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第26話 ザクラと夏とふたりの将軍

 スターリンは地図を眺めていた。ソビエト西部の地図である。広軌と標準軌の転換状況や、当地の政情について、諜報員や秘密警察が調べてきた情報がまとめて書き込んである。スターリンはこの地図を誰にも見せたことがなかった。スターリンが自ら描き込んで作ったものである。独裁国家では、情報を共有することはライバルを育成することに他ならないのである。


 ヒトラーは3本の幹線鉄道によって3つの軍集団を養っている。いまいましいが、ソビエトの穀倉地帯であり酪農地帯でもある地域がドイツの手に落ちたことによって、ドイツ軍の食糧事情はかなり好転しているに違いない。ベラルーシとウクライナの親独政権は決して住民から好かれてはいないが、直ちに転覆する様子はないし、ドイツ軍は鉄道周辺の要地を警備するだけで、後方にほとんど兵力を残していない。


 しかしドイツも、ソビエトの奥深く攻め入ったことによって、補給上の限界に来ていると思われる。補給システムはそれ自身が石炭や石油や水を食うので、補給線が伸びることは最前線に送れる物資の減少を意味した。


 そのことは様々な兆候が示していた。ドイツ軍の前線での弾薬備蓄は積み上がっておらず、消費量に補給が追いついていないし、折角動員したハンガリー軍やルーマニア軍が自国の国境付近で待機を余儀なくされている。それはドイツの歩兵師団群も同様である。冬の間に損害を受けた師団が本国に呼び返され、新兵を加えて再建されたまま、かなりの部分がドイツかフランスに展開している。


 ドイツは従来のものと重複しない、新しい鉄道幹線を確保しようと複線化工事を進めているが、完成はどう考えても1943年の秋以降になるはずである。そのころには、イギリスとアメリカがペルシアで進めている港湾設備と鉄道の能力拡張工事が終わり、順調に連合国の物資がソビエトに流れ込んでくるはずである。


 ただ、イギリスとアメリカは、ソビエトが戦争を継続していくという意志と能力を疑っているようにも思われる。とすれば、春には是が非でも攻勢をかけて成果をアピールしなければならない。スターリンは地図から目を離すと、考え込んだ。


 ドイツ軍が新しい鉄道幹線を丸ごと隠し持っているのでない限り、それは見込みのある作戦のように思われた。


----


 デーニッツは悲壮な気分でヒトラーに会っていたが、その表情はいつも通りであるようにヒトラーには思えた。デーニッツは上司に対して、いつも訴えるものをひとつやふたつ持っているタイプの人物であったとも言える。


 その上申内容は、確かに深刻なものであった。


「航空機による損害が急増しております。その大半は、アメリカが建造した護衛空母の艦載機によるものと推定されます」


 デーニッツは、Uボートに対空兵装を施す試みが成果を挙げていない顛末を、事細かに語った。


 米英は輸送船団の護衛に小型空母を投入してきており、艦上戦闘機がドイツ高海航空艦隊の大型哨戒機を大西洋から駆逐してしまったために、Uボートの攻撃効率は落ちていた。さらにUボートは航空機からの攻撃を恐れて昼間に浮上することが難しくなり、充電と目標発見に支障をきたしていた。地中海方面の情勢がドイツに有利なまま膠着し、ポルトガルがドイツの脅威を感じる状況が続いているため、ポルトガル領の島々を連合軍が基地として使うことは出来なかったが、続続と完成する護衛空母群はUボートを狩り立て、追いつめていた。


「このままでは従来通りの戦果は期待できません。犠牲を甘受しつつ敵の資源を引き付けるための戦闘を続けることをお命じになるか、あるいは思いきった作戦の縮小を行うことが適切です、総統」


 デーニッツは言い切った。


「では、作戦を縮小しよう」


 ヒトラーはあっさりと言った。


「連合国に対する和平の呼びかけの一環として、無制限潜水艦作戦の一方的な中止を通告する。それでよいのだな」


 今度はデーニッツが言葉を失って狼狽した。


「海軍軍人は暇にはならんぞ。春になるとバルト海が割れて、幻の鉄道が浮かび上がるのだ」


 ヒトラーは説明を始めた。


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 1943年5月を待って、独ソ両軍が動いた。ソビエト軍は中央で、ドイツ軍は南で。


 ソビエト軍は春の泥濘の間に作り溜めた戦車軍団を先頭に、スモレンスクから突破を試みた。


 ドイツ軍はようやく長砲身75ミリ砲の弾薬不足を解消しており、ソビエト軍に大きな損害を与えつつ後退した。ソビエト軍の重砲兵が攻撃開始位置から前進を始めたタイミングを見計らって、その突出をとがめるべくモーデル大将の戦車軍団がソビエト軍の背後を突いた。ソビエト軍の先鋒は包囲され、戦線に空いた穴からモーデル大将とガイル大将の戦車軍団が入り込み、南北に傷口を広げにかかった。


 南方では、とうとう戦車軍団をせしめたロンメル中将がキエフ北方でドニエプル川を渡り、ドニエプル川に沿って戦線が弓なりに突出した部分を包囲にかかる……はずが、真っ直ぐに東進し、ハリコフを目指していた。マンシュタイン上級大将は短くため息を吐いて、フーベ大将の戦車軍団に後方の穴を埋めさせた。


 ドイツ戦車師団は、この間ほとんど増設されておらず、第1から第20までのほとんどの戦車師団が3号戦車・4号戦車を合計200両以上保有していた。スモレンスクでは戦車対戦車の激しい戦闘が展開されたが、経験の豊かさと総合的なチームワークに勝るドイツ軍が、大きな損害を出しつつ戦場を支配した。


 ソビエトの戦線は中央でへこみ、南方で崩壊した。ドニエプル屈曲部をハリコフまで切り取ったドイツ軍の先鋒は、6月末には黒海沿岸のロストフまで迫った。ドイツ軍は補給物資を激しく消耗し、攻勢は止まるかと思われた。


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 短い夏を迎えたバルト海には、ドイツの上陸用舟艇が群れを成していた。キールから、ロストクから、ダンチヒ(現グダニスク)から、補給物資を積んでラトビアのリガを訪れ、また帰っていくのである。港湾能力を超える分の物資は、砂浜に放置された。


