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第5話 3人のただひとり

「いやあ、まことに結構です。結構ですなあ」


 グラスを両手に持って、豪華なソファに腰を落ち着けたのは、ウーデット空軍大将である。窓の外には青々とした伸びかけの春小麦がどこまでも広がっている。遠くの教会の屋根が少しずつ動くことだけが、これが列車の窓であることを思い起こさせた。


 ヒトラーは新聞からちらと目を上げると、すぐに元に戻した。ミルヒ元帥は自分のコンパートメントで何か書類を決裁しているので、ここにはいない。


 総統専用列車は冬の北ドイツをひた走る。総統、新しい空軍大臣ミルヒ元帥、前空軍技術局長ウーデット大将が主な乗客であった。


 事の起こりはシュペーアの提案であった。熱心なシュペーアはすでに大小様々な改革に手をつけていたが、今回彼の槍玉に揚がったのは、要人の専用列車である。ヒトラー自身が専用列車を愛用しているものだから、自分を要人だと思っている有象無象が我も我もと専用列車を欲しがって、貴重な車両がひどく無駄に占有されている。


「総統が示しをつけて、専用列車を返上していただきませんと、歯止めが利きません。ご賢察願わしく存じます」


 シュペーアに迫られては、おっちゃんとしても立場が弱い。実のところ、おっちゃんは総統として享受できる贅沢な設備が結構楽しくて、「これで温泉でもあったら言うことあらへんな……」とか思っていたところだったから、大いに迷惑であった。


 結局ヒトラーはシュペーアの要求を呑んだ。しかしである。


「専用列車で最後の旅をしたい。軍需産業の視察旅行というのはどうだろう」


「それは結構なお心がけです。行ってらっしゃい」


 そんなわけで総統は、航空機メーカーの連続視察に入っているところであった。


 ウーデット大将は、ゲーリングと同様に第1次大戦のパイロット上がりである。およそ官僚としてきっちり仕事のできるタイプではなく、彼が技術局長の椅子に座っていることに、ゲーリングのミルヒへの牽制以外の理由はなかった。


 ゲーリングの辞任-公式には「党の職務に専念するため」とされた-に伴う大異動で、ウーデットもまた職を解かれた。というより、ウーデットが真っ先に槍玉に上がったのである。ムッソリーニは、ウーデットを新機種開発の遅れの元凶だとした本を何冊か読んだことがあった。ふと解任前に本人に会っておこうと考えたのは、おっちゃんの幸運であったかもしれない。


 最近、おっちゃんはは何やかや理屈をつけて、ヒトラーの禁酒主義を放棄することに成功していたから、おっちゃんは宴会のゲストとしてウーデットを招いてみることにした。ヒトラーは元々、夕食に軍人を呼ぶのを嫌っていたのだが、おっちゃんは逆に、何とかロンメル将軍を呼んでサインをもらいたいものだと思っていた。


 ウーデットは酒が好きで女が好きで、権力そのものにはあまり関心がないようであった。総統の知己を得たことを大袈裟に喜んでいたが、仕事の話をさせられるのを嫌がった。あとでラウンジへ呼んで解任の内意を告げると、ウーデットは一瞬だけ悲しい顔になり、すぐにせいせいした顔になった。ウーデットも自分が今の職務に向かないことをよくわかっていたのである。


 おっちゃんはその場で思い付いたことがあった。OKW作戦部付顧問といった形式的な役目を設けて、空軍に関するヒトラーの個人的な話し相手とするのである。ウーデットには知り合いが多く、人物評価は鋭いとはいえないまでも、世間のその人物に対する印象をよく捉えていた。それこそがおっちゃんに最も欠けている情報だったのである。


 ウーデットはその申し出を喜んで受けた。現役でいられれば収入が保証されるからである。ウーデットにとって出世とはそういうことであった。



----



 ウーデットが総統と接する機会を急に増やしたことに気づいて、大いに慌てたのは、ミルヒ元帥であった。ウーデットとミルヒは元々仲は悪くないのだが、ゲーリングがミルヒと噛み合わせるようにウーデットを起用したために、どちらかというとミルヒの方がウーデットを嫌い、ときにいじめる関係になっていた。


 今回の視察は最初は総統とウーデットだけで行くはずだったのが、ミルヒが案内役の名目で割り込んできたのであった。ウーデットの紹介を得てヒトラーと航空機メーカーが直接つながってしまったら、空軍大臣の権威はどこにあろう? 道中ウーデットとヒトラーだけでミルヒの噂話をすることになったら、ウーデットは総統に何を吹き込むだろう?


