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第6話 双発機戦争


 今日のガーダモン基地(ノルウェー、オスロから北に50km)はよく晴れて、満天に星々が鈍くきらめいている。よい写真が取れるだろう。イェンセンは明るい気持ちで、まだ暗い空を見上げた。春まだ浅いオスロでは、夜明けまでまだずいぶん間があった。


 この基地はノルウェー陸軍練兵場であったのを、大型機が発着できるよう長い滑走路をドイツ軍がしつらえ、1941年4月にようやく完成したものであった。洋上哨戒機の活動の様子をドイツのメディアに載せるために、空軍宣伝隊からイェンセン記者が派遣されて、哨戒飛行に同乗することになったのである。


 イェンセンは誰何を受けた後、あまり堅牢とは言えない兵舎に入った。燈火が漏れるのを防ぐための窓の黒カーテンを除いては、装飾の類は一切ない。イェンセンはほっとした。これまでの取材先の中には、占領地の美術品をごってりと飾り付けているところもあって、イェンセンはそういう司令官にはなじめなかった。


 基地司令官、飛行隊長との短く儀礼的な挨拶が済むと、イェンセンは空軍大尉の肩章をつけた20才台半ばの人物を紹介された。今日同乗させてもらう哨戒機の機長、ブルフミュラー大尉である。みんな階級の割にひどく若いことと、年齢の割に大人びた雰囲気を持っていることがイェンセンの印象に残った。


「君がイェンセンか。便所には行ってきたか」


 それは初対面の握手をしながらの挨拶としては妙な言葉であった。


「出発までそう時間がない。出発直前は便所が込むからな」


 数秒かかって、やっとイェンセンの頭の中で、話の空白が埋め合わされた。これから同行する哨戒飛行は、ノルウェーからイギリスとアイルランドをぐるりと迂回してフランスのボルドー・メリニャック基地に降りるもので、滞空時間は14時間に及ぶと聞かされている。そして機内には便所はないのだった。


……………………


 特別の好意で、高官専用のトイレを使わせてもらったイェンセンは、ブルフミュラー機長と肩を並べて、一般乗組員の集会所がある兵舎に向かった。


「あれは何だか知っているか」


 ブルフミュラーは飛行場の端、というより飛行場の隣にそびえ立っている囲いを指差した。夜明け前のことで、直線で構成された巨大な壁は黒々として、刑務所のような不気味な威容を見せている。


「Uボート基地のブンカーに似ているようですが」

「そうだ。哨戒機用のブンカーを今作っているところだ」


 ブンカーは防空壕や堅固な陣地を指す一般的なドイツ語である。ヒトラーは大西洋での戦いに関係する工事や器材の優先順位を引き上げたので、哨戒機のブンカーまで作ってもらえることになったのである。ただし工事中でまだ屋根がない。


「哨戒機は何機あるんです」


 イェンセンは何気なく尋ねた。


「軍籍簿の上では30機以上あることになっているが、実際には20機というところだな」


 ブルフミュラーはあっけらかんとした口調である。巨大な矛盾にあえて目をつぶるとき、人間は時々こういう態度を取る。

 ヒトラーの-今のヒトラーではない-悪い癖は、軍需物資の生産量にこだわりすぎることであった。補修部品として部品を前線に送れば、それを組み立てて完成品として前線に届けた場合よりも、生産数は減る。当たり前のことである。この当たり前のことをヒトラーは無視した。生産数を伸ばすようにヒトラーがしつこく督励するために、ついつい航空機や戦車の補修部品の供給は削られることになった。前線では仕方なく、修理すればまだ使える機材から部品を取って修理部品の足しにした。こうして、戦列復帰の当てのない「長期修理中」の機材が増えていったのである。もっとも整備班も最近は賢くなって、ある程度損傷した機体を「修理不能」と報告して廃材扱いにしてから部品を取ることもあった。そうすれば真新しい補充の部品、いや機体がもらえるかもしれない。

 それにしても30機は少ない。


「ここの爆撃航空団は、Fw200を装備している唯一の部隊でしたよね」

「そうだ。大型機の生産機数がどれだけ少ないか、記事に書いてもらいたいくらいだ。もっとも、あまりあっても全部を飛ばすことはできないが」


「なぜです」


 ふたりはもう集会所の近くまで来ていて、出撃準備の整ったFw200が何機か滑走路の脇に見えていた。4基のエンジンを持つFw200はさすがに巨大である。Fw200はもともと長距離旅客機としてルフトハンザ航空が発注したもので、旅客機としての愛称「コンドル」が今でも通り名になっている。窓のほとんどはつぶされているが、凹凸の少ないドジョウのような胴体に、どこか民間機の雰囲気が残っていた。