 イギリス上陸作戦のためにドイツが急造した舟艇は、いまや海を越える補給路を維持するために使われていた。リガからモスクワまでは戦前からの鉄道が一直線に伸びている。ドイツ鉄道工兵隊は重点的にこの路線の整備を進めていた。


 ドニエプル川の鉄道橋がことごとく落とされているため、南方軍集団の進撃はハリコフ・ロストフで止まり、北方のクルスク方面へ進出することもかなわなくなった。しかし北方軍集団と中央軍集団は生気を取り戻し、鉄道の分岐点ヴェリキエ・ルーキを越えて、レニングラードとモスクワの中間地点とも言うべきデミヤンスクに迫っていた。


 もはやドイツの攻勢目標は隠しようもなく、ソビエト軍の反撃は必至であった。すべての作戦は、モスクワの攻防を意識して立てられていた。


----


 今日のヒトラーの夕食には、カナリス大将・国防軍情報部長、ハルダー元帥・陸軍総司令官、リッベントロップ外務大臣が呼ばれていた。


 カナリスはいまやシュペーアと共に、おっちゃんの秘密を打ち明けられ、ヒトラー一味に加わっていた。ヒトラーは、ハルダーにはあえてそうしなかった。ハルダーが軍人としてヒトラーに忠実である限り、それで良いと思ったのである。誰でも信じてくれるような話でもない。


 リッベントロップは多弁であった。


「私は思うのですが、総統。イギリス上陸作戦は、あのような多数の輸送船舶を建造するための、欺瞞であったのでしょうか」


 ヒトラーは笑った。


「それはまあ、言い過ぎだな。私としては、あれでイギリスが講和を申し出てくれれば、そのほうがよかった。だが、現在のような船舶の流用を、考えていなかったわけではない」


 リッペントロップは感心したような顔をして見せ、ハルダーはにこりともせず、カナリスは口を歪めて笑った。


「実のところ、現在の東部戦線の状況もまた、西の状況と結びついている。ソビエトが単独講和に応じた場合も、アメリカとイギリスが講和に応じた場合も、どちらにしてもドイツの戦争は終わるであろう。ソビエトの継戦能力を疑う材料が積み上がれば、ソビエトの崩壊そのものに至らずとも、講和が成立しうるのだ」


 ボルマン官房長は一言も発さず、テーブルの隅でヒトラーの発言を筆記している。すべてを知っているということそのものが、ボルマンの権力基盤なのである。


 カナリスも、じっとヒトラーの言葉を聞いていた。米英とひそかに接触し、講和の糸口を探ることを、カナリスはヒトラーから依頼されていた。


「従って、政治的な目標と軍事的な目標は、いまや一致している。ソビエト軍の戦闘力を減殺することが、政治的にも最も望ましい。首都を占領されることはソビエト政府にとって大きな失態となるが、ソビエト軍の主力を効果的に叩く別の方法があれば、モスクワに拘る必要はないのだ」


 ハルダーは、慎重に口を開いた。


「東部戦線の南方については、いかがお考えでしょうか」


「現在の戦線を維持することが望ましいが、ドニエプル川までは後退しても良い。ソビエト軍の戦力を分散させるためのオトリとして、有利な取引の機会があれば高くソビエトに売り付けてやることだ」


 ヒトラーは何かを思い出したようであった。


「さて、ロンメルをどう処遇したものかな、元帥」


 ハルダーは答えた。


「ベルリンで柏葉剣付騎士十字章を授与して、そのままフランスかイタリアで勤務させるのは如何でしょう」


「それは私も考えたが」


 ヒトラーは言いかけて黙った。


 親衛隊の「ダスライヒ」「トーテンコープ」両師団を含め、ドイツには22個戦車師団があり、春から初夏にかけての激しい戦闘によって5個師団が攻撃任務に適さない状態と判断されていたが、そのうち2個はロンメルの無理な前進によるものであった。ハリコフは占領したものの、南方軍集団がちびちびと使って行くべき一夏分の補給物資を1個戦車軍団で使い切ってしまったのも、また事実であった。マンシュタインはあからさまにロンメルの交代を具申してきていた。


 ヒトラーは言った。


「この手の悪漢をドイツが必要とするときがあるとすれば、今がまさにそれだ。誰かがモスクワの向こう側にたどり着かねばならん」


「ロンメルに新しい軍団を与えるということですか」


 ハルダーの問いからは、何の感情も伝わってこなかった。


「新しい軍団と、そう、アドルフ・ヒトラー連隊を与えよう。モーデルにはグロスドイッチュランド連隊を与えたまえ。北と南から、モスクワを包囲する輪を閉じさせるのだ。ああ、もちろん、最終的に決めるのは元帥だ。もっと無茶な前進を好む軍団長を元帥が知っているなら、その人物でも良い」


 ハルダーはもはや苦笑するしかなかった。


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 点火されたふたつのエンジンは、炎交じりの噴煙をまっすぐ後方に吹き出した。リビッシュ博士のロケット航空機の有人飛行実験が中断されてから、このエンジンは人類が空を飛ぶための、最も贅沢な装置である。古城に見せかけた管制室から、2本の長いアンテナを通じて、秒読みの声がパイロットに伝えられる。


「ドライ、ツヴァイ、アインス、ヌル…発射!」


 ライン川にほど近い秘密飛行場の長いカタパルトから、次々にHe280Bジェット戦闘機が射出され、やがて高空に白い飛行機雲が平行に何本も走った。北フランス上空で、アメリカの重爆撃機を迎撃するのである。


 高空を飛来する戦略爆撃機の迎撃では、戦闘機の上昇にかかる時間が重要なファクターであった。警報が出てから、間に合ううちに高度10000メートルを超えるところまで上がらなければならない。その点、ジェット戦闘機の性能は隔絶していた。


 しかしドイツの勢力圏では各種の希少金属が不足しており、ジェットエンジンの素材となる耐熱合金の生産に制約が多い。これにジェットエンジン技術の未熟さそのものが加わって、エンジンの耐用時間はまだ10時間に達しない。1回の出撃でエンジン交換を余儀なくされることすらある。ドイツと連合軍のマクロ的なせめぎあいの中では、He280部隊の役割はデモンストレーション部隊の域を越えるものではない。