 そんなわけで、3人は最初の訪問地、ドイツ北西部のブレーメンにあるフォッケ=ウルフ社の主力工場に向かっているところであった。


「フォッケ=ウルフ社というのは、やはりフォッケとウルフが作ったのかね」


「そうですとも」


 ウーデットは右手に持った方の高級フランスワインをうまそうに飲み干した。


「もっともウルフは死んじまいましたし、フォッケはオートジャイロに夢中でしてね。オートジャイロはご存知? ブルン、ブルン、ブルンってやつです」


ウーデットは空のワイングラスを頭上で回して見せた。


 オートジャイロはヘリコプターの原形というべきタイプの航空機で、フォッケは別会社(フォッケ=アハゲリス社)を設立して技術の確立に努めていた。Uボートに積み込める偵察用の折りたたみオートジャイロは、実用化に後一歩のところまで来ている。


「いまフォッケ=ウルフを技術面で取り仕切っているのは、クルト・タンクという男でね」


 赤い顔のウーデットはすっかり上機嫌で、ヒトラーを目の前にしても「総統」という呼びかけをほとんど挟まない。


「ああいう奴がドイツの飛行機を作っていると思うと、愉快でなりませんや」


 いやもちろん愉快なのはウーデットだけなのだが。


----


 工場に併設された飛行場は、1機の飛行機の爆音に包まれていた。いや、たった1機というべきであろう。普段の喧騒に比べれば、まだましであった。


 その双発戦闘機はヒトラーたちの目の前で、ゆっくりとした速度で着陸コースに進入した。この速度でも失速しないということは、機体の安定性が高く操縦しやすいということである。もっともヒトラーは知らなかったし、ウーデットは思い至らなかったし、ミルヒは気がついたが黙っていた。


 進入速度が低ければ着陸距離も短い。ほどなく停止した戦闘機の風防が開き、無帽にベスト、普通のズボンに航空長靴という男が身を起こした。男は若々しい所作で地上に降り立つと、自ら歩み寄ってきた総統に型通りの敬礼をした。


「ハイル・ヒトラー。フォッケ=ウルフ社にようこそ」


 タンク技術担当重役は、自らのデモンストレーション飛行で、総統を迎えたのであった。


「先ほどの機体はいかがでしたか」


 工場を歩きながら、タンクは率直に切り出した。さっきの機体はFw187というのだが、タンクとしては自信作であるにもかかわらず、空軍の関心をどうしても引くことができずにいた。政商メッサーシュミット社の双発戦闘機Me110、さらにその発展型のMe210と競合するために審査の機会も与えられないのだ……と考えていたタンクは、この機をとらえてヒトラーへ直訴に及んだのである。


「良い機体だ。だが君の会社はドイツの運命を握っていることを忘れないでほしい」


 自分に見向きもせずヒトラーが口を開いたので、ミルヒはまたも疎外感を味わった。


「Fw189、Fw190、そしてFw200。どれひとつ失敗しても、ドイツは戦争遂行に支障を来たすのだ」


 Fw189は、陸軍部隊と連絡を取って最前線の様子を偵察する小型機である。Fw190は次期主力戦闘機として期待が高く、エンジン周りの初期不良対策が懸命に進められている。Fw200はあまり馬力の高くないエンジンを4基使った大型機で、戦前に長距離旅客機として開発されていたのを、急ごしらえの洋上哨戒機としたものであった。哨戒機といっても爆装していて、大西洋では商船攻撃でかなりの戦果を挙げている。いずれもその分野で、いまドイツが持っている最高の機体であった。