「あれは何だと思う。翼の下にある、細長いものだ」


 ブルフミュラーは、翼の両端近くに釣り下げられている流線形のものを指した。


「爆弾ですか」


「君はまだましなほうだ。この前やってきた党のガウライター(大管区指導者。党と政府は一体化しているので、その役割は県知事に近い)なんかは、予備のエンジンではないかとぬかしおった」


 ブルフミュラーは辛辣に言った。


「あれは予備燃料タンクだ。それぞれ1000リットル入るから、あれだけで2000リットルだ」


 ブルフミュラーはイェンセンの顔をしげしげと眺めたが、イェンセンが期待通りに驚かないので、続けた。


「メッサーシュミット戦闘機(Me109)の燃料タンクの容量は、400リットルだ。あれだけで5機分だな」


「ほう」


 イェンセンはやっと驚いた。


「胴体の中のタンクを入れると、容量で10400リットルあまり、重さで7トン以上になる。それが毎日、4機飛んでる」


 ブルフミュラーは肩をすくめた。この4機が消費する燃料(それもフランスからの復路を含まない)はドイツの1日あたり航空燃料生産量のおよそ1%にあたっていた。


「この他に飛行艇と水上機がいろんな基地から飛んでいる。それを狙いにイギリスの双発機が飛んでくるから、それを追い払うためにドイツも双発機を飛ばすことになる。人類の歴史の中で、これほど少数の人間が、これほど大量にガソリンを使ったことはないだろうな」


 ブルフミュラーは案外饒舌な男だ、とイェンセンは認識を改めていた。


 エンジンひとつの普通の戦闘機ではこの種の任務には航続距離が足らず、さりとてFw200のような4発機はドイツもイギリスもそうそう数をそろえるだけの生産力がない。大西洋上の空の戦いは、双発機戦争とも呼ばれ始めていた。


----


 Fw200はもともと旅客機だと聞いていたが、ドアをくぐったイェンセンは通路の狭さと中の暗さに驚いた。その原因は、中央の通路をはさんで両脇にそびえる左右3つずつの直方体である。


「燃料タンクだ。床下と、翼の内側にも少し燃料が入っている」


 後ろからついてきたブルフミュラーが怒鳴った。


 機首のブリッジ(操縦室)へ出ると、窓から早朝の空のほの明るさが漏れてきて、救われたような気持ちになる。とはいえ所狭しと計器だらけなのは仕方がない。長い航程に備えて操縦装置は二重化されていて、操縦士と副操縦士、そしてふたりの無線士のための席がある。


「すまんが、君の席はない」


 ブルフミュラーは無線士席に腰掛けて、にべもなく宣告した。イェンセンが顔を歪めたのは不満だったからではない。すぐ近くなのにブルフミュラーが大声で話すからである。


「ああ、すまん。ついここだと大声で話してしまうんだ。普段はエンジン音の中で話してるもんでね。通路に腰掛けて、どこかをつかんでいてくれ」


 ブルフミュラーは乗客への安全講習をそれで打ち切ると、無線の点検に没入した。イェンセンを押しのけるように、操縦士のハイナーとリヒターがブリッジに入ってきた。そのあとからやってきた副無線士のドルフマンは、イェンセンの肩をぽんと叩いた。


「もし敵機が来たら、俺は通路を走るからな」


 Fw200は6人乗りで、機体の最後尾のキャビンにはあとふたり、火器主任と整備士が乗っている。もし敵機が追いすがってきたときは、後部の上下左右に1丁ずつとりつけられた機銃を操作するために、パイロットと機長以外は後ろへ走る。


「うまく避けないと、踏んづけて行っちまうぞ」


 避ける? イェンセンは周囲を見回した。ようようひとりがすり抜けられる通路のどこにも、身を隠すところはない。ドルフマンはにっこりして、安心させるように何度も肯いた。


「わかった。痛くないように踏んでやるからな」


 エンジンがかかり、その瞬間からイェンセンにはその音しか聞こえなくなった。


----


「耳は大丈夫か」


「えっ」


「耳は大丈夫か」


 イェンセンはリヒターに力なく肯いた。高度は5000メートル近い。与圧されていない機内は、一般人がまず経験しない気圧の低さである。もちろんイェンセンは事前に予告を受け、まず十分と思われる防寒装備をつけていたが、それでも体の奥まで寒気が染み渡ってゆく感覚をどうすることもできなかった。