 しかし空を飛ぶものにとって、機関銃弾を吐くものは、ひとしく脅威であることに変わりはなかった。


 ジェット戦闘機隊長のホフマン大尉は、あまり下方視界が良いとは言えないコクピットで精一杯首を伸ばし、味方のレシプロ戦闘機隊がゆっくりと中空を飛んでいるのを確認した。ジェット戦闘機は速いだけに小回りが利かず、エンジン出力を急に上げたり下げたりすると故障する危険があった。だから爆撃機には強いが、敵戦闘機に対しては意外にもろい。


 昨年のイギリス上陸作戦で飛行場と機材と士気に大きな痛手を受けた連合国空軍は、公平に見て、かなり戦力を回復してきていた。ドイツ軍の主力は東部戦線に取られ、ここ数ヶ月のパワーバランスはゆっくりとドイツ軍に不利になっている。とはいえ、ヨーロッパ大陸の上空では、まだドイツ空軍が主導権を握っていた。


 来た。アメリカ空軍のB17爆撃機が約100機。その性質上、ジェット戦闘機隊は危急のときだけ出撃を命じられることになっていたが、呼ばれるに値する数である。隊長は短くレシプロ戦闘機隊の隊長と交信すると、B17に正面から攻撃を挑むべく、さらに高度を上げた。別に騎士道に則って挑戦しているわけではない。爆撃機の正面は操縦席を置く都合上、銃座が置きにくく、射撃の死角が出来るのである。


 ほんの少し下で、戦闘機同士の空戦が始まったらしい。最近は両軍が互いに護衛の方法を学びあって、まず半数の戦闘機が敵戦闘機のいそうな飛行場を襲撃して挑戦し、そののちに残りの戦闘機に護衛された爆撃隊が続くというのが一般的な方法となっていた。ドイツ軍にもレーダー網が整備されてきて、敵戦闘機が大挙してドーバー海峡を渡って来ると、すぐにどこかのレーダー局がそれを捉えて、各戦闘機隊に警報と出撃命令が出る。


 ぐんぐん先頭のB17の姿が大きくなってくる。すれ違うのはほんの刹那のことゆえ、射撃のチャンスもまた一瞬である。ホフマンは引き金を引いた。2門の30ミリ機関砲が機体全体に振動を伝える。もう少しで衝突するというとき、隊長は機首を引き起こした。B17の機体が傾き、数秒して禍禍しい風切り音が聞こえてきた。すれ違ったときの相対速度はマッハ1を超えるから、He280が上昇角を大きくして再び攻撃位置につこうとしたとき、やっと墜落しようとするB17の振動音と摩擦音が耳に入ってきたのである。100機の緊密な編隊ともなると、そのマッハ1でも行き過ぎるのに数十秒かかる。その間、爆撃機隊の上部銃座から撃ち放題に撃たれることは、どうすることもできない。


 今日の戦闘隊の出撃機数は10機である。定数は36機だが、この出撃可能機数は最近の平均的な数字である。埋まっていない定数があり、他の機体のために部品を取ってしまって「長期修理中」扱いになっている機体があり、さらにエンジン交換作業中の機体があると、そのような歩留まりになるのである。


「バウケ、バウケ」


 撃墜を知らせる暗号コードが通信機から次々に入ってくる。5機は落ちたであろう。緊急連絡はひとつも入ってこない。幸運である。


 追いすがってもう一撃加えるだけの残弾はある。ホフマンは編隊を整え、爆撃機隊を追わせた。2機のHe280が何を慌てたものか、攻撃後高度を逆に下げてしまい、編隊から離れてしまった。ホフマンは彼らに帰投を命じた。現在の戦況では、ジェット戦闘機は勝利を確信できる状況でのみ戦うべきである。これは政治的な配慮から出た指示であったが、ホフマンは部下の命を守るために、この指示をしばしば濫用した。ホフマンは多くのドイツ軍人と同じように、この戦争が次のクリスマスまでには終わると思っていた。


 再び接近。射撃。離脱。決まりきった手続きによって、3機のB17の運命が決定された。もちろんこの他にも、いろいろなことが起こったであろうが、ホフマンには知ることが出来ない。B17のクルーの中で最も死傷率が高いのは、尾部銃座の射手であると、ホフマンは情報担当士官から聞いたことがある。


 護衛戦闘機が追いすがってきた。アメリカ空軍のP38戦闘機である。双胴・双発の戦闘機で航続距離が長いが、ドイツ国境に程近いこの空域まで来れば、もう燃料はぎりぎりであろう。ホフマンは戦域を離脱することを命じた。He280は戦闘機と相打ちして割の合う戦闘機ではない。


 通信機から悲鳴が聞こえてきた。先ほど帰した2機が、まだ敵戦闘機が上空にいるのにうかつにも着陸しようとして、敵戦闘機に追われたのである。ジェット戦闘機は高速なために、離着陸のさい直線コースを長い間飛行する必要があり、敵戦闘機にそこを狙われると危険であった。


 P38は1機しかいない。おそらく逆上して帰還を諦めたのであろう。ホフマンは精一杯の加速をかけて、戦闘機を追った。


 後方斜め上からの1連射で、P38はちぎれ飛んだ。機首を引き起こそうとしたホフマンは、右のエンジンが止まっているのに気づいた。さっきの急加速のせいであろう。高度が低すぎて脱出も出来ない。


 ホフマンは機首をほぼ水平に戻したが、それが精一杯で、そのまま地面に激突した。何も考える暇はなかった。


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 トルコの首都アンカラの夏は暑い。日陰とは言え、風通しの良くない高い壁の内側で午後のお茶を飲むのは、パーペンの好みではなかった。しかし今日ばかりはそうも言ってはいられない。


 不思議なお茶会であった。パーペンとふたりの客は名を名乗らず、名を尋ねない。それでいて相手か誰であるか、ちゃんと互いに分かっている。


 物価のこと、子供の教育のこと、そして天候のこと。世間話はいつまで経っても終わらなかった。互いに、本題に入ることをためらっているのである。最初にしびれを切らせた人物の英語には、アメリカなまりがあった。


