断され孤立した海岸のイギリス陣地は、ひとつ、またひとつ、ドイツ歩兵の肉薄攻撃で沈黙して行った。数両の軽戦車はGLボートで安全に、かつ本来の状態で上陸しており、これが最後の決め手となった。
イタリアのスペツィア師団の上陸も成功しており、時計盤の9時から12時までたすきをかけたような帯状の地域が、ひとまず枢軸軍の制圧下に入った。
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映画「史上最大の作戦」には、不運にもドイツ軍の駐屯するサン・メール・エグリーズ村に降下したアメリカ空挺部隊が、地上から撃たれて壊滅する印象的なシーンがある。この部隊がここで大損害を受けたのは史実だが、映像としてはこのシーンには嘘がある。降下中の兵士は落下傘があるとはいえ猛スピードがついているため、めったに弾には当たらないのである。
むしろ危険なのは、無防備なうえ邪魔な落下傘をつけたままの降下直後である。ドイツ軍では柔道の受け身のような発想で、着地直後に前転してショックを和らげるよう訓練していたが、石灰岩の塊のようなマルタ島では、空挺兵はかなりの確率で固い岩の上に着地して体を打ち、しばしば骨折した。シュトラッサー軍曹が腰を打って息が詰まる思いをしたのは、だからまだましと言わねばならない。
ドイツ軍は世界に先駆けて空挺部隊を実用化したため、後の英米の空挺部隊では克服されたような初期の問題点を抱えていた。パラシュートの構造上、両手を水平に開かないと空中での姿勢が乱れるため、拳銃を超える武器を携帯できなかったのである。小銃や機関銃は、緩衝装置とパラシュートのついた特製の箱に詰められて来るのだが、この箱に走り寄って武器を手にするまで、ドイツの空挺兵はまったく無防備といってよい。
ひっきりなしにイギリスの機関銃が音を立てていた。幸いすぐ近くに箱が落ちていたが、うかつに頭は上げられない。シュトラッサーはそろそろと匍匐して箱の中に手を入れた。しめた! 短機関銃が入っている。銃を取り出し、予備弾倉ケースを求めてまさぐるシュトラッサーの指に、ひやりとしたものが触れた。
どうやら箱の向こうに、戦友の死体があるらしい。同じ箱から武器を取り出そうとして撃たれたのだろう。弾倉を見つけたシュトラッサーは、周囲のドイツ兵の配置を眺めた。50メートルほど向こうにちょっとした集落があり、ひっきりなしにドイツ兵が駆け込んでいる。思い切って立ち上がったシュトラッサーは、集落へ駆け出す途中ちらと戦死者を見た。
マイセ中尉であった。
「早く! 早く!」
集落から聞こえてきたドイツ語の怒声が、シュトラッサーを現実に引き戻した。
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集落に走り込んだシュトラッサーは、独り言のようにつぶやいた。
「マイセ中尉が戦死された」
「シュトラッサー軍曹どの、こちらへ」
近寄ってきた兵士が、半ば強引にシュトラッサーを民家のひとつに引きずり込んだ。
「マイセ中尉が……」
シュトラッサーはまだ言っていた。命令者が欲しかった。他の小隊長-ゼンガー中尉か、ドルマン曹長-の指示を受けたかった。
「知っている」
弱々しい声が聞こえた。ドルマン曹長は寝かされていた。軍服の腹に血がにじんでいた。ひざまずくシュトラッサーに、ドルマンは言った。
「今のところ、君が最高位者だ。中隊の指揮を執りたまえ」
「ゼンガー中尉どのがおられます」
「連絡が取れない。急がねばならんのだ」
後の調査で、ゼンガー中尉の乗ったグライダーは行方不明になっていたことがわかった。曳航索が切れて地中海に沈んだものと推定されている。
「しかし」
「訓練と同じだよ、小隊長。兵士が」
ドルマンはせき込んだ。
「兵士が動揺する。早く姿を見せてやれ」
ドルマンは、地図ケースをまさぐり取ると、シュトラッサーに差し出した。
「いいか…僕のところへいちいち戻ってくるな。君のいるところが中隊本部なのだ」
言い終えて、ドルマンはひどく消耗したようであった。
シュトラッサーは何も言えず、民家を飛び出していった。軍曹が何人か集まっていた。彼らは彼らの知る範囲で、部隊の状況を報告した。
今連絡のとれるのはどうやら半分ほどの兵士に過ぎなかった。ルカ飛行場方面のイギリス軍は有力で、準備が出来ていた。上陸に先立つ砲爆撃が、全島のイギリス軍に対する警報の役割を果たしたのである。シュトラッサーの中隊は最も空港寄りに降下していたので、最も激しい抵抗を受ける立場にあった。
しばしの沈黙があった。すでにドルマンは、連絡が取れ次第指揮をシュトラッサーに譲る旨を周知させているのに違いなかった。みんな明らかに、シュトラッサーが口を開くのを待っていた。