「小便を我慢できなかったら、あれを使え」


 リヒターは細長いミルク缶のような容器を示した。長丁場になると戦車兵は主砲の空き薬莢を小便器にすると言うが、ここではあれがそうらしい。


 すっかり夜は明けた。鏡のような海面が眼下に広がっている……はずなのだ。ところが全然下が見えない。下を見るには前方銃座を兼ねたガラス張りの偵察席に腹ばいで潜り込まなければいけないのだが、そこにはさっきからドルフマンが陣取っていて、一心に輸送船を探している。どいてくれとも言い難い状況であった。ひととおりキャビンの様子を撮影し終わり、イェンセンはカメラをもてあましてしまっている。


「5時の方向、イギリス機」


 怒鳴り声が後方から聞こえてきた。キャビンの空気が一変する。リヒターはもちろん、ドルフマンも驚くべき速さで前方銃座から這い出してきた。その必死の形相にイェンセンはひるんだ。しかも、ふたりは自分をめがけて突進してくるのである。


 どたどたどたどた。


 イェンセンは思わず一緒に走ってしまった。逃げ場のない通路ではそうするしかない。燃料タンクの林立する廊下を抜けると、ふたりの男が見えてきた。ひとりは踏み台の上に伸び上がって、ガラス張りの後部上方銃座にとりついている。もうひとりは、機関銃を窓から突き出しただけの側面銃座から外をのぞき込んでいる。

 もう一方の側面銃座には人がいないので空間がある。イェンセンはとっさにそこをくぐり抜け、キャビンの最後尾の壁に張り付いた。リヒターはその側面銃座について、窓の外に目をこらす。ドルフマンは床下の後部下方銃座に降りて機銃を構える。

 数秒の静寂が訪れた。


「ハドソンだ」


 後部上方銃座にいた火器主任ベーンケが言った。


「遠ざかっている」


「こっちには何もいない」


 危険の去ったことを確認するやりとりが緩慢に進み、次第にクルーは緊張をほぐして、銃座から離れてキャビンにたむろした。


「旦那、もう大丈夫だ」


 イェンセンも壁から離れた。


 イギリス軍のハドソン双発哨戒機が、ドイツ潜水艦を探しているところであったらしい。向こうはこちらに気づいたろうか? それはわからない。大型機同士の空中戦はありえないことではないが、爆装して鈍重になっているハドソンが、本来の任務を優先して空戦を避けたとしても、責められる状況ではなかった。


 急にイェンセンは、いやに激しく息をしている自分に気づいた。整備士のノルドハウスがイェンセンの肩を叩いた。


「もっと鍛えた方がいいな、旦那」


 イェンセンはおよそ10メートルを全力で走ったのである。高度5000メートルで。


……………………


 その船団を最初に発見したのは、やはりドルフマンであった。大小16隻の輸送船を3列に並べ、5隻の護衛艦がその周囲をまばらに固めている。そのうち1隻はどうやら大型漁船を改造したものであった。それほどの大型輸送船はいないようだが、かなりの獲物である。


「これから、どうするんですか」


 イェンセンは興奮気味に尋ねた。機長の答えには緊張感はなかった。


「何もしない。しばらくこのへんを回る」


 Fw200は爆装していない。開戦当初はそうではなく、イギリス商船隊にUボートと同じかそれ以上の大きな損害を与えたものだが、海軍所属になってからUボート部隊指揮官のデーニッツ少将が強硬に主張して、Fw200の半分は爆装せずに出撃して、哨戒に専念することとしたのである。爆弾を積まなければそれだけ長いこと飛んでいられるから、船団の追尾時間が少しでも長くなる。今日のブルフミュラー機は爆弾を積まない順番の日だったのである。


 当時のUボートは潜航すると、その速度は一番遅い輸送船団にも劣った。だから効果的な待ち伏せのためには、船団の正確な位置、進行方向、速度をつかむことが死活問題だったのである。いったん船団を捕捉すれば、1隻のUボートが数隻の輸送船を沈めることは十分可能であったから、航空部隊はしぶしぶ爆装を断念したのであった。


 最初にやってきたのは、ドルニエ洋上攻撃機(Do217S)であった。イギリスの爆撃機を迎撃するために、Do217爆撃機の機首に20ミリ砲を4門集中装備した夜間戦闘機タイプがもともと計画されていたのだが、これに燃料タンクを増設して艦船攻撃機としたのがDo217Sである。ただ1機でやってきたそれは、並み居る輸送船を無視して、護衛艦を掃射し始めた。


