第27話 結ばれるもの 絶たれるもの
ジューコフはいまやクレムリン宮殿の主であった。スターリンと閣僚たちはすでにはるか東方のクィビシェフ市を指して出発してしまった。もっともジューコフは、スターリンが最終的に落ち着く司令部の位置を知らされていない。
砲声は絶え間なく聞こえてきていた。モスクワを貫いて蛇行するモスクワ川がいちおう天然の要害となっているが、それに沿って突出した部分を残せば、ドイツ軍の砲撃が集中してしまう。クレムリンを中心とする広い環状道路をはさんで南側の戦線がかろうじて維持されているものの、その道路に沿ってモスクワ川にかかるクリムスキー橋とクラスノホルムスキー橋はソビエト軍の手で早手回しに爆破されている。ジューコフは軍人であって政治家だとは自分で思っていなかったが、クラスノホルムスキー橋のすぐ南にあるレーニン廟の放棄を命じるとき、ジューコフはさすがに声が震えるのを自覚したものである。
9月に入って、モスクワ包囲網は3度破られ、また閉じられた。ドイツ軍は包囲網の付け根に強大な予備軍を集め、モスクワそのものには盛んに砲撃を加えながら突入を急がず、ソビエト軍が外から救出を試みるのを待ち構えていた。ソビエト軍は十分に隠蔽されたドイツの砲と戦車に-ロンメルとモーデルは多くの燃料切れ戦車を進撃路に放置したまま進撃していたので、この地域の歩兵師団はたいてい数個中隊の友軍戦車を捕獲していた-突撃をかけて甚大な損害を出した挙げ句、駆けつけた戦車部隊と自走榴弾砲に叩きのめされることを繰り返している。包囲下の部隊も最初のうちはこれに呼応していたが、弾薬の不足が深刻になったので、現在は防衛に徹していた。
ドイツ軍はモスクワそのものを人質にとって、ソビエト軍に不利な決戦を求めさせるのが真の目的なのではないか、とジューコフは判断していた。しかしそのことをソビエト軍全体の戦争指導に反映させるだけの権力を、もうジューコフは持っていなかった。
ジューコフにはもうどこにも行くところがない。あとは地獄、あるいはひょっとすると天国があるだけである。そのことはスターリンからもはっきり言われていたが、それを告げる時のスターリンがひどく悲しげだったのが、ジューコフには不思議だった。それが独裁者の矛盾した心のありようなのかもしれない。
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そのスターリンは、危急に際しワシントンから飛んできたルーズベルトの特別顧問ホプキンスに対して、不満をぶちまけているところであった。
「アメリカは約束を果たしていない。ソビエトの兵士は血を流しているというのに、アメリカは空から戦場を眺めているだけだ」
「アメリカはヨーロッパでは主に汗を流しておりますぞ、閣下」
ホプキンスは泰然と応じた。
「ペルシアルートの港湾能力および鉄道輸送能力の拡張は順調に進んでおります。順次成果も上がってきておるはずです。もっとも私どものスタッフの報告によれば、対応するソビエト国内の鉄道事情は新たなボトルネックとなりうるとか」
「モスクワは今戦っておるのだ」
スターリンは激昂した。もっともその主な理由は、ホプキンスの正しい指摘に返す言葉がないためであったが。
「援助は今必要なのだ」
「ではアルシブルート(アラスカ-シベリア間空輸ルート)を活用して、アメリカ軍の輸送機をお国に入れてよろしいですかな、閣下」
スターリンは沈黙をもって不同意を示した。
ホプキンスは続けた。
「それから、閣下。イギリスとアメリカの勇敢な若者たちは、フランス上空でおびただしい血を流しております。もちろん、アフリカにおいても」
スターリンは無言のまま、身振りでホプキンスに退出を促した。
ドイツが無制限潜水艦戦の一方的中止を宣言したことは、イギリスからムルマンスクへ向かう海上輸送ルートにとって有利な材料であった。しかしその直後に交通の結節点でもあるモスクワが孤立したことで、その有利な点は帳消しになった。モスクワが通過不可能だとなると、はるか東方のキーロフからゴーリキーを通るか、でなければウラル山脈の東にあるエカテリンブルクを経由するのでなければ、南北の鉄道輸送はできないことになる。こうした路線はキャパシティが限られており、現在のような戦況で幹線として働くには能力が不足していた。