「Fw189とFw200は順次他社に生産を移行しているところです。Fw187も量産を他社に委ねることもできるかと存じますが」


「それは困る」


 ミルヒはやっと割り込むことに成功した。


「Ju88の量産拡大と資源が競合してしまうし、いずれMe210の量産も始まるのだからな」


 双発機は戦闘機にも爆撃機にも使われる。1930年代には、ほとんどの先進国が、「双発戦闘機の重武装を生かして単発戦闘機に勝つ方法」を研究した。結局これらはすべてうまくいかなかったが、これら双発戦闘機は大戦が始まってから、軽爆撃機や夜間戦闘機に流用されて成功したものが多い。双発戦闘機は燃料や武器を多く積めるから、重防御の爆撃機が主な相手で、安全に着陸できる夜明けまで飛んでいたい夜間戦闘機には好都合なのである。


 逆に、速度の優れた双発爆撃機は、夜間戦闘機としても優秀である。現にドイツでは、Ju88双発爆撃機の戦闘機タイプが、イギリスの飛行場襲撃や沿岸部の防空に活躍していた。ミルヒはそれを言ったのである。


 ミルヒは、双発機をMe210とJu88にまとめてしまいたいと思っていた。そのほうが量産効果が上がるはずである。この種の過度の機種絞り込みにはいろいろ弊害もあったが、別に双発戦闘機の新型がなくてもドイツはあまり困らない、というのは一面の真実であった。


 効薄いとみたタンクは陳情項目その2に移った。


「Fw190のエンジントラブルはなかなか解消しません、総統。ユンカース社の液冷エンジンを割り当てて頂くわけには行きませんか……元帥」


 タンクの視野の端に、すごい形相のミルヒが入ったので、タンクはとっさに呼びかけ相手を変更した。そうである。空軍大臣はミルヒなのである。



 当時のドイツは、当時の日本がそうであったほどには軍需最優先ではなかった。戦争は短期で終結する、という暗黙の公約を担保する意味で、民生品の生産水準はかなり維持されていた。しかし軍需物資である航空機用エンジンともなると事情は違う。メーカー数は厳しく制限され、ドイツでは実績のある液冷エンジンの生産は、事実上ユンカース社とダイムラー=ベンツ社のみに限られていた。現在の主力単発戦闘機であるメッサーシュミット社のMe109はダイムラー=ベンツ社のエンジンを最優先で与えられていたから、タンクはユンカース社のエンジンを所望したのである。


「そうだな…手洗いはどこかな」


 ヒトラーは人目につかない空間を確保すると、ふところから紙片を取り出した。先日の会談(第3話参照)でムッソリーニが走り書きしたものである。おっちゃんは航空関係には弱いので、政やんに意見を聞いたのであった。


 メモにはいくつかの型番があった。Fw190という数字の下には二重線が引かれ、Fw190A(空冷)、Fw190D(液冷)と分岐線が伸びていた。Fw190Dの後ろにはTa152というわけのわからない型番へ矢印が伸びており、この型番がぐるぐると丸で囲んであった。どういう意味だろう? おおかた政やんのムッソリーニのことだから、模型として姿がいいとか、そういう機体なのであろう。ともあれ、将来は液冷エンジンの提供を受けるのが歴史らしい。ちなみにMe210の行には、「すぐ発注を取り消せ!!欠陥品」と書かれていた。部品メーカーの経理として、一度でいいから言ってみたかった台詞なのであろう。字が躍っている。


 ヒトラーはすっきりした顔で戻ってくると、ミルヒの顔をつぶさないよう表現を選んだ。


「将来は考慮してもよいだろう、元帥。しかし君の当面の仕事は空冷型だぞ。ドイツ航空業界には芸術家は大勢居るが、技術者は君だけだ。兵たちの頼れる飛行機を作ってほしい」