 護衛艦は爆雷を積むためにもともと小さな船体のスペースをかなり食われているし、主砲は対空用にも使えるように配慮されているが、発射の間隔が長すぎて当てにならない。どうにか積み込んだ1、2門の対空機銃で懸命に応戦するが、高速の-Fw200よりよほど高速の-ドルニエ機になかなか当てられない。


1隻の護衛艦が艦尾から艦首まできれいに一連射を食らってしまった。まるで艦そのものが爆薬でできていたかのような激しい爆発が艦尾で起こり、護衛艦は艦首を虚空に向けたかと思うと横転沈没した。一瞬のことに、イェンセンはシャッターを切り損ねた。


「爆雷だ。護衛艦は可燃物でいっぱいなんだ」


 ブルフミュラーはイェンセンに説明した。しかし実際には、爆雷のようなきわめつけの可燃物に当てることは、よほどの幸運が必要なようだった。残る4隻の護衛艦に対してもドルニエ攻撃機は執拗に挑みかかったが、そのうち2隻に小さな火災を起こさせるのが精いっぱいであった。イェンセンは盛んにシャッターを切ったが、さっきのようなシーンは撮れない。そのうちにどうやら機銃弾を切らしたらしく、ドルニエ攻撃機は去っていった。


「3隻いただいたか。いい商売だ」


 ブルフミュラーは言った。


「1隻じゃないんですか」


「デーニッツ・ルールで、護衛艦の炎上は撃沈と等価なんだ」


 護衛艦が火災を起こすと、誘爆を恐れて爆雷を投棄するのが通例である。そして航海終了まで、その艦は対潜戦闘力をまったく失ってしまうのである。これを加味して、高海航空艦隊での勲章の査定上は、1000トン未満のことが多い護衛艦を一律2000トンの商船撃沈と等価とみなし、かつ炎上した護衛艦には撃沈と同じポイントを与えることとなっていた。これが通称デーニッツ・ルールである。Do217Sはまさにこのための機体であった。


……………………


 奇妙な状況が続いていた。Fw200は大きく旋回を続け、それに対して船団側でも何もできない。護衛の実があがらなくなっても、イギリス軍は船団を解くことにはまだ踏み切れないようであった。もしかしたら今ごろ、船団指揮官と護衛指揮官の間で、そのことについて激しいやり取りをしているかもしれなかった。


「やあ、ハンス、この税金泥棒め」


 ブルフミュラーは突然、マイクに向かってしゃべり始めた。航空機用無線に着信があったのである。


「状況は見ての通りだ。3隻食って見せてくれ」


 ボルドー・メリニャック基地側から相前後して飛び立ったFw200が、獲物発見の報を得てやってきたのである。250キロ爆弾を2個積んでいる。機長のハンス=ファルケンハウゼンとブルフミュラーはもちろん旧知である。


 ファルケンハウゼン機はゆっくりと高度を下げた。的が大きいとはいえ、もともと旅客機であるFw200には、このころはろくな爆撃照準装置がついていなかった。もちろん急降下爆撃などは論外である。命中率を上げるには、高度を下げるのが早道である。


 爆弾は正確に、船団でいちばん大きい、7000トン前後の商船の船首近くに命中した。火災は起こらなかったようだが船体の亀裂は水面下まで走っていて、沈没は確実である。ブルフミュラー機でも歓声が上がった。


 そのとき、運命の女神は、無造作に重大な決定を下した。きわめて幸運にも、護衛艦の撃ち上げる機銃が、ファルケンハウゼン機の主翼を折ったのである。機体は大きく傾ぎ、大きな水柱が立つと、すぐに何も見えなくなった。


 油の池が血痕のように、水面に染み出してきた。何かを叫ぶ時間すらなかった。


「リヒター、席を替われ。ハイナー、俺が操縦する」


 ブルフミュラーの声はあまりに静かだったので、誰もその意味するところを汲み取れなかった。


「ドルフマン、船団先頭の駆逐艦を銃撃する。配置につけ」


 機長が旧友の復讐戦を意図していることを知って、機内の空気は凍り付いた。クルーは何も言わず、それに従った。そのことがブルフミュラーを少し冷静にした。お客さんを危険な行為の巻き添えにすることについて、ひとこと詫びを言っておいた方がよいように思えた。振り返ると、イェンセンはいなかった。