あらゆる物資の不足によって、極東におけるソビエト陸軍の攻勢も頓挫し、そのことがアメリカに対する交渉材料を減らしてもいた。
いま米英とソビエトが離間すれば、それはヒトラーの勝利に直結する。そのことがわからない米英でもあるまいに、とスターリンは思う。米英の単独講和への誘惑を断ち切らねばならない。
スターリンは受話器を取り上げ、交換手が出ると、慎重に隠されている番号を告げた。
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トーゴーは震えていた。カフェにいる客が皆警官に見えた。壁際の席に座り、壁を背にしても、その震えは止まらなかった。
トーゴーという姓の人間はトルコにかなりいる。宿敵ロシアが敗れた日露戦争の英雄にあやかって改名した人々とその子孫である。トーゴーを名乗っているからといって特別な人々というわけではなく、それゆえ貧しいトーゴー氏もいた。貧しいトーゴー氏の中には、その当の宿敵に雇われることもやむを得ないと考える者も、いないわけではなかった。
渡されたものは、彼の足元の重いかばんに入っていた。警官はともかく、少なくともその人物の雇った監視者は、このカフェのどこかで彼の挙動を見ているであろう。
トーゴーは汗をぬぐった。さっきから汗をぬぐってばかりいる。濃いコーヒーを一気に飲もうとしたトーゴーはむせ返った。店内は込んでおり、周囲の客がじろりとトーゴーを見て、すぐ目を離した。居たたまれなくなって、時間をつぶすつもりだったカフェから出ることにした。
かばんの重さが、トーゴーの心にのしかかってきた。
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パーペンは事の成り行きに驚いていた。なんとイギリス大使から政府にオーソライズされた秘密回答があり、講和のための条件提示を求めてきたのである。パーペンも首相時代は議会の支持が得られず、ヒンデンブルク大統領の権限による大統領令で政治を行ってきた人物であり、民主主義の尊重という観点から言うとあまり好成績を残したとは言えないのだが、米英にしてみれば大物政治家としてのパーペンの過去を買っているらしい。とはいえ、政府からの訓令を取り次ぐことしか出来ない点ではパーペンも普通の大使と変わりはない。
そのドイツの回答が、ユンカース旅客機でアンカラに運ばれてきたので、パーペンは使者を迎えに空港にやって来たところであった。
トーゴーは写真をちらりと見て顔を確認すると、ゆっくりとパーペンに歩み寄って行った。冷や汗は止まろうとしなかった。トーゴーはまた汗をぬぐった。
「もしもし、お客さん」
空港警察の制服警官が、トーゴーを呼び止めた。重そうなかばんを引きずるようにして不安げに歩く、身なりが良いとは言えないトーゴーは、置き引きに見えないこともない。
トーゴーは無言で駆け出し、警官は無言で追った。パーペンはトーゴーが走り寄って来るのに気づき、身をかわそうとして、トーゴーが自分めがけて走ってきていることを理解し、悲鳴を上げた。
トーゴーはかばんのスイッチを入れると、それをパーペンめがけて放り出した。その瞬間、トーゴーは警官に後ろから組み付かれた。
今度はトーゴーが悲鳴を上げる番だった。パーペンは走って逃げた。数秒後、轟音を立ててかばんは爆発した。トーゴーと警官はガラス壁に叩き付けられ、ガラスを割って飛び出し、そのまま動かなくなった。
パーペンは爆風で転び、起き上がることも忘れて、ただ震えていた。パーペンはてっきり、ヒトラーの刺客に狙われたものと思っていた。
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パーペンが暗殺されかかったという第一報は、米英にも入ってきた。米英としては、逆にソビエトとドイツの単独講和の可能性を考えに入れなければならない。このままドイツとの交渉を長引かせ、ソビエトとの関係も好転させることが出来なければ、その危険は現実のものとなりかねない。