----


 ハインケル社の創業オーナーであるエルンスト・ハインケルは、白い割烹着を着て町角のパン屋の帳場から顔を出しても、何の違和感もない風貌である。ドイツの同時代人でも有数の頑固者にはまったく見えない。頭髪はだいぶ減って、もともと丸い頭をますます丸く見せている。細縁の真ん丸い眼鏡の奥の目は、柔和ですらある。


 ハインケル社のロストク工場の入り口には、カギ十字のナチス旗が何気なく翻っていた。ヒトラー一行を迎えたハインケルは、にんまりと笑ってその旗を手ぶりで示したのだが、ヒトラーは何のことか分からずきょとんとした。


 じつは以前、社員の中の熱烈なナチス党員が勝手に工場の門にナチス国旗を立てたのを、ハインケルが後で命じて片づけさせたことがあった。以来ドイツ政府はハインケル社に冷淡になったと社長は感じており、これはかなり事実に近かった。ハインケルは自分を笑う心の余裕とユーモア精神がある人物だったから、今日は来客のためにナチス党旗を立てたのである。


 工場に併設された飛行場では、甲高いエンジン音が響き渡っていた。明らかに、普通のものとは違う。工場関係者はもう慣れていて、ああ久しぶりにあれが飛ぶのか、と思っていた。


 セイバー(戦後のアメリカのジェット機で、航空自衛隊の最初の主力戦闘機)に似ているな、というのがおっちゃんの第一印象であった。しかしどこかが大きく違う。しばらく見ているうちに、翼が水平翼だからだ、と気がついた。戦後のジェット機のように、斜め後ろに翼が伸びる後退翼ではない。


 He178ジェット実験機は、ゆっくりと滑走を始めるとたちまち速度を増し、軽々と大空に飛び立った。おっちゃんはほっとした。もうドイツにはジェット機があるのだ。


 おや? もう戻って来た。トラブルか? いやそんな様子はなかった。2分もしないうちにHe178はあわただしく着陸体勢に入り、ハインケルの満面の笑みに迎えられて着陸した。ミルヒとウーデットはほとんど無感動といってよかった。前に見ているせいもあるのだが、どうもジェット機をゲテモノ扱いしているらしい。この時代には、ジェットとロケットは同レベルの空想世界の乗り物なのである。


「戦闘機の実験機があると聞いたが」


「あそこに」


 ハインケルは扉を閉じた格納庫を指した。


「新しいエンジンが言うことをききませんでな」


 この時期のジェット機開発の主要な問題は、「エンジンが高熱に耐えられず、すぐおしゃかになる」ことであった。ジェットエンジンに未知の部分が多いことに加えて、ドイツはいくつかの鉱物が入手困難であったために、耐熱合金をなるべく使わずにエンジンを製造する必要があった。エンジンをせめて数十時間保つようにして、はじめて実用的な兵器となるのである。


 格納庫に入った途端、ヒトラーはうめき声を上げた。ハインケルのジェット戦闘機He280は、おっちゃんの素人目には、後に登場するはずのメッサーシュミットMe262にそっくりであった。孤軍奮闘するハインケルをちらちらと盗み見ながら、メッサーシュミット社はジェット戦闘機を完成させていったのである。


「ミルヒ元帥、この機体の発注機数は何機だ」


 ヒトラーは質問した。


「いえ、それは、未定であります」


 実際には、開発契約を結んだだけで、発注はまだゼロであった。


「とりあえず100機の注文を約束してよいかな」


 ハインケルの丸い顔がニコニコマークになった。


「お望みのままに」


 ミルヒはすっかりあきらめていた。総統は、重要機種の選定のイニシアチブを自分に任せる気はないのだ。ウーデットはハインケルにウインクした。


 会議室へ移って視察は終わりかと思ったら、ハインケルは1枚の図面を持ち出して来た。図面というよりラフスケッチに近い。胴体の極端に細い複座双発機で、He219という番号が振ってある。