「イェンセンはどうした」


 ハイナーが答えた。


「後部キャビンへ行ったようです」


……………………


 イェンセンは後部下方銃座に潜り込んでいた。ここなら、掃射を終えて敵艦を離れるとき、いいショットが撮れるはずだ。不思議に、恐いという感覚はなかった。まだ。


 Fw200の前方銃座には、短砲身の20ミリ砲が1門だけ据えられている。ドルフマンはできるだけ対空機銃を狙うことにした。機長の気持ちも分かるが、沈める沈めないより、まず生き残ることだ。


 機体は緩降下して、水面近くまで来た。ドルフマンの機銃弾は駆逐艦の薄い側面を軽々と打ち抜く。艦上の機銃の1門が弾薬に引火して爆発する。その閃光に目をやられたドルフマンは、もう1門を攻撃できなかった。


 イェンセンはシャッターを何度も切った。すばらしい写真の取れる予感が瞬時すべてを忘れさせたが、現実は戻ってきた。生き残った艦上の機銃が、Fw200を目掛けて撃ってきたのである。イェンセンは金縛りに遭ったように動けなかった。至近弾が風を切る音が聞こえた。機銃弾が届かなくなるまでの数十秒間が、イェンセンのそれまでの人生すべてを合わせた重さに感じられた。

 這い出してきたとき、ノルドハウスが陽気に声をかけた。


「見直したぜ、旦那。よく一番危ないところに居続けたな」


 イェンセンには答える気力がなかった。


----


 ブルフミュラー機はそのあと、飛行艇に追尾を引継ぎ、燃料の残りを気にしながらボルドーへ急いだ。


 ブルフミュラーはこの一件を戦果として報告しなかった。船団がその夜に入って2隻のUボートに襲撃され、後日の脱落船喪失を含めて16隻中11隻を失ったことはかろうじて公式の記録に残るけれども、この日はいかなる意味でも、大西洋における特別な日ではなかった。


 少なくともその当時は、そう思われていた。


ヒストリカル・ノート


 発表当時はこの航路の細部を書いた資料がなく、フランスから逆コースでノルウェーに向かうように書いてしまいました。偏西風はある緯度の範囲でしか吹きませんから、おそらく史実のコースに比べて逆回りは非効率なので、直しました。


 Fw200は史実では毎日2機発進するのが通例でした。ヒトラーの政策により、倍増したことになります。実際にはこのコースは1941年4月から6月まで使われたにすぎません。ドイツ航空機がイギリス船舶に対して最も大きな損害を与えていた1940年代後半、その主な狩場はリバプールの南、フランスにごく近い海域でした。イギリス戦闘機が忙しくしていたバトル・オブ・ブリテン期が去ると、この空域は危険になりました。そこでもっとアメリカ寄りの位置でアメリカからの船団を狙おうとしたわけです。

 日本でもそうですが、航続距離の短い護衛艦艇が港に近いところ、つまり航路の最初と最後だけを護衛することがあり、こういう船団は沖合に待ちかまえる航空機のカモでした。だんだん護衛艦艇が増えてきて、カモがいなくなったので、1941年6月にドイツ空軍とUボートはアフリカ周りでエジプトやインドに向かう船団を襲うことにしたのです。


 哨戒機用のブンカーは史実では作られていませんが、哨戒任務に就いていた超大型飛行艇Bv222が停泊中を爆撃されて沈没したことがあります。


 戦前のドイツ空軍の訓練は非常に総合的で、かつ機長とパイロットという激職を兼ねさせないという方針を取っていました。だからブルフミュラーは操縦ができるのに無線士を務めていたわけです。大戦後期になるとこんなことは言っていられなくなりましたが。


 FL30710~30712はそれぞれ5l、10l、18lの水容器に対する空軍の型番です。水を持っていく本来の用途のほか、機上の便所にも使われました。1941年からドイツ陸軍が急きょリビアに展開することになり、適切な水容器がなかったせいか、「北アフリカで使われた」FL30710~30712が海外の軍装品オークションにしょっちゅう出てきます。その後陸軍で使われた形跡がないのは、陸軍が水容器として用意した、白十字を描いたジェリカンが行き渡ったせいでしょう。あれは単に白十字が塗装されているだけでなく、Wasser(水)と浮き彫りしてある特製品なのです。


 Do217Sは本文にもある通り、実在の機体の架空のバリエーションです。Ju88への生産集約で量産が打ち切られた爆撃機で、Ju88に比べると機体もエンジンも大型です。爆装を諦めて燃料を積めるだけ積めば、Fw200より少しは速く、アイルランドの西まで行って戻ってこられる対艦攻撃機になる……と考えました。


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