「ゲーリケ軍曹」
「はい」
シュトラッサーはかさかさの唇をなめた。ここが大切なところだ。
「私を除いて、君が目下のところ最先任の下士官だ。中隊本部で私を補佐して欲しい」
ゲーリケは小隊長ではなかったが、軍曹としてはシュトラッサーより先任であった。
「はい、中隊長どの」
ゲーリケの返事には無機的な響きがあった。
「ヘンドリック伍長」
ヘンドリックはシュトラッサーの小隊の機関銃班長で、陽気な若者であった。後輩だしつきあいが長いから話しやすい。
「はい、軍曹どの」
「当面、中隊はこの集落を確保する。中隊のすべての機関銃の所在を確認して、適切に集落が防御できるよう再配置せよ」
「はい、中隊長どの」
今度は、別の分隊長が呼ばれた。比較的集まりの良い分隊である。
「ハウゼ軍曹」
「はい」
「君の分隊を率いて、道路沿いに北側へ進出し、次の十字路を確保せよ」
そうだ。自信を持ってやれ。マイセ中尉がささやいてくれているような気がした。
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オチェアニア号は乗り込んだドイツ軍兵士の半数とともに沈没し、残りの半数は護衛艦艇に救助されて助かったものの、装備の一切を失って上陸は不可能であった。悲報を聞いたシュトゥデント中将は、地図を前にしてうなった。
数分考え込んだが、結論は最初に思いついたひとつしか見つからなかった。シュトゥデント中将は軍団司令部の幕僚たちを集めた。
「第2次降下が必要だと思う。1個連隊の穴を埋めるのだ。突撃連隊の所在を確認してくれ。まだ飛行機には乗っておらんだろうな」
ヘルマン・ゲーリング空挺師団は、グライダーや輸送機で着陸する、いわゆる空輸部隊として編成された。ただしその第3連隊には、降下訓練を受けた空挺突撃連隊がそのまま編入されていたから、段取りは大幅に狂うけれども、これにパラシュート降下を命じることは可能であった。空挺突撃連隊の名称の由来を説明すると長くなるので、この連隊はパラシュート降下訓練を受けた4つの連隊のひとつで、ただひとつどの師団にも属さない独立連隊であった、とだけ申し上げておこう。
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そのユンカース輸送機はたった数機でやってきたので、地上にいる兵士たちには、まるで何かの手違いで迷い込んで来たように見えた。パラシュートで降下してきた人物のひとりは、50がらみのやせぎすのおっさんである。それが驚いたことに、空挺兵大佐の肩章をつけているのである。
「なんてこった、ラムケ親父だ!」
シュトラッサーの傍らの若い兵士が声を上げた。兵たちがわいわい騒ぐ中、数十人の空挺兵たちは、その親父を先頭に集落に入ってきた。
「第1空挺連隊、第1大隊第3中隊の指揮を執っております、シュトラッサー軍曹です」
「空挺訓練大隊長、ラムケ大佐じゃ。中隊長は戦死されたのか」
「遺体をまだ収容できません」
「それは気の毒に。だが後ろの方も大変でな。ズスマン師団長が負傷されて、わしが代理で行くところじゃよ」
実際には戦死していたのだが、士気を慮ったラムケは師団長の死を伏せた。
「山岳連隊がまだ進出してきませんが、何かあったのですか」
「ふむ」
ラムケは眉をぴくりと動かした。
「手違いがあってな。奴等は来んよ。代わりに突撃連隊が今日のうちに降下することになった」
シュトラッサーがこの重大情報を反芻している間に、ラムケは若い兵士たちに向けて声を張り上げた。
「同情するぞ、若い衆。じゃが、おまえたちは十分に絞り上げられているからの。この程度の厄介ごとは、十分にこなせる。そうじゃのう」
教え子たちは歓声で老教官に応じた。
「では、行くとするか」
ラムケは、わずかな増援部隊-早朝に輸送機のトラブルなどで降下しそこねた兵員たち-を連れて、師団の主力を求めて南下していった。
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マルタ島総督・ドビー空軍中将は、官邸の地下壕で状況を検討していた。
ジブラルタル、アレクサンドリアのいずれのイギリス艦隊も、独伊の完全な航空優勢下にあるマルタ島に敢えて突入することはできないと通知してきていた。残るは空軍だが、島で最大のルカ飛行場がドイツ軍に奪われないまでも、イギリス機の着陸の安全を保証できない段階に入っている現在、航続距離の長い大型機による支援すら受けられそうになかった。
「シンプソン大佐に、タルボットで出港するよう伝えよう」