 この機体はきわめて高速の多目的機で、とハインケルが言いかけると、ミルヒは乱暴にそれをさえぎった。


「双発多目的航空機としては、すでにMe210の開発が進行している。これ以上ドイツの戦争計画を撹乱するのであれば、私は空軍大臣として断固たる処置を取る」


「ハインケル博士。この飛行機のエンジン出力はどれほどかね」


 ヒトラーは激昂するミルヒをまったく無視して、つぶやくように尋ねた。ハインケルは若いスタッフを呼んで、短いが専門家以外には理解不能なやりとりをしたあと、離昇出力1900馬力と答えた。


「ミルヒ元帥。B爆撃機計画で予定されているエンジンの出力は、2500馬力だったな」


 その通りであった。B爆撃機計画は、次期主力双発爆撃機を開発するための競作で、国営企業ユンカース社の新型機Ju288の予定性能にちょうど合わせた要求仕様だといわれていて、ハインケル社は参加を見合わせていた。


「いいかね。Me110は1100馬力、Ju88は1400馬力だ。この機体はB爆撃機計画の予備計画として適しているとは思わないかね」


 ミルヒの眉がひくひくと動いた。その顔には、このシロウトめ、と書いてあった。


 シロウトの言うことであったが、B爆撃機に積むはずのエンジンがまだ完成していないことを考えると、合理的で冷静な提案であった。ミルヒは検討を確約し、ヒトラーはハインケルに祝いを述べた。これでミルヒが計画を握り潰せば、ヒトラーの意向を反古にしたと言われても仕方がないだろう。


「私から、通告することがある。この件については総統とも確認済みだ」


 ミルヒは腹立ち紛れに、今日最大の話題を持ち出した。


「He177の発注を全面的に取り消す」


 ハインケルの眼鏡が落ちた。


 He177爆撃機は、ハインケル社最大のプロジェクトである。エンジン4基を2基ずつ縦に並べて双発機のようにした爆撃機で、2基分の空気抵抗を受けずに済ませて、出力増大の代わりにしようという構想である。ただ2基を隣り合わせにしたエンジンが2基分の熱を出すのをうまく処理できず、開発が進んでいなかった。


「開発契約は継続する。十分に技術が成熟してから、量産にかかりたまえ」


 ヒトラーが引き取った。ハインケルはまだ凍り付いている。He177は大量配備が予定されていたから、発注取り消しが社運に及ぼす影響は計り知れなかった。


「こんなことを言って慰めになるかどうかはわからないが、ハインケル博士」


 ヒトラーは続けた。


「ミルヒ元帥は君への指示をまだ半分しか口にしていない。そうだな、元帥」


 水を向けられたミルヒは、しぶしぶハインケルにクリスマスプレゼントを渡した。


「君の会社に対して、He111(やや旧式になりつつあった双発爆撃機)及びHe115(双発の大型水上機で、艦船攻撃や偵察に使われました。魚雷も機雷も積める便利な機体)の画期的な増産を要請する。完成した機体は、数量に関わらずドイツ政府が買い取る」


「数量に関わらず、とおっしゃいましたか」


 ハインケルは疑わしげである。


「イタリアと契約を結んだのだ。イタリアから潜水艦を買って、君の飛行機を売る」


 ヒトラーとムッソリーニは相談して、フランス西海岸のボルドーに進出した27隻の潜水艦を、ドイツが買うことにしたのである。艦船は兵器としては高いものだから、代わりに引き渡されるドイツの兵器のリストは長いものになり、その中にHe111とHe115も入っているのであった。もっとも、ドイツからイタリアへルーマニア産の原油を融通することにしたので、当初考えられていたより兵器の提供は少なくてすみそうであった。He111もHe115も、海軍航空隊-高海航空艦隊と命名されていた-でも切望されている。


「必要な工員、治具、工場用地について、シュペーア軍需大臣のオフィスから協議のための連絡が来るはずだ」


 ヒトラーに言われて、ハインケルは指示の真剣さを実感した。


「ドイツには航空機の図面の引ける人間は何人いるか知らないが、パイオニアは君ひとりだ。期待しているぞ」


 ヒトラーは別れ際にハインケルに言った。やりとりを見ていたウーデットは何も言わなかった。


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 南ドイツ、バイエルン地方の中心都市はミュンヘンである。そのミュンヘンから北に100キロほど行ったところに、レーゲンスブルクと言う町がある。バイエルンを創業の地とするメッサーシュミット社は、ここに工場群を持っていた。