「私どもを今日お招き頂いたのは大変うれしいことですが、何かご用件がおありなのだと思っておりました」


「さよう、私の雇い主は私に、平和のための提案は何でも受けるように、と伝えて参りました。何でも、です」


「それはご丁寧なことです。あなたの雇い主はラジオを使って、そのような内容を毎週伝えておられるのに」


 アメリカなまりの男は言った。


「重要なのは、お返事を頂くことです。私どもにも、ラジオではお話できないような用件もありますのでな」


 パーペンは動じなかった。


「その提案には、例えば、ドイツの国境を1933年当時のものに戻すようなことも、含まれるのですかな」


 キングズ・イングリッシュを話す第三の男が、丁寧ながら明確に言い放った。


「私の雇い主は、それを受け止めて、誠実に回答するでしょう」


 パーペンは答えた。


「あなたの、その、雇い主は、あなたにどのような原案も示してはおられない。そうですな」


 アメリカなまりの男が言った。パーペンは微笑して答えなかった。


「私の友人がローマ法王庁に勤めておりますが、ローマ法王猊下が和平交渉を仲介なさる動きがあるそうです。それもあなたの雇い主が望まれたがゆえでしょうか」


 キングズ・イングリッシュの男が言った。パーペンは答えた。


「法王猊下が平和についてお考えになるのは、いつものことでしょう。誰に指図される必要もないことです」


「あなたの受けた指示と同じものを、すべての、その、あなたの同僚は受けているのでしょうか。それとも、あなたの経歴から、あなたが特に選ばれているのでしょうか」


「私には分かりかねますな」


 パーペンはアメリカなまりの男の質問を受け流した。実際には、ヒトラーは中立国に駐在するすべての大使に、ほぼ同じような指示を外務省経由で出していて、パーペンは旧知の友人からそのことを聞かされていた。


「大変おいしいお茶をありがとうございました」


 キングズ・イングリッシュの男が立ち上がると、アメリカなまりの男もつられて立ち上がった。


 ふたりを見送ると、パーペンはため息を吐いた。久しぶりに、気疲れする会談だった。こういった米英独の大使による秘密会談が、いろいろな国で試みられているとすれば、滑稽というほかなかった。おそらくこの動きはソビエトを混乱させるための陽動か、米英の反応を探るジャブで、どこかでもっと真剣な交渉が試みられているのであろう。


 ヒトラーの前のドイツ首相にして、ヒトラー政権発足当時の副首相であったパーペンは、大戦前から駐トルコ大使の職にある。ヒトラーは利用価値のなくなったパーペンを島流しにしたつもりであろうが、はからずもドイツの中立国大使として世界政治の焦点に戻ってきてしまって、パーペンの胸中は複雑なものがある。


 ローマ法王庁の動きも、おそらくムッソリーニの働きかけが影響しているのであろう。最近のヒトラーは昔のヒトラーとはどこか違う。最初は自分を陥れるヒトラーの罠ではないか、和平交渉をさせておいて本国へ送還し処刑する口実にするのではないかと怖れたパーペンだったが、最近ではすっかり腹を括ってしまっている。人生の明るい面を探して生きていかなければ、パーペンのような立場の人間はやって行けなかった。


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 ドイツ軍のモスクワ方面攻略作戦「ザクラ」は、ブルーメントリット参謀総長の下で、大慌てでまとめられた。東部戦線が主要な戦場となったため、東方総軍司令部は1942年の秋を乗り切った時点で解散され、ルントシュテット元帥は孫のところへ戻って行った。陸軍参謀本部が直接北方、中央、南方の各軍集団を指揮下に置いている。


 キュヒラー上級大将の北方軍集団は、モスクワ-リガ鉄道に沿ってルジェフで蛇行するボルガ川の上流に達し、川沿いに北東へ進んでカリーニン(現トベリ)でモスクワ-レニングラード鉄道を遮断し、そのままボルガ川を渡って北回りにモスクワの包囲を目指す。先頭に立つのはモーデル大将の第41戦車軍団で、第1戦車師団、第6戦車師団、第36自動車化歩兵師団、グロスドイッチュラント自動車化連隊、第501独立戦車大隊、第653独立対戦車大隊を指揮下におさめる。


 クルーゲ上級大将の中央軍集団は、主要な補給線がモスクワの真西から伸びているため、それより南のミンスク-ゴメリ-ブリャンスク間の鉄道が順調に復旧することを当て込んだ補給計画とならざるを得ず、北方軍集団よりこの面で不利である。ただボルガ川に匹敵するような障害がなく、平坦な地形が続いていることが利点とされる。ツーラとモスクワの間を駆け抜け、モスクワの東で北方軍集団と手を握ることが期待されていた。ロンメル中将は第46戦車軍団を率いて先陣を務め、第2戦車師団、第4戦車師団、第29自動車化歩兵師団、アドルフ・ヒトラー連隊、第502独立戦車大隊、第654独立対戦車大隊を隷下に置く。


 空挺作戦の実施は、熟慮の末に見送られた。その最大の理由は、空輸による補給を実施せざるを得ない可能性が高く、輸送機を温存する必要があるためである。


 攻勢開始は、1943年7月15日と定められた。


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「これだけの88ミリ砲があれば、我々はカイロまで行くことが出来た。そうは思わんか」


 ロンメルは上機嫌であった。


「まったくその通りであります」


 マルコは言った。


 ロンメルがドイツに呼び戻されてから、少なからぬイタリア兵士が、ロンメルの下で戦い続けることを志願した。彼らは必ずしも指揮語としてのドイツ語が理解できなかったから当然問題視されたが、結局のところ1個中隊分のみを選抜して、ロンメル専属の護衛中隊とすることになった。


 彼らはホルニッセ自走砲を装備する第654独立対戦車大隊を従えるように行軍していた。装甲の薄いホルニッセが集団のこんなに前の方にいるのも問題だし、その前を軍団長の通信装甲車がのこのこ走っているのがもっと問題なのはマルコにすら分かるのだが、ロンメルにだけは分からないらしい。


 ロンメルは兵士に愛されてはいなかったが、許されていた。もし自分たちが急に出世して高級指揮官になったら、ああいう人物になるかもしれない。そう思わせるものがあった。早くにエリートコースに乗った参謀将校にはない、出世し過ぎた同族としての雰囲気を、兵士たちはロンメルから感じ取っていた。