「急がされてしまいましたな」
トルーマンは言った。
「だが、ドイツにも代償を払わせねばならん。それなしで交渉だけを進展させることは無意味だ」
ルーズベルトは言った。
ルーズベルト政権は欧州情勢に深入りし過ぎていた。イギリスを積極的に支援してきたことの功罪一切は、アメリカにおいてはこの政権が負わねばならなかった。もしドイツがほとんど何も失うことなく、ヨーロッパの現状を固定することに成功したとしたら、1940年以降つぎ込まれてきたアメリカの資金と少なからぬ人的犠牲は無駄に終わったことになる。それは耐え難かった。次の選挙のこともあるが、それだけではない。政権に携わったものすべてのプライドかかかっている。
「ハリー、トルコへ飛んでもらおう。トルコとの、そうだな、何を交渉するかは後で考えよう。非公式訪問が出来れば口実は何でもいい」
ルーズベルトは早口に言った。
「ドイツに提示する最低限の条件は……」
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「80万人か」
ロンメルの昇進とモーデルの叙勲の式典に立ち会うためベルリンにやって来たムッソリーニは、ヒトラーと例によって秘密会談に及んでいた。
「まあ親衛隊の報告の数字やからな。これより多いことはあっても、少ないことはないやろな」
ヒトラーは不快感を口調に込めた。
「広島と長崎のざっと3倍か。一桁抑えました、言うて通る数字やないな」
ムッソリーニも深刻に応じた。
ヒトラー政権成立からこれまでの間に、ドイツの強制収容所で亡くなったユダヤ人の合計である。形式的には自然死であっても、薬品や医療機材を止めたために助かる病気も助からなかったケースがあり、餓死や凍死があり、それに比べればドイツ軍やソビエト軍が直接武器を使用したケースはむしろ少ないほどである。
「わしらのやったことは何やったんやと思うわな。この他に普通の戦死者がおるわけやろ」
「そうなんや」
ヒトラーは小さな声で言った。
「ドイツの業とか、イタリアの業とか言うのは、わしらだけでどうにかなるもんではなかったか」
ヒトラーの言葉に、ムッソリーニはため息を吐いて応じた。
「もうちょっと早う着いとったらな」
「それはそれで無茶な話やな」
ヒトラーは言った。
「それでや、相談があるんやけどな」
ヒトラーはごそごそと書類を取り出した。トルコのドイツ大使館経由で届いた、アメリカからの秘密通信である。それを読み終えたムッソリーニは、沈黙したままだった。ヒトラーも言葉をかけなかった。
「どうするつもりや」
ようやく発せられたムッソリーニの言葉は、低く鋭かった。
「受けようと思う」
ヒトラーは即座に、短く言った。
ムッソリーニは嘆息した後、言った。
「本土決戦になるやろか」
「なるやろ。ソビエトだけでも止めてやりたいけれども、それを言うたらまた交渉が長引く。ソビエトも気づいとるさかいな」
ムッソリーニは書類を投げるようにテーブルに置いた。
「それにしても、きっついこと言うて来よるなあ」
ヒトラーは応じた。
「しゃあない。それが経営や」
「世界が変わっても、わしらのやっとることは、一緒か」
ムッソリーニの口調には微苦笑が漂っていた。ヒトラーも笑った。
「そや。今月の手形落とさすのが精一杯の、中小企業や」
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ヒムラーは、終始無言で、ヒトラーの説明を聞いていた。
「君と君の部下は、私に対する義務を忠実に果たしてくれた。これからもそうであることを期待している」
ヒトラーは、そのようなことを口に出来る自分に驚きながら、そのことを顔に出すまいと努力していた。
「革命は、後退するのですな」
ヒムラーは言った。革命? ヒトラーは、NSDAPの政権掌握が党内では革命と捉えられていたことに、新鮮な驚きを覚えた。もっとも主にそういった急進的な側面を強調していた党幹部は、1934年の粛正であらかた殺されており、その粛正にヒムラーはかなり深入りしていたのであるが。
「そうだな」
ヒトラーは何気なく言った。その言葉にヒムラーが噛み付くように反駁してきたので、ヒトラーは目を見張った。