 ウィリー・メッサーシュミット教授率いるメッサーシュミット社は、いずれも元社員であるミルヒとウーデットを政治的な後ろ盾にしており、ヒトラーの視察にも余裕たっぷりであった。Me210の発注取り消し、そして旧機種Me110とMe109の増産という指示内容は、あらかじめミルヒとウーデットが耳打ちしていたから、冷静に受け止められた。ヒトラーも事前のリークがあったことに気づいたに違いないが、何も言わなかった。


「今日は、まことに当社に取りまして実り多い日でございます」


 メッサーシュミットは如才なかった。


「実は、総統にお目にかけたい図面がいくつかございまして」


 メッサーシュミットは若手設計技術者を次々にヒトラーに引き合わせては、大小様々な機体の説明をさせた。ヒトラーはそれを礼儀正しく聞いていたが、聞いた内容は片端から頭の中のごみ箱へ捨てていた。史実ではこれ以降、メッサーシュミット社が開発する重要な機体はMe262ジェット戦闘機だけだが、おっちゃんはこの役目をハインケル社の機体に割り振るつもりであった。


 どちらにしても、ジェット戦闘機はこの大戦では主力とはなり得ない。エンジンが数十時間で使い物にならなくなる機体に、敵地深くへの侵攻任務は与えられない。ドイツがジェット迎撃戦闘機を保有していることが、英米の戦意を多少なりともくじくことが出来れば、それで十分であった。


 去り際にヒトラーはメッサーシュミットに言った。


「ドイツ航空機業界には芸術家は何人も居るが、大量生産の概念を理解する企業家は君ひとりだ。期待しているぞ」


 ウーデットは、とうとう笑い出してしまった。


ヒストリカル・ノート


 専用列車を巡るシュペーアの要請は実際に行われましたが、ヒトラーは拒否しました。


 ウーデットは開発政策の混乱と怠慢が表面化する1941年秋まで技術局長の地位にとどまり、進退窮まって自殺しました。ミルヒはその後技術局長を併任して辣腕を振るいましたが、やがてゲーリングに失脚させられました。


 Fw190に積むエンジンは、いまは自動車メーカーとして知られるBMW社が作ったものですが、タンクが操縦を容易にするための装置を付け加えたこともあって、深刻な初期不良が発生しました。開発の全面中止が検討されたこともあったようです。1939年に初飛行してから、1942年に本格配備が始まるまでのタイムラグは主に技術的なもので、政治的なものではないと思われます。


 ハインケル社の「正当な」扱いとはどのようなものかについて、著者と違う意見の読者もおありでしょう。エルンスト・ハインケルの自伝は絶版ながら日本語訳も出ており、それを読む限りでは、He177がなぜ失敗したのか冷静な反省が記述されていませんし、He219が貴重な高馬力エンジンを使って高性能を引き出していることについて、何の留保も見つかりません。発明家としては優れているのかもしれませんが、戦時に重要な資源配分を任せるのに適切な人物とは私は思いませんし、戦時下でハインケル社の新鋭機体を冷遇するのはむしろ合理的であろうと思います。


 He178とHe280の1940年末の開発状況は、史実でも本文の通りです。


 B爆撃機計画は、結局Ju288も含めてすべての競作機が、主にエンジン開発の失敗から実戦配備に至りませんでした。日本で大戦末期の主力機のほとんどに搭載が予定されながら、最後まで性能が安定しなかった「誉」エンジンが2000馬力ですから、2500馬力エンジンの完成にすべてを賭けたB爆撃機計画はやや異常であったといえます。


 He177やMe210は硬直的なメーカー棲み分け政策によって実戦配備と量産が強行され、時間と資源を空費しました。


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