「敵機!遮蔽物取れ!」


 叫び声と共に、前方にいる兵員輸送車の分隊長が手を水平に何度も振るのが見えた。ロンメルもマルコも装甲板の下に身を隠した。爆音が近づいてくる。機関銃の音が響いた。爆発音がするのは、ホルニッセに違いない。弾薬が誘爆したのであろう。


 開け放たれた兵員輸送車の真上をかすめた機影は、アメリカ軍から提供されたP39戦闘機のようであった。かなり遠くで対空機関砲が応射する音がする。ホルニッセの88ミリ砲はもともと高射砲だが対空照準装置がなく、こういうときの役には立たない。


 ロンメルが無造作に顔を上げたので、マルコも飛び上がるように外を見た。2機いる。隊列の後ろの方で曳光弾が打ち上げられているのが火花のようである。ソビエト戦闘機はさらに後列に銃撃を加え、合計3台のホルニッセを撃破すると、ロンメルという大魚を残して引き上げて行った。まさかこんな位置に軍団長車がいるとも思わないのであろう。


 たとえ航空優勢が確立されている場合でも、陸軍と空軍の意思疎通はどの国でも難しく、陸軍への航空支援は事前に慎重に計画されない限り当てにならず、不確実であった。


 再び前進が始まった。


「もっと対空火器が必要だな」


 ロンメルは言った。おそらくロンメルはそれを実際に上申するだろう。マルコには分かっていた。その資源を他に使ったらどうなるだろう、などという戦略的な考慮は、ロンメルには無縁のものであった。ロンメルは骨の髄まで戦術家であり、その場を最もうまく切り抜ける方法のみに考慮を集中することが出来た。


「アドルフ・ヒトラー連隊、敵前哨部隊と接触、増援を求めています」


 レシーバを耳から離したロンメルの副官が、通信内容を書いたメモをロンメルに手渡した。ロンメルは即座に答えた。


「すぐ行くと返電しろ」


「は?」


「すぐ行く、だ」


 ロンメルの通信装甲車と数両の護衛部隊車は、隊列を離れて不整地に入った。道なき道をアドルフ・ヒトラー連隊の戦闘地域めがけて直進するのである。マルコは鼻歌を歌い出したい気分だった。これでこそドン・エルヴィーノだ。


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「多少、消費弾薬量が多いかと存じますが」


 参謀長は遠慮がちに、ボルガ川対岸への準備砲撃計画について、モーデル大将に再考を求めた。


「かまわん。足りなくなったら空輸もあろう。この作戦は短期間に決定的な戦果を挙げることが求められておるのだ」


 モーデルは焦りを隠そうともしていない。モーデルの頭の中を占めているのはロンメルのことばかりである。


「カリーニンへの突入部隊を督戦に行ってくる」


 参謀長はもう何も言わずに敬礼した。モーデルは戦車師団に市街地への突入を命じていた。隠れるところの多い市街地では戦車が肉薄攻撃を受けて撃破されることが多く、本来戦車部隊には不向きなところである。しかし今回はそんな事を言っていられない。もしカリーニンの北にある鉄道橋を無傷で奪取できれば、その後の軍団の進撃スピードはまったく違ったものになるのである。


「街が邪魔になるなら、壊してでも通らねばならん」


 出かけ際のモーデルのつぶやきを、参謀長は聞かなかったことにした。


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「敵はひどく割の良い取引をしていますな」


 ロンメルは戦場の状況を一目見て言った。アドルフ・ヒトラー連隊は強固に守られたソビエト軍陣地帯にさしかかっている。連隊から少しずつ前哨部隊を出し、それが撃たれることで相手の位置を暴露させているのだが、前哨部隊の損害がひどく大きかった。このまま行くと、じきに連隊そのものが戦力をすり減らして、攻撃任務に就けない状況になってしまう。


「連隊が全体として一度にソビエト戦線を突破するしかないようですな」


 ディートリッヒ連隊長はロンメルの言葉に、興奮した赤い顔でうなずいた。


「今夜は徹夜になるでしょう。兵士に休息と食事を取らせてください」


 ロンメルはディートリッヒの指揮権に無造作に介入した。ディートリッヒは何か言いかけて引っ込め、参謀長に言った。


「軍団長のおっしゃる通りに」


「ところで、軍団長はこのように長い時間をここでお過ごしになって、良いのですか」


 マイヤー少佐は無遠慮に尋ねた。ロンメルとその護衛中隊は、マイヤーの大隊本部と一緒に攻撃開始時刻を待っている。


「うむ、まあ、すべての軍団直轄部隊は各師団に割り付けてあるから、しばらく司令部では重要な仕事がないのだ」


 何が重要で何が重要でないか、ロンメルの意見と彼の参謀長の意見は異なっているのであろうとマイヤーは思ったが、口には出さなかった。


「時間だな」


 準備射撃の開始時刻になったので、ロンメルは短くつぶやいた。ミューンと独特の音を立てて、ロケット弾が次々とソビエト陣地の方向へ飛んで行った。アドルフ・ヒトラー連隊にはロケット砲中隊がつけられていて、それがありったけのロケット弾を撃ち出そうとしている。


 戦車と装甲車が一斉にエンジンをかけ、人の声も聞こえなくなった。




 マイヤーと大隊本部班の面々は、短機関銃を構えて前進するロンメルと、それを守って展開する護衛中隊のイタリア兵たちを、毒気を抜かれたように見送っていた。上には上があるものである。


「遅れるな」


 マイヤーの声にどこか力がない。


 陣地に張り付いていた兵士と砲はあらかた制圧したが、まだ夜は明けない。夜間のことで、前哨を出してはいてもうまく伝令が司令部を見つけるとは限らず、遭遇戦がいつ起こるか分かったものではない。


 にわかに銃声が激しくなった。だいたい斜め右手としか分からないが、制圧しているはずの一角である。ドイツのものではないエンジン音も聞こえる。マイヤーは手元にあった最後の中隊とともに、応援に向かった。


 敵と味方の区別がつかない。このままでは後ろから味方を撃ってしまうかもしれない。マイヤーは思い切って、照明弾を撃つことにした。信号弾ピストルの先に太い弾丸を取りつけ、進行方向の上空に撃つ。