「総統はゲルマン民族の指導者であられる。そのことをお止めになるというのですか。我々に勝利をもたらすことを放棄してしまわれるのですか」
ヒムラーはなお興奮して言葉を継いだが、それはいつしか脈絡を失ってスローガンの羅列となって行き、突然止まった。
「申し訳ありません、総統」
「たしかにドイツにはプライドが必要だった。連合軍はドイツから取り上げてはいけないものを取り上げた。それがプライドだ」
ヒトラーは穏やかに言った。その穏やかさには不吉な影があった。ちょうど真犯人を言い当てる探偵の口調のような。
「しかし、無制限に尊重されるべき権利など、世界にはないのだ。権利は必ず、他者の権利とぶつかる瞬間がある。それは民主主義とか独裁制とか言った次元より、さらに基本的なところにある、誰もが直視すべき現実なのだ」
「その衝突を処理するルールは、勝者のみが作るものでありましょう」
ヒムラーは食い下がった。
「確かにルールは勝者が作る。しかし勝者の自制なくして、ルールは安定しない。ドイツは勝者に加わり、そして自制するのだ。国外においても、国内においてもだ」
「私が自制していなかったと?」
ヒムラーは泣き声になった。
「誓いを立てよう、ヒムラー長官。私より先に、君を死なせはしない」
ヒトラーは言った。
「だから今は、君の力を私のために使ってくれ」
沈黙の後、ヒムラーは言った。
「私はあなたのメフィストフェレスですか」
ヒトラーは答えた。
「そうだ。そして私は、君の理解者となろう」
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深夜の総統官邸は静まり返っていた。執務室に聞こえる音といえば、ヒトラーが時折ペンを走らせる音と、時折原稿用紙を破って丸める音だけである。
控えめなノックに続いて、ティーポットを盆に載せたエーファが現れた。ヒトラーは、振り向こうともしない。
エーファは盆を机の端に置いて、何か言おうとしたが、言葉は口を出ていこうとしなかった。
「ありがとう、エーファ」
ヒトラーは振り向きもせず言った。
「今日はもう遅いわ」
明日の演説の原稿を書いていることは、エーファも知っていた。知っていて、言わずにいられなかった。
「エーファ」
ヒトラーは振り向いた。
「これからも、私と一緒に、歩んでくれるか」
「え? ええ」
エーファは不思議そうに言った。
「健康なときも、病めるときも?」
エーファはじっとヒトラーを見たまま、しばらく答えなかった。そして、言った。
「貧しいときも、富めるときも」
今度はヒトラーが黙った。やがてヒトラーは、小さな声で言った。
「私には、君の助けが必要だ」
「明日の演説、ひどいの?」
ヒトラーは答えなかった。エーファは、ゆっくりとヒトラーに近づくと、首に自分の腕を回した。
「あなたが言ったんだから、忘れないで、アディ。どんなときだって、私も一緒よ」
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ヒトラーの重大放送があるという知らせは、国境を越えて、ヨーロッパ全体に届いていた。ユーゴスラビアで、スイスで、イギリスで、そしてもちろんドイツで、無数のラジオがひとつの電波を受けていた。ヨーロッパは、ひとつの発表を予期し、待っていたが、同時にそれが何か未知の悪いものを伴っていないか、怖れていた。
「私は政治家として、ドイツ国民が幸福を追求することを手助けしてきた。もしドイツ国民が幸福を追求する方法が、独善的なものであったとすれば、その責任はもっぱら私にある。私はドイツ国民がそのような希望を持つこと、また希望が実現すると予想することを奨励し、推進したからである。しかし今や、他の国民が同様に幸福を追求していることを認めることが必要であり、望ましい」
ヒトラーは静かに語り始めた。
「ドイツの置かれた地位は、確かに不当であった。それを修正するために、我々は力を求め、力を得た。しかしながら力を持つものは自制せねばならん。ドイツには残念ながらその点で手落ちがあった」
観衆がざわめき始めた。ドイツはひょっとして、負けたのか?