総督はつぶやいた。今日なら間に合うかもしれない。タルボットで脱出させる人間のリストが一瞬総督の頭に浮かび、すぐにすっかり消された。単独での脱出そのものが危険な試みなのだから、戦闘要員以外は乗せるべきでない。
シンプソンが残ると言い出したらどうしよう。シンプソンの心は潜水艦乗りと共にあるから、彼は少しでも長く彼らと共に戦えるチャンスを求めるだろう。だから説得も可能だろう。
彼がたとえグランド・ハーバーを出ないうちに撃沈されるとしても……とドビー総督は思った。最後の最後まで戦うことを許される、彼がうらやましいと。
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シンプソンは陸軍の現状把握をもれなく聞かせてもらえる立場になかったが、ドビー総督から脱出勧告が来るようでは、状況は絶望的と見るしかなかった。
潜水母艦は潜水艦を整備するための工作機械を大量に積んでおり、これらはどこの軍でも常に欲しがっているものであった。ドイツ軍の手にこれらが渡らないよう、シンプソンは最善を尽くさねばならなかった。
自沈か、脱出か。自沈すれば逃亡者の汚名は着ずにすむ。いっぽうもし脱出に成功すれば、タルボットはアレクサンドリア港の潜水艦群にとってまたとない贈り物になるだろう。
シンプソンは自分の置かれた立場を考えた。いまイギリスはマルタに注目している。彼の行動は、どのようなものであれ、すべての潜水艦乗りと、すべてのイギリス人へのメッセージとして受け取られるだろう。
「脱出する。出航準備だ」
シンプソンは指示した。魔法が解けたように部下が動き出し、出航準備の様々なステップを展開し指示する声が艦橋に満ちた。
最後まで希望は持たねばならない。シンプソンはそうしたメッセージを送ることにした。
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シュトラッサーは腕時計が見たくて仕方がなかったが、新月の空の下では文字盤が読めなかった。彼の中隊は集落を出て、ルカ飛行場へわずかににじり寄っていた。夕刻近くなって降下してきた突撃連隊のバックアップを受けて、今宵のうちに夜襲をかけるのだ。
だしぬけに、それはやってきた。何度聞いても慣れることのできない、あの風切り音とともに、大気は赤く染まり、大地は震えた。イタリア戦艦群が、準備砲撃を引き受けてくれているのだ。土砂の飛沫が、伏せたシュトラッサーたちの背中に降りかかる。なるべく飛行場そのものには着弾しないようにしているはずだが、この様子ではすぐに輸送機が降りることは無理かもしれない。
シュトラッサーの背中を揺すぶる者がいた。
「ラムケ師団長代理より伝令です。島の西側は友軍が完全に制圧しました。どこにいようと、空挺兵の心はひとつである。勇敢であれ、とのことです」
「了解した」
ふたりは怒鳴りあった。
伝令兵は帰ろうとしない。
「どうした」
「……」
「聞こえんぞ」
「ドルマン曹長どのが、亡くなられました」
砲声が、全くシュトラッサーの耳に入らなくなった。
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また1軒の民家が、38センチ砲の直撃で瓦解した。
「運命の日だ! 運命の日が来た!」
両手を挙げてよろめき叫ぶ老人の声は、やがて折り重なる石壁の残骸の向こうに消えて行った。風が熱い。爆炎の作り出す熱風が、聖ヨハネ騎士団時代以来営々と築かれてきた石垣に封じ込められ、バレッタの町を駆け巡っている。
「船が出る! ネービーが逃げるぞ!」
誰かが叫んだ。静かに、嘘のように静かに、潜水母艦HMSタルボットは、ラザレット・クリークの停泊場所を滑り出し、港外への脱出を試みた。
脱出は成功するように見えた。イタリア戦艦はバレッタの海岸砲台との対決を嫌って、島の北西部沿岸にとどまっていたし、巡洋艦と駆逐艦は襲い来るかもしれないイギリス潜水艦を警戒して戦艦の側を離れようとしなかった。
シンプソンの目に、燃え上がるバレッタの光景が沁みた。声が出なかった。人の言葉で表現できる光景ではなかった。シンプソンは顔を背け、ブリッジに入ろうとした。
「左舷に雷跡!」
観測員の叫びが聞こえた。そうだ。当然その可能性はあった。港から脱出して来る船を狙って、イタリア潜水艦が配置されていたのだ。
艦が大きく揺れ、やがて傾いた。タルボットの艦長を兼ねるシンプソンは艦橋に駆け込んだ。損害報告を受けるまでもなかった。
「総員退避」
シンプソンは叫んだ。シンプソンの視界の隅に舵輪が入り、消えた。古式ゆかしく艦と運命を共にするくらいなら、自沈を選ぶべきだった。彼は無人となったブリッジで機関を停止させ、兵士たちがスクリューに巻き込まれることを防いだ。