 白い光のもとに浮かび上がったのは、10両ばかりのT34、数百人のソビエト兵、そしてまばらなドイツ兵である。


「マイヤー大隊、前進!」


 マイヤーは叫んで走った。大隊本部班は心得顔で追随してくる。もはやいくらも距離がない。小銃よりも短機関銃が威力を発揮しそうである。


 ソビエトのものでもドイツのものでもない発射音が響き渡った。マイヤーはそれが、ロンメルたちのベレッタ短機関銃の銃声であることに気がついた。


「ドン・エルヴィーノ!」


「ドン・エルヴィーノ!」


 何度も別の兵士が同じ言葉を叫ぶ声がする。ロンメル将軍に何かあったかと耳をそばだてたマイヤーは、すぐに事情を察した。イタリア兵たちが突撃の景気付けに、指揮官の名を叫んでいるのである。やれやれ。軍団長との同士討ちは避けたいものだ。


 夜明けの薄明かりが漏れてくる頃、ようやく大勢は決した。ソビエト軍の有力な陣地は蹂躪され、突破された。連隊は大きな損害を被ったが、弾薬の補給さえ受ければ、攻撃任務に就くのに支障はないと思われる。いま各中隊が、使えるソビエトの短機関銃と弾薬を探し回っているはずである。


 マイヤーは陣地跡を見分しながら、損害報告を受け、当座の指示を出していた。そのマイヤーの目に、汚れて疲れきった男たちと歩いて来るロンメルの姿が映った。近づくと、ロンメルは笑顔でマイヤーに握手を求めた。


「おめでとう」


「ご協力に感謝します。得難い体験でした。それは?」


「ああ、これか。戦利品だよ」


 ロンメルはマイヤーの視線に気づいて、愉快そうに笑った。


 ロンメルはもう短機関銃を持っておらず、代わりにスコップを握っていた。


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 もしモーデルが現在の立場に居なかったら、眼前の偉観を心から楽しむことが出来たであろう。つなぎ合わされた長い仮設橋梁が、ボルガ川の両岸に据え付けられたクレーンによってゆっくりと持ち上げられ、破壊された鉄道橋の両岸の橋脚を支点として固定されつつある。爆破されずに残った橋脚の基部を使って、その中ほどを支える工事のために、すでに専門の水中作業鉄道工兵中隊がドニエプル川の仕事場から呼び寄せられて、川岸に待機している。


 結局のところ、市街戦で多くの車両を失ったにもかかわらず、橋は爆破されてしまった。モーデルはやり場のない思いをじっとこらえている。まあ、こらえていると思っているのは本人だけであったかもしれない。幕僚たちは、針が落ちても飛び上がるほど、上官の機嫌に気を遣っていた。


 当分は、艀を使って少しずつ機材を渡していかなければならない。ソビエトの反撃は当然予想されるところである。南のルジェフにももう橋頭堡ができているはずで、そちらからも補給を受けられるようクライスト上級大将に掛け合ってみなければならない。ドイツはソビエトの予想したまさにその地点で攻勢をかけているわけで、ソビエトの兵力集中は早いであろう。


 アメリカからの本格的な援助のしるしは陸上の戦線にはまだ現れていなかったが、ベーリング海峡を越えてアラスカからシベリアへ直接航空機を飛ばす補給路は、すでに働き始めていた。空におけるアメリカ機のプレゼンスは高く、ソビエト軍の移動を妨害しようとするドイツ空軍の作戦は、時折頑強な抵抗に遭うようになっていた。


 モーデルの司令部はまだボルガ川を渡っていない。それより早く橋頭堡に送り込まねばならないものが多すぎるのである。明日こそは、とモーデルは思う。明日こそは参謀長が何と言おうと、装甲車1台でボルガ川の艀に乗り、進撃の先頭に立とう。


 参謀次長まで務めたこの自分が、陸軍大学校すら出ていないロンメルに遅れを取るなどということは、プロイセン陸軍の伝統にかけてあってはならない。そう考えるモーデルの胸中では、自分も第1次大戦中の速成課程しか出ていないことは、きれいさっぱり忘れ去られていた。


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 マンシュタイン上級大将が、ロンメルとモーデルの競争の様子について聞く様は、どこか楽しそうであった。もちろんマンシュタインは別の指揮系統に属するから、正式な報告書を読むことは出来ない。最近の異動で中央軍集団司令部からやって来た幕僚から、噂話として聞いているのである。


「私が読んだ最後のロンメル将軍からの報告書には、このような一節がありました。『私が最近見分した前線の状況から判断すると、ロシアでは戦車は畑で出来るらしい。我々はこれを刈り取りつつ前進している』」


 マンシュタインはそれを聞いて、とうとう声を出して笑った。


「もちろんロンメル将軍は、刈り取りよりも前進の方を優先させているのであろうな」


 問われた幕僚は、将軍に対して評価めいたことを言うのを避け、曖昧に微笑した。


「閣下が中央軍集団の指揮を執られていたとしたら、どうされますか」


 シュルツ参謀長が尋ねた。


「どうもできまいよ。今回の作戦はブルーメントリット(参謀総長)が立てたものだろう。時間をかけて優勢を拡大することが出来ない、政治的な事情が優先されておるのだ」


「確かに、やや性急ですな」


シュルツが相づちを打つ。


「その事情を窺い知ることは出来ないが、モーデル将軍とロンメル将軍を起用したのは面白い発想だ。ふたりが急いでいるのはいつものことだから、参謀本部が急いでいるという事実は隠される」


 新任の幕僚がくすりと笑った。


「ふたりとも、予備などは残さずにすべてを前線に投入しておるのだろう。自分自身も含めてな。息切れしなければ良いのだが」


 マンシュタインの口調に深刻な懸念が混じっているのを、シュルツは感じ取った。


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「あれは、グロスドイッチュラント連隊の車両だな」


 モーデルは通信装甲車から身を乗り出して、前方を走っている兵員輸送車の列を見ながら言った。第501独立戦車大隊とグロスドイッチュラント連隊はチームを組んで、モーデル大将の急先鋒として働いていた。


