第30話 なにわの春
「やはり高いな」
ヒトラーは新通天閣を見上げた。ドイツから日本に贈られたこの鉄塔は、高さ334メートルを誇り、世界で一番高い自立式鉄塔である。側面には大きくI.G.ファルベン社とテレフンケン社の広告が躍っている。
ヒトラーは総統として初めての日本訪問を果たし、新通天閣の除幕式に出席するところであった。時は1952年4月初旬、大阪の桜は満開を過ぎ散り初めようとしている。エーファとシュペーアは桜が珍しいらしく、しきりに路傍の桜に目をやっている。
戦争の爪痕は町並みからは消え去っていたが、ヒトラーの目には大阪の街はどこかくすんで見えた。人の匂いはするが、勢いというものが感じられない。大阪は幸い本土決戦の戦禍は免れたはずだが、大阪湾からアイオワ級戦艦4隻と重巡洋艦13隻が砲身命数の尽きるまで艦砲射撃を加えたと聞いている。
ヒトラーを歓迎する日本人の視線はどこか冷ややかであった。それはそうであろう。日本人にとってヒトラーは裏切り者である。護衛の警官の物々しさだけが目に付いた。
つつがなく除幕式を終え、ヒトラーは大阪城跡地公園に向かうべく、自動車に乗った。間もなく公園に着こうという頃である。
警備に当たっていた日本陸軍のサイドカーが、ついと隊列を離れた。僚車の乗員が慌てる様が見えた。サイドカーに乗っている士官がポケットから白い細布を取り出して頭に巻いている。その額の部分に赤い日の丸がある。布を巻き終えた士官は、日本刀を引き抜いて鞘を捨て、叫んだ。
「か~~~~ん~~~~ぞ~~~~く~~~~」
半ばかすれた叫び声が、奸賊、という日本語であることにヒトラーが気づいたとき、サイドカーはヒトラーの乗るオープンカーに迫っていた。
日本陸軍の警護用サイドカーは、天皇への直訴者などに飛び掛かって取り押さえることを想定して、側車の前がわざと空けてある。ヒトラーの乗用車を守るサイドカーの乗員が、不審なサイドカーに飛び掛かるのと入れ違いに、不審車から日本刀の男がヒトラー車に飛び移った。
「てんっ、ちゅううううううう」
男は叫びざま、ヒトラーの腹に深深と日本刀を差し入れた。運転手が車を止め、懸命に男をヒトラーから引き剥がす。
後続車に乗っていたシュペーアとエーファが、走り寄りながら懸命に呼びかける声が聞こえてくる。その背後で魂消るような奇声が上がったのは、不審なサイドカーの運転手が自決した声であろうか。
ヒトラーは自分の傷を見た。痛みは鈍く深く、絶え間なく赤いものが染み出している。
「エーファ」
ヒトラーは言った。
「手近の、桜の木の下へ運んでくれ。私の最後の務めを果たさねばならん」
救急班が近づいてきた。
「公務中である。下がれ」
ヒトラーに日本語で命令されて、救急班員たちは立ち尽くした。その間に、シュペーアとエーファはヒトラーの言う通り、大阪城公園の桜の木の下にヒトラーを運び、横たえた。
「シュペーア、私の背広の、左の内ポケットに、封筒があるだろう」
ヒトラーは言った。封筒を取り出したシュペーアに、ヒトラーは短く言った。
「読め。そして、証人になって欲しい」
私、ドイツ国総統アドルフ・ヒトラーは、職務遂行が不可能になった場合、 総統としての権限と称号を、ヘルマン・ゲーリング国家元帥に承継させる。承継が完了するまでの間、予備軍司令官ブラスコウィッツ上級大将は、戒厳司令官として国民、軍および警察その他の一般親衛隊に対し必要な命令を 下すことができるものとする。
アドルフ・ヒトラー(署名)
「総統、これは」
シュペーアは絶句した。
「治まらん。彼では治まらんよ、シュペーア。だから任せるのだ」
ヒトラーは言った。
「もはや体制内の改良は限界だ。ドイツは大きく変わらねばならん。私の死と同時に、ヒムラーとの盟約も無効となる」
シュペーアにはその意味は分からなかったが、ヒトラーはかまわず話し続けた。
「ブラスコウィッツもゲーリングもヒムラーの仇敵だ。ヒムラーは行動に出るぞ。まず国軍を挙げてヒムラーの牙を抜き、次いでゲーリングへの世論の批判に対し、軍は中立を守るのだ」
ヒトラーは苦しげに息をした。
ブラスコウィッツはポーランド戦の折、親衛隊の残虐行為を強く非難してヒムラーに疎まれ、以来要職への就任を妨げられ続けてきた人物である。
「カナリスには、ブランデンブルグ部隊の兵営に入るように伝えてくれ。自分の身の安全には疎い男だからな」
ヒトラーはシュペーアに言った。
「私はどうなります、総統」
「君も政権の要人として、腕を振るってきたではないか。責任を取ってしかるべきだ」
ヒトラーは顔を歪めて笑った。
「だが君には大きな選択権を与えよう。私はこれを君に預ける。破っても良いぞ」
シュペーアは笑った。
「少々お時間を頂きます。家族を出国させますので」
「私はドイツに帰るわ」
エーファはヒトラーに言った。
「何も出来ないけど、あなたの代わりに、すべてを見届けます」
「エーファ、君がどこにいようと、そこが私の故郷だよ」
ヒトラーの声はもう聞き取れないほど小さかった。
「月は……」
「え?」
エーファは耳を近づけた。
「月は、まだか」
一陣の春風が、桜の花びらを、3人に降りかからせた。
願わくは花の下にて春死なむその二月の望月のころ
西行法師(山家集)
なにわの総統一代記 完




