第29話 醜(しこ)の盾
ヒトラーは正直なところ、少しいらいらしていた。いらいらの種はここオランダのハーグにあるのではなくて、ドイツにあった。
戦争が終わってもう8年になる。ドイツは東欧世界の盟主としてその経済力を消耗し、シボレーとフォルクスワーゲンの車体のように、アメリカとの経済格差は開くばかりであった。そのことはドイツ国内に様々な不協和音を生んでいる。ドイツ議会を復活させようとするヒトラーの計画は、復活後の政権構想の目処が立たない故に、最後の段階で足踏みしていた。
問題は、ヒムラーや親衛隊、政府要人、そしてヒトラーの政策に乗って経済的利益を得た私人たちの扱いにあった。彼らの行為を不法と断じるか、少なくとも取り消すかしなければ、民主化への道は開けない。そのことにヒトラーはまだ踏み切れなかった。
こんなときに、ヒトラーは国際会議の帰りに、外国メディアの単独インタビューを受けねばならない。それは単なる巡り合わせに過ぎないのだが、それでヒトラーの気が納まるというものでもなかった。
ドアがノックされた。
「入りたまえ」
若い女性が入ってきた。今日のインタビュアーらしい。
「はじめまして、総統」
女性は元気良く右手を差し出した。ヒトラーは職業的な笑顔を作って、握手に応じた。女性記者は通信社の名刺を差し出すと、腰掛けた。
インタビュー内容は、ヒトラーがまさに悩み抜いている、ドイツ民主化とポーランド独立のスケジュールに関するものだった。ヒトラーは率直に語った。
「敵に向かって団結するのはたやすい。しかしそれは自分自身の問題を先送りすることにしかならん。私とドイツは、いまその負債を払っているのだ。前進はあるが時間がかかる」
「ありがとうございました、それではお約束のお時間も来たことですから」
話を打ち切ろうとする記者を、ヒトラーがとどめた。
「お嬢さんは、大学を出たばかりかな」
「はい、大物の、あ、ごめんなさい、重要な方とのインタビューは、これが初めてなんです」
女性記者は笑顔を見せた。
「今までのお仕事というと、小学生の合唱コンクールの記事とか、最新の家庭用電気器具がクッキングに与える影響とか、そういうものばかりで。それはそれで楽しいお仕事なんですけど」
しゃべり出したら止まらないタイプらしい。
「インタビューのお仕事がしたくて、政治部に回してもらったんです。あたし、書くことも好きですけど、話すことはもっと好きなんです。ぴったりの職場だと思いません?」
「そうだね」
ヒトラーはやっと一言差し挟むことが出来た。
「それではお嬢さんの前途を祝して、ひとつ特別な発表をしてあげよう。独占記事だぞ」
「何ですの?」
記者は笑顔を見せた。本気にはしていないらしい。
「いいかい。ヒトラー総統は」
ヒトラーは新聞記事を読み上げるように言った。
「ドイツ国内におけるユダヤ人文学作品、その他の芸術作品の販売・所持に関する規制を、抜本的に見直すことを検討すると語った」
メモを取っていた女性記者の顔から、笑みが消えた。
「いいかい、裏を取っても無駄だぞ。私が今思いついて、これから所要の措置を講ずるのだからな。ヒムラーもゲッベルスもフリック(内務大臣)も、このことについては何も知らない。それも長いことではないが」
「よろしいのですか」
女性記者は小さく言った。
「物事には、思い付く瞬間というものがあるのだよ」
ヒトラーはおどけて言った。
「それに、いずれやらねばならないことだ。そう思わないかね、お嬢さん」
「ええ、そう思いますわ」
女性記者は言った。笑顔が戻ってきた。
「私たちは、お友達になれそうですね。驚くべきことだと思いますけど、あら、ごめんなさい」
女性記者は赤くなった。ヒトラーは立ち上がり、右手を差し出した。
「また、お会いできるといいですね」
女性記者は言った。
「会えて嬉しかった」
ヒトラーは応じた。
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ヒトラーの禁酒は最近すっかり緩んでいる。ムッソリーニが死んでから、ヒトラーは夕食後のひとときを、酒瓶と共に過ごす日があった。酒瓶と、グラスがふたつ。
総統官邸の応接室で、ヒトラーはそのようなひとときを過ごしていた。
「一桁減らしといて、よかったなあ、政やん」
ヒトラーは独り言を言いながら、自分のグラスにワインを継ぎ足した。もうひとつのグラスには主がなく、ワインが注がれたままである。
「わしらは何もせんかったわけでは、ないのやな。守ってやれた人も、おるのや」
涙がグラスに落ちた。
「知っとるのは、わしらだけやけど」
ヒトラーは、涙をごまかすように、グラスを一気に空けた。
「せや。生きとったら、ただの人や」
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毛布を持ったエーファ夫人が入ってきたとき、ヒトラーはテーブルに突っ伏して寝入っていた。ヒトラーの肩に毛布をかけたイーファは、テーブルの上にあった名刺に気がついた。
女性の名刺らしい。
「まあ」
思わず声を上げたエーファは、いたずらっぽくヒトラーを見下ろすと、毛布をヒトラーの頭の上まで引き上げ、行ってしまった。
名刺には、こう書かれていた。
ロイター通信社 ハーグ支局
記者 アンネ・フランク
ヒストリカル・ノート
よく引用される「醜の御盾」の大本は、防人の歌(万葉集 巻二十)
今日よりは顧みなくて大君の醜の御盾といでたつ我は
で、天皇陛下を守る無骨な盾、の意味。ここでは、守る対象が一般市民なので「御」を省きました。




