表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
29/30

第29話 醜(しこ)の盾



 ヒトラーは正直なところ、少しいらいらしていた。いらいらの種はここオランダのハーグにあるのではなくて、ドイツにあった。


 戦争が終わってもう8年になる。ドイツは東欧世界の盟主としてその経済力を消耗し、シボレーとフォルクスワーゲンの車体のように、アメリカとの経済格差は開くばかりであった。そのことはドイツ国内に様々な不協和音を生んでいる。ドイツ議会を復活させようとするヒトラーの計画は、復活後の政権構想の目処が立たない故に、最後の段階で足踏みしていた。


 問題は、ヒムラーや親衛隊、政府要人、そしてヒトラーの政策に乗って経済的利益を得た私人たちの扱いにあった。彼らの行為を不法と断じるか、少なくとも取り消すかしなければ、民主化への道は開けない。そのことにヒトラーはまだ踏み切れなかった。


 こんなときに、ヒトラーは国際会議の帰りに、外国メディアの単独インタビューを受けねばならない。それは単なる巡り合わせに過ぎないのだが、それでヒトラーの気が納まるというものでもなかった。


 ドアがノックされた。


「入りたまえ」


 若い女性が入ってきた。今日のインタビュアーらしい。


「はじめまして、総統」


 女性は元気良く右手を差し出した。ヒトラーは職業的な笑顔を作って、握手に応じた。女性記者は通信社の名刺を差し出すと、腰掛けた。


 インタビュー内容は、ヒトラーがまさに悩み抜いている、ドイツ民主化とポーランド独立のスケジュールに関するものだった。ヒトラーは率直に語った。


「敵に向かって団結するのはたやすい。しかしそれは自分自身の問題を先送りすることにしかならん。私とドイツは、いまその負債を払っているのだ。前進はあるが時間がかかる」


「ありがとうございました、それではお約束のお時間も来たことですから」


 話を打ち切ろうとする記者を、ヒトラーがとどめた。


「お嬢さんは、大学を出たばかりかな」


「はい、大物の、あ、ごめんなさい、重要な方とのインタビューは、これが初めてなんです」


 女性記者は笑顔を見せた。


「今までのお仕事というと、小学生の合唱コンクールの記事とか、最新の家庭用電気器具がクッキングに与える影響とか、そういうものばかりで。それはそれで楽しいお仕事なんですけど」


 しゃべり出したら止まらないタイプらしい。


「インタビューのお仕事がしたくて、政治部に回してもらったんです。あたし、書くことも好きですけど、話すことはもっと好きなんです。ぴったりの職場だと思いません?」


「そうだね」


 ヒトラーはやっと一言差し挟むことが出来た。


「それではお嬢さんの前途を祝して、ひとつ特別な発表をしてあげよう。独占記事だぞ」


「何ですの?」


 記者は笑顔を見せた。本気にはしていないらしい。


「いいかい。ヒトラー総統は」


 ヒトラーは新聞記事を読み上げるように言った。


「ドイツ国内におけるユダヤ人文学作品、その他の芸術作品の販売・所持に関する規制を、抜本的に見直すことを検討すると語った」


 メモを取っていた女性記者の顔から、笑みが消えた。


「いいかい、裏を取っても無駄だぞ。私が今思いついて、これから所要の措置を講ずるのだからな。ヒムラーもゲッベルスもフリック(内務大臣)も、このことについては何も知らない。それも長いことではないが」


「よろしいのですか」


 女性記者は小さく言った。


「物事には、思い付く瞬間というものがあるのだよ」


 ヒトラーはおどけて言った。


「それに、いずれやらねばならないことだ。そう思わないかね、お嬢さん」


「ええ、そう思いますわ」


 女性記者は言った。笑顔が戻ってきた。


「私たちは、お友達になれそうですね。驚くべきことだと思いますけど、あら、ごめんなさい」


 女性記者は赤くなった。ヒトラーは立ち上がり、右手を差し出した。


「また、お会いできるといいですね」


 女性記者は言った。


「会えて嬉しかった」


ヒトラーは応じた。


----


 ヒトラーの禁酒は最近すっかり緩んでいる。ムッソリーニが死んでから、ヒトラーは夕食後のひとときを、酒瓶と共に過ごす日があった。酒瓶と、グラスがふたつ。


 総統官邸の応接室で、ヒトラーはそのようなひとときを過ごしていた。


「一桁減らしといて、よかったなあ、政やん」


 ヒトラーは独り言を言いながら、自分のグラスにワインを継ぎ足した。もうひとつのグラスには主がなく、ワインが注がれたままである。


「わしらは何もせんかったわけでは、ないのやな。守ってやれた人も、おるのや」


 涙がグラスに落ちた。


「知っとるのは、わしらだけやけど」


 ヒトラーは、涙をごまかすように、グラスを一気に空けた。


「せや。生きとったら、ただの人や」


----


 毛布を持ったエーファ夫人が入ってきたとき、ヒトラーはテーブルに突っ伏して寝入っていた。ヒトラーの肩に毛布をかけたイーファは、テーブルの上にあった名刺に気がついた。


 女性の名刺らしい。


「まあ」


 思わず声を上げたエーファは、いたずらっぽくヒトラーを見下ろすと、毛布をヒトラーの頭の上まで引き上げ、行ってしまった。


 名刺には、こう書かれていた。


 

 ロイター通信社 ハーグ支局

 

 記者 アンネ・フランク 



ヒストリカル・ノート


 よく引用される「醜の御盾」の大本は、防人の歌(万葉集 巻二十)


今日よりは顧みなくて大君の醜の御盾といでたつ我は


 で、天皇陛下を守る無骨な盾、の意味。ここでは、守る対象が一般市民なので「御」を省きました。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