 第501独立戦車大隊の持つ新戦車レオパルドは、43口径75ミリ砲を備える、30トン級の戦車で、すべてが4号戦車より一回り大きかった。前面装甲は斜めになっており、弾を跳ね逸らしやすくなっている。決して圧倒的な威力を持っているとは言えなかったが、生残性は色々な点で増していた。


 そのレオパルドをすりつぶすように消耗しなければ前進できないのが、現在の部隊の状況であった。前後左右が互いに支援し合えるよう横2列以上に配置された対戦車砲陣地は、何両かの犠牲無しには突破できなかった。もたもたしていると、そこへソビエト軍のロケット弾や砲弾が落ちてきて、両軍の兵士と機材を平等に吹き飛ばした。ソビエト軍も実戦から学んでおり、そうした陣地の手前には必ず地雷原があった。工兵を待っている暇はなかった。自分の道は自分で切り開かねばならなかった。


 夜も砲撃のためにほとんど眠れない。互いに嫌がらせのために夜間にも散発的な砲撃を加えて、敵を眠らせないようにしているからである。最前線の兵士たちは薄汚れ、目だけをらんらんと輝かせて歩いた。すでに歌う者も、話す者もいなかった。敵襲があると反応の早い者と鈍い者がおり、鈍い者の中から主に死者が出た。


 モーデル自身も気力だけで起きていた。そして、各部隊を順繰りに起こして回るように、絶えず前線の兵士たちを激励した。


 モーデルは、装甲兵員輸送車の隊列から、ひとりとして軍団長に手を振るものがいないことに気がついた。エンジン音とキャタピラ音だけが鋼鉄のコンチェルトを奏でていた。最後尾の兵員輸送車に追い付いたモーデルは、車内を覗き込んだ。


 車内は眠りこける兵士に満たされていた。分隊長は立ったまま前部の機銃座にもたれかかって寝ていた。責任感から警戒役を引き受けたものの、耐え切れなかったのであろう。


 モーデルの心の中で、叩き起こそうという意見と、そっとして置こうという意見が激しく争った。ふと自分の車内を振り返ると、着席している副官の頭がぐらりと揺れて、すぐ元に戻った。副官は上司の視線に気がついて、恐縮した。


「寝ておけ」


 モーデルは着席しながら言った。


「私も少し寝ることにする」


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「ひどいものだな」


 ロンメルは参謀長のまとめた報告原案を読んで言った。ロンメルの戦車軍団は、2週間の間に、人も資材も作戦開始前の60%近くまで減少していた。部隊としての指揮系統は乱れ、もはや攻撃任務に就くことに支障が出ていた。断続的な反撃と砲撃で、士気も殺伐としていた。


 ドイツ軍の攻勢意図はあまりにも露わであり、迂回して弱いところを突くという戦車部隊のいつもの手がまったく通用しなくなっていた。ロンメルとモーデルの軍団がモスクワ包囲を目指しているのは明らかである。進行方向がはっきりしているから、ソビエト軍はそれを阻むように予備隊を配置していけば良い。


 どの方向へ進出しても敵がいた。小銃弾は空輸できても、重い榴弾はそうは行かなかった。弾薬の足りない分は、無理な突撃という形で歩兵と戦車兵が対価を支払うしかなかった。その結果が、この数字である。


 司令部のテントは素通しで、特に入り口がない。だから作戦主任参謀があたふたと駆けてくるところは司令部に居る者すべてに見えた。


「第19戦車師団の先遣隊が、やって来ました」


 参謀長が思わず問い返す。


「やって来た? どこへだ」


「ここへです」


 それを追うように、会ったことのない士官が数人、司令部にやってきて挨拶した。連絡もなく、新しい戦車師団が、まるごと、やって来る。そのことの意味を、ロンメルとその幕僚たちは、まったく理解することが出来なかった。


 先遣隊の士官が一通の封筒を差し出した。第3戦車軍司令官、エーベルバッハ大将からロンメルに宛てたものであった。文面に目を走らせたロンメルは、大きくため息を吐いて、それを参謀長に渡した。


エルヴィン・ロンメル中将閣下

 

 この状況に驚いておられることは容易に察せられる。第19戦車師団を増援することは当初から作戦計画に含まれていたが、私は参謀総長から、貴官と貴官の幕僚に対しそのことを秘匿するよう、ブルーメントリット参謀総長から命令されていた。貴官が貴官に与えられた兵力を最大限に活用し、時として予備隊の不足をかこつことは広く知られているため、参謀総長は予備の存在そのものを貴官から隠すことが適当であると判断したのである。

 

 その他の点において、貴官への命令に変更はない。前進せよ。以上である。

 

 

 

                   ハインリヒ・エーベルバッハ(署名)」

 


 この話は瞬く間に広がった。第2戦車師団の製パン中隊では、見事な腹を叩きながら、ある軍曹が言ったものである。


「俺も大食らいじゃあちったあ自信があるが、ロンメル将軍にゃかなわねぇ。なにしろ戦車師団をお代わりするんだぜ」


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「モスクワは、どうなると思う」


 チャーチルに尋ねられて、イズメイ大将は答えた。


「まるで西と東が入れ替わったようです。ドイツ軍は損害を無視して前進しております。すでに4つの戦車師団が壊滅的な損害を被っておりますが、ヒトラーは他の戦車軍団を解体して新しい師団を送り続けています」


「将軍、私は軍人ではないのだ。結論だけで十分だ」


 チャーチルは言った。執務室にはチャーチルがいつも吹かしている葉巻の匂いが染み付いている。いまチャーチルが葉巻を吸っていない唯一の理由は、紅茶を飲んでいる途中だからであった。


「モスクワは失われるでしょう。一時的に。ロンドンがそうであったように」


「根拠のない励ましは不要だぞ、将軍。私は専門家としての意見を求めているのだから」


 イズメイは怒らなかった。


「冬になれば、ソビエトはより多くの援助物資を受け取ります。ドイツはソビエトの冬に慣れていませんから、ソビエトは結局モスクワを奪還するでしょう」


「ルーズベルト大統領もそう思ってくれるだろうか」


 イズメイは礼儀正しく沈黙した。


 ソビエトに援助物資を送ることに、アメリカにおいて反対意見がないわけではない。レンド・リース法は物資を受ける側が債務を負う制度で、物資の使途などについてアメリカ議会に報告するのが原則である。ところがソビエトはそれを拒否したので、アメリカ政府が議会を説得して、報告書無しで目をつぶることにしなければならなかった。アラスカからシベリアへの航空機輸送にしても、アメリカのパイロットにソビエトの土を踏ませるわけに行かないというので、アラスカにソビエト空軍パイロットのための宿泊施設をアメリカが建ててやって、やっと成り立っている有り様である。