「行動を自制できる国々は、世界を混乱と戦乱から救い出すために、協力し合わねばならない。ドイツはその中で、名誉ある地位を占めるであろうし、占めねばならない」
観衆のざわめきがおさまってきた。どうやら少なくとも敗戦ではないらしい。
「我々は先頃、ある合意に達した。ドイツおよびヨーロッパにおけるその同盟国は、アメリカ合衆国、連合王国およびイギリス連邦諸国と、本日正午から1週間の停戦に同意した」
歓声と拍手があまりに大きいので、ヒトラーの演説は約15秒中断した。
「さて、アメリカ合衆国および連合王国政府が、この喜ばしい知らせを世界に告げる権利を私に譲ったことには、ひとつの理由がある。私がこの場においてある確約をしない限り、彼らは停戦協定締結のための話し合いに応じないと言っている。すなわちそれは、停戦が1週間で終わることを意味する」
ヒトラーは言葉を切った。
議場は静まり返っている。ロンドンでは、チャーチルが罪もないラジオをきっとにらみ付けながら、ヒトラーの言葉を聞き逃すまいとしていた。
「彼らは、ドイツおよびイタリアが、日独伊三国同盟を解消することを要求してきた。私は極東の戦友に対し、あえて裏切り者の汚名を着ることで、ドイツの指導者としての責任を果たしたいと考え、ムッソリーニ統領の同意を得た。我が国は同時に、ソビエトに対するアメリカとイギリスの援助がこれ以上行われないことを要求し、彼らはこれを受け入れた」
聴衆はまだ歓呼の声を上げようとしない。彼らは待っている。東部戦線は、どうなるのか。それが知りたいのである。
「このことは、我々がソビエトと永遠に戦い続けることを意味するものではない。私はソビエト政府に対し、和平のための交渉を始めるよう呼びかける。今回の交渉と連動して、アメリカ合衆国政府、連合王国政府およびローマ法王庁に対し、私はドイツとソビエトの和平の実現に向けて協力を要請したところである。勝利は国民の心のうちにあろう。私は敢えてここで、勝利という言葉に拘らない。諸国民は平和を欲している。そうであろう、諸君」
聴衆の中には戸惑いが見られた。ここで下手なことを叫んで、あとで親衛隊の尋問を受けることはあるまいかと。
「そうだ。平和だ。4年前、私が諸君から奪った言葉だ」
最初は小さく、そして次第に大きく、唱和が広がって行った。
「平和! 平和! 平和!」
やがてヒトラーは身振りで聴衆を静めた。
「諸君、我々は平和まで後一歩のところまで来ている。最後の瞬間まで、私は総統として、諸君と諸君の子弟に対し、峻厳な命令を下さなければならない。あと少しの支援を、私に与えて欲しい」
本物の歓呼と拍手が起こった。
ほとんどのドイツ人にとって、日本の運命など、どうでもいい、というより想像もつかないことに違いない。ヒトラーはそれを感じつつ、演説を続けた。
「私はこの機会に、国民と私の関係の見直しに着手したい。従来のNSDAPの宣伝は、過度に私を神格化する傾向があった。私は国家経営に一身を捧げているため独身であると発表されてきたが、これは事実ではない。私には皆さんに紹介したい女性がいる」
ロンドンでは、ラジオの前のチャーチルがティーカップをひっくり返した。
「その女性が私のプロポーズを受けてくれれば、正式に発表するつもりである」
ヒトラーは言葉を切った。観衆はどうしていいか分からないようであった。控えめな拍手が起こった。ある若者が、勇気を振り絞って、指笛を吹いた。哄笑が沸き、拍手が大きくなった。ヒトラーはにやりと笑って一礼すると、演説を続けた。
「私も国民に対して正直にならねばならないが、国民を私に対して正直にする手段と時期について、現在真剣な検討が行われている。ヨーロッパの復興と言う仕事はあまりにも多くの負担を諸国民に強いるので、それについて沈黙を強いるというわけには行かないであろう。だが私は繰り返す。この種の改革は段階的に行われる。現時点で、国民のすべての意見を公にすることは、耐え難い社会的混乱を招くであろう。国民諸君には理解と自制を要望する」
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首相官邸では、エーファが出迎えていた。かつてないことであった。エーファの存在は官邸関係者には知られていたが、送迎の場のような部外者のいるところでは、ヒトラーとエーファの関係を暗示するような行為は慎重に避けられてきていた。