生きてあれば、脱走のチャンスはあるだろう。シンプソンは航海日誌を防水袋に入れて首からかけると、階段を降りていった。
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3人目のイギリス兵と格闘したところまでは覚えていた。始終何かが爆発していた。夜陰の中で戦線は消滅し、中隊本部は露出した。兵士は弾の切れた軽機関銃を捨て、殴り合うためにスコップか、手近な長くて硬いものを握った。時折気まぐれに打ち上げられる照明弾が、いくつもの生と死を分けた。シュトラッサーは部下とはぐれては出会い、何度も繰り返される遭遇戦の中でまたひとりぼっちになり、最後に困ぱいして倒れた。
冷たさを取り戻した風が、シュトラッサーを目覚めさせた。起き上がると、シュトラッサーは滑走路そのものの上にいた。敵と味方の、生きている体と死んだ体が朝日を浴びていた。
仲間は、すぐにシュトラッサーを見つけて歓声を上げた。皆が空港の管理棟を指差した。通信アンテナとおぼしき鉄塔に、白旗が翻っていた。夜明け直前、ドビー総督はドイツ軍に降伏を申し出たのであった。
「中隊長どの」
振り返ると、ゲーリケ軍曹がそこにいた。ゲーリケは汗と泥にまみれた軍服で、シュトラッサーを抱いた。
「よくやったぞ、小僧」
周囲の空挺兵が駆け寄ってきた。皆大声で笑いながら、シュトラッサーの頭や背中や尻をぺたぺたと叩いた。笑いながら、気がつくと、みんな泣いていた。
ヒストリカル・ノート
ドイツの空挺兵はふつう原語を生かして「降下猟兵」と訳されます。この作品では米英の同種の部隊と同じ語を当てた方が、軍事マニア以外の読者に便利であろうと考え、あえて定訳に逆らいました。
ドイツ第7空挺師団の、中尉以下の階級の面々は架空の人物です。ところで第7空挺師団はドイツ最初の空挺師団ですが、当時航空機部隊を大きく束ねる組織として6つ(第6師団は結局編成中止)の「航空師団」があり、この師団は第7航空師団として発足したのです。後に、第1空挺師団に名称を変更しています。
第7航空師団はそれでも、陸軍の師団に準じて3つの空挺連隊を持っていましたが、クレタ島攻略作戦に先立って4つ目があらわれました。これは1940年春以来、大隊単位で小規模な効果作戦をやっていた部隊が集められたものです。クレタ島作戦が終わると方々で火消し部隊のように使われ、1943年に第2空挺師団が編成されるとき、空挺連隊の母体となって消滅しました。いっぽうマインドル連隊長とそのスタッフは東部戦線に行って、いわゆるマインドル師団司令部の母体になりました。これは飛行場を守る空軍所属歩兵部隊の先駆けとなり、じつはマインドル師団そのものの歩兵部隊は陸軍の保安部隊がもとになっているのですが、空軍からも要員がかき集められて空軍野戦師団がつくられていきました。
第18戦車連隊は実際に潜航戦車と浮航戦車を装備していましたが、大隊の編成は筆者の創作です。イタリアのM13/40戦車は浮航戦車に使われたドイツの2号戦車とほぼ同寸法・同重量ですので、同種の処置は施せたと思われます。
マルタにおけるイギリス空軍の窮状は、史実よりわずかに誇張してあります。 ドイツ軍が歩板式の上陸用舟艇を持っていたのは事実ですが、KLボート、GLボートは架空の兵器です。KLボートは概ね旧日本陸軍の大発動艇、GLボートは高速輸送艇(ただしエンジン出力を下げて低速にする)に相当します。
ドイツ空軍は1936年に始まるスペイン内乱で、すでにMe109戦闘機に落下増漕を取り付けるテストを済ませています。ただ上層部が落下増漕という資源浪費的な発想を嫌ったのと、増漕の取付架の空気抵抗が大きかったこと(最高速度が50キロ落ちたといわれます)により、1940年には実験部隊での運用にとどまりました。この世界では、そのとき使われたMe109E-7が地上支援用に量産されたと想定しています。じつは実際にMe109E-7に始まって、Me109とFw190による地上攻撃専門の部隊は数多く編成され、旧式化したJu87や、地上攻撃も担当するはずがうまく行かなかったMe210を補いました。
ラムケ大佐は史実では有名人なのでファンサービスで出しました。多少誇張してありますが、この時点でラムケが50才を超えていたのは事実です。
じつはこの第9話は最も修正が必要だった話のひとつです。第2次大戦中のドイツ士官の選抜・教育システムが当時わからなかったからです。「第2次大戦当時に偉かった人たちの若いころ」というのは第1次大戦前であって、戦時下とは事情が違うのです。もちろん、読者のほとんどにとって、エルフの村を襲うオークが剣を持っているか斧を持っているかくらいの差で、そこはあまり差を感じるところではないでしょう。