 もっと切実なのは、ソビエトに送っている資源を使えば、太平洋方面の戦局が好転するという問題であった。イギリスとて局外ではない。イギリスはオーストラリアやニュージーランドの陸軍部隊を中東に貼り付け続けているため、両国にはアメリカ陸軍が駐屯する始末である。オーストラリアは自国部隊の帰還を声高に主張しているし、ニュージーランドはそれほどあからさまな主張はしないが、アメリカ軍部隊の駐屯を婉曲にもinvasionと呼んでいるという噂は、ロンドンにも伝わっていた。


 ソビエトに継戦能力がないというシグナルが出れば、そうした主張が一気に表面化してくることは目に見えている。米英とソビエトの協力関係が破綻したとき、イギリスにとって最悪の形で、戦争は終わる。


「大西洋岸のどこかへ陽動としていくらかのアメリカ軍を上陸させることは、出来ないものか」


 チャーチルの問いかけ、というよりつぶやきに、イズメイは静かに首を横に振った。


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 ロンメルとモーデルは、走り寄ると無言で抱き合った。ついにモスクワの東で、ふたりの軍団は出会ったのである。居合わせた兵士たちは歓声を上げた。それはもう言葉になっていなかった。叫びながら地面に転がり、そのまま眠るものもいた。先遣隊が出会ってからわずか30分で両方の軍団長が最前線に出てきたのはなぜか、などという些事を気にする余裕は、もう誰にもなかった。


「モーデル将軍、あなたがそうであるように、私も薄汚れておりますかな」


 ロンメルは言った。


「もちろん」


 モーデルはにこやかに応じた。軍服は泥だらけで汚れ切っていた。


 しばらく、次の言葉を探すための沈黙が続いた。ふたりとももちろん疲れていたし、相手が通ってきた道筋が、本質的に自分の通ってきたものと同じであることに気づいていたから、愛想や慰めを言う気にはなれなかった。


「こうやって、静かな心境で将軍とお会いできたのは、初めてかもしれません」


 モーデルが口を開いた。


「私はいつも将軍の背中に追い付こうとしておりました」


「とんでもないことです。私は戦争がなければ、がみがみ屋の大佐として退役していた男ですよ」


 ロンメルは応じた。


「今日だけは、もう競争のことは考えたくありません。明日になれば分かりませんが」


 モーデルの言葉を、ロンメルが混ぜ返した。


「あるべき姿に戻るのですな」


 ふたりは笑った。


「我々は良い友人になれそうです。戦争が終わったら、でしょうが」


 一呼吸の沈黙の後、ロンメルは応じた。


「それもまた、あるべき姿に戻るということでしょう」


 ふたりが考えていることは、同じだった。戦争が終わったら、軍は急速に官僚組織としての性格を取り戻し、そこには自分の居場所はないであろう。


 ふたりとも、今日の今日までそんなことは考えたことがなかった。互いに相手の姿を見て、ドレッサーを覗き込んだように、我が身について悟るところがあったのである。


 1943年8月も、もう終わろうとしていた。



ヒストリカル・ノート


 史実において、Uボートが連合軍に抑え込まれ、船舶の損害が減少する分水嶺となったのは、1943年5月であったと言われます。これは次のような状況の影響が長い間に積み重なった結果であると考えられます。


(1)ドイツ海軍の暗号が1941年夏頃からイギリス軍に解読されており、Uボートの手薄な海域を選んで船団を通すことが出来た。


(2)短波の発信を感知するHF-DFと呼ばれる一種のレーダーが1941年から順次護衛部隊に行き渡り、Uボートが司令部に状況を報告するたび、位置を暴露することになった。ドイツ軍は終戦までこのことに気づかなかった。


(3)何隻かの先駆的な艦が投入された後、1942年後半から護衛空母が本格的に就役を始めた。


(4)ドイツ海軍はUボートに対し、喫水が浅く魚雷の当てにくい護衛艦を攻撃せず、商船のみを攻撃するよう指示していた。このため年月を経る毎に、ドイツ海軍の熟練したクルーが失われる一方、連合軍の護衛部隊は機器の操作や協力攻撃に熟練して行った。


(5)ポルトガルは大戦末期になるまで参戦はしなかったが、ポルトガル領アゾレス諸島の飛行場をイギリス軍が使用することを認め、ここから旧式爆撃機を中心とする長距離哨戒機がUボートを攻撃した。連合軍が保障占領したアイスランドやイギリス本土からも同様に空からの対潜哨戒が行われた。


(6)ヘッジホックなど対潜攻撃兵器の開発が進んだ。


 このうち(1)(2)(4)(5)については、この作品ではドイツ側に有利な状況になっています。ただ(3)(6)はドイツからはどうすることも出来ない要因であり、アメリカの参戦が防げない以上、この世界でもUボートは1943年になると次第に抑え込まれていきます。


 史実では、1943年にはアドルフ・ヒトラー連隊は拡張されて戦車師団に昇格しており、グロスドイッチュラント連隊も(公式な名称は最後まで戦車師団ではありませんでしたが)戦車連隊を持った事実上の戦車師団となっていました。この作品ではヒトラーが戦闘親衛隊の規模拡大を極端に抑制しており、それに合わせて国防軍の特殊なエリート部隊も拡張を抑えられています。


 グロスドイッチュラント連隊は、もともと式典の際に臨時に編成される、大統領護衛連隊でした。ドイツでもほとんどの国と同じように、ひとつの連隊は特定地域の出身者で固められるのが普通でしたが、ドイツ共和国を構成する各地方からひとつずつ中隊を出し合って、観閲式のために全国区の連隊を作ったわけです。大戦が始まってから、この連隊も実戦投入されましたが、その兵員は全国から選抜されてきていて、エリート意識の強い部隊でした。


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