エーファはヒトラーに抱き付いたので、出迎えの官邸スタッフから罪のない笑声が起きた。
「私に言うことがあるんじゃない? 私のいたずら坊や」
エーファは体を離して、ヒトラーを見つめた。
「早く済ませてしまいましょうよ。私の返事は一言で済むんだから」
ヒストリカル・ノート
1941年にモスクワが危機に陥ったとき、ソビエト政府のいくつかの機関はクィビシェフという都市に疎開する準備に入りました。このときスターリン自身がどこに移動する予定であったか、はっきり書いた資料を見たことがありませんが、クィビシェフであることを疑う理由も特にないように思います。
東部戦線がドイツにとって最も有利であった1942年に、アメリカ政府とローマ法王庁の関係者からソビエト抜きの和平について接触を受けた直後、パーペンはソビエトに雇われた暗殺者に襲われたが未遂に終わった、とするKGB関係者の回顧録が出版されていますが、この回顧録には信憑性を疑われている部分がいくつかあります。この小説はこのことを踏まえて書かれていますが、マイソフ自身は史実としてのこの事件の真偽について、判断を留保します。
(2012年5月付記)もちろん80万人という数字には根拠はありません。ユダヤ人の死者は、次の3種類に分けられると考えています。
(1)収容所外での直接的な暴力による死者
(2)収容所内で消極的に早められた死。すなわち餓死、衰弱死、通常の医療を受けられれば助かった病死と外傷死。
(3)収容所内での積極的な殺害。とくに絶滅収容所の稼働。
ヒトラーの転生時期から、(3)のすべてと(2)の大半は、「労働者としての処遇」によって防げると考えられます。大戦中のユダヤ人問題は、ヨーロッパでも多くのユダヤ人が暮らしていたポーランドを占領することで顕在化したものであり、開戦前の国内施策はむしろ(可能な限り財産を没収したうえでの)追い出し政策が主であったと理解しています。差別は千年を超える歴史があるとしても、殺害はほとんどコンセンサスを持たないのです。
ヒトラーが入れ替わった時点では、まだヴィシー・フランスを支持するマダガスカルへの強制移住計画が完全には否定されていません。一方、例えばマイケル・ベーレンバウム『ホロコースト全史』(p.223)によると、1941年のうちにアインザッツトルッペンによる直接的なユダヤ人殺害と、ガスによるユダヤ人殺害が始まっています。1942年のヴァンぜー会議は、殺害方法を調整するための会議であって、殺害・絶滅の方針はすでに既定のものとして招集されていました。とすれば、1941年のどこかで殺害・絶滅の方針が定まったと考えるのが自然でしょう。一方、イギリスの制空権奪取が失敗したという知識を持ったおっちゃんを早く転生させすぎると、おっちゃんはイギリスへの航空攻勢そのものを中止させてしまい、史実と離れすぎた展開になってしまいます。1940年9月という転生の時期は、「絶滅の方針が決定され実施されることを防げるギリギリのタイミング」として選ばれています。
また、SS経済管理本部は労働者としてのユダヤ人を最大限に活用する組織でしたから、こうした方向はおっちゃんが勝手にドイツに作り出したものではありません。おっちゃんは優先順位を変えて、「労働条件」の中になるべく多くのもの、特に生産力のない家族の福利厚生までを含めようとしたわけです。
ただ(2)も労働者として働かせている以上ゼロにはなりませんし、(1)はすでに済んでいるものが多く(ソビエト領内のユダヤ人や、イタリアが軍政に関わった南フランスとイタリアのユダヤ人は多少救えるとしても)、もうどうしようもないはずです。いっぽう、ドイツの戦争状態が1943年夏に終了していることは死者数を大きく押し下げるでしょう。そんなことを考えて選んだ数字です。
現在の視点から気になっているのは、非ユダヤ系ポーランド人も大規模に殺害されていることを考えると、占領時のいわゆるアインザッツトルッペンによるポーランドでの殺害が当時考えたより多かったのではないか、という点です。100万人を切る数字はやや楽観的に過ぎるかもしれません。ただ絶滅収容所で死んだユダヤ人が死なないと仮定しただけで相当数の死者が減ることは、容易にご確認いただけると思います。




