第24話 四十七両の刺客
1942年9月、キュヒラー上級大将の率いるドイツ北方軍集団に対して、バルト3国はその門を開いた。各首都で連鎖的にクーデターが起こり、ドイツ軍情報部と連絡を取った反ソビエト派が政権を握ったのである。北方軍集団は急に前に移動した戦線に展開し、その戦線は薄く伸び切って、新たな攻勢を発起することは困難になった。
クルーゲ上級大将のドイツ中央軍集団は、ミンスクから大陸橋方面に押し出し、ソビエト軍の強固な抵抗に遭遇していた。そして、リスト元帥のドイツ南方軍集団は、ブリビャチ湿地の南西、ウクライナの古都キエフに迫っていた。
キエフを失うことはウクライナを失うことであり、父なるドニエプル川の水運を失うことである。スターリンはジューコフ参謀総長をキエフ防衛のための南西方面軍司令官に任命し、ソビエト軍の予備を惜しまず投入し、街の防備を固めさせた。あまりにも厳重なので、敗走してきたソビエト軍が市内に入れないほどであった。
装甲部隊は本来、弱いところを機敏につくための兵器としてデザインされており、強固に防御された地形への正面攻撃には向かない。キエフが攻防の焦点になったことで、ドイツの戦車師団群は南北でキエフを回り込もうとし、これを阻止しようとするソビエト戦車旅団群と激突した。
ドイツ軍はドニエプル川を渡りキエフの後方をうかがうため、チェルカッシィ(キエフの南東200km)で敵前渡河を敢行する作戦を立てた。担当するのは新設の第4戦車軍、率いるはアフリカから転じた、マンシュタイン上級大将である。
「中央軍集団は主に砲兵によって攻勢をかけ、スモレンスク方面へ3日で13キロ前進しました」
シュルツ少将・第4戦車軍参謀長はマンシュタインに報告した。歩兵の標準的な行軍速度は1時間に5キロ程度とされているから、これはソビエト軍の抵抗が激しいことと、この方面のドイツ軍が無理な前進による損害を避けていることを意味している。
「空軍からの報告では、ドニエプル下流域のソビエト軍予備が北へ移動した兆候があります」
シュルツは航空写真を取り出して、1週間前まであった兵舎が引き払われていることを示した。
「問題は、戦車だ」
マンシュタインは表情を崩さない。
「態勢が整わぬうちに、橋頭堡(渡河や上陸直後に確保した地域)に重戦車で突入されるのが最も困る。ヘルマン・ゲーリング空挺師団は、すでに総統の新兵器を受け取っているのだな」
シュルツは答えた。
「はい閣下、上陸部隊にも若干数が配備できる見込みです」
「あれは信用できるのかな」
マンシュタインの問いに、誰も答えなかった。
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「こいつぁ、おったまげた」
甲高いタービン音を響かせて、東ポーランドのブレスト駅に入ってきた復水式蒸気機関車を見て、マイソフはその大きさに驚いた。蒸気を車体後部の冷却室に導き、回収・再利用しようという復水式蒸気機関車は、石炭や水を補給する設備の少ないウクライナのような地形に適していた。複雑な機構を引きずって走るこのタイプは、実のところ、燃費がひどく悪い。それでも背に腹は代えられないのが今のドイツである。
ドイツからソビエトに向けての鉄道路線は、そうたくさんあるわけではない。事実上、補給幹線となりうる路線は3つしかなく、それぞれ究極的には、北のレニングラード、中央のモスクワ、そして南のキエフに通じている。それぞれの幹線がドイツの軍集団に対応していることは偶然ではない。中央軍集団が南方軍集団のために牽制攻撃をかけることは迂遠のようだが、それによってキエフ自体への砲撃や、渡河攻撃のための補給物資を温存することが出来るのである。
誰かがマイソフを怒鳴る声がする。ライヒスバーン(ドイツ国有鉄道)の制服を着たマイソフは、給水を手伝うために駆けて行った。
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銃声は夜が明けても間断なく続いていた。日光がドニエプル河畔の生者と死者を公平に照らし出す。岸辺には大小のゴムボートが散乱している。
仮設橋は半分ほど完成していた。専用の舟の上に組み立て式の渡り板を固定し、それを順々につないで行く。その東側の固定位置を確保すべく、ドイツの歩兵と工兵が夜間渡河を行ったのである。
上空をドイツ戦闘機が盛んに行き交っていた。今日、ここだけは、どうしても航空優勢が必要であった。もう9月も終わろうとしており、今日ドニエプルを渡れなければ、今年はもう渡れないであろう。
夜が明けてから、ヘルマン・ゲーリング空挺師団の兵士を乗せたグライダーが、次々にドニエプル川東岸に着陸していた。戦力を急速に増強するためである。ドイツ軍はグライダー降下をあまり行わないのだが、ちょっとした重装備を確実に送り届けるために、今回は機材の大盤振る舞いが行われていた。
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ジューコフはキエフ市内の地下壕で、呆然と受話器を置いた。スターリンはスモレンスクを脅かされると、せっかくキエフの東に布陣していた戦車旅団のほとんどを列車に乗せて、大陸橋の防衛のために呼び戻してしまっていたのである。
重戦車連隊がひとつだけ、鉄道輸送の列車の手当がつかないために、まだ出発していなかった。ジューコフは直ちに最寄りの歩兵部隊と協力して、ドイツ軍の橋頭堡を攻撃するよう命じた。
キエフの運命は、47両の重戦車が、いまや握っていた。
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最初にそれに気づいたのは、第13戦車師団の戦術的指揮下に置かれた、Fw189偵察機であった。早朝の空気はすでに不吉な冷たさを含んでいる。その中を渡河地点めがけて、歩兵を鈴なりに載せた、一群のKV-I重戦車が進んでくる。その数、約50両。
報告はすぐに師団司令部に送られ、空軍連絡将校を通じて、付近の空軍基地に急報された。渡河地点では架橋の段取りが変更され、船橋の一部がそのまま艀として戦車の輸送に回された。組み立て式の橋を上部に広げた船の上に戦車を乗せて、そのまま対岸まで運ぶのである。急いで対岸の対戦車能力を高めなければならない。
12機のFw190A戦闘機が、ソビエト戦線後方での移動妨害任務中に連絡を受け、最初にKV-Iの迎撃に向かった。爆弾は積んでいないが、新鋭の長銃身20ミリ砲がある。
銃撃を受けて、ソビエト歩兵たちはたちまち戦車から離れ、取り残された。しかしKV-I戦車は軽微な損傷を受けながらも停止しない。執拗にドイツ機は食い下がり、ついに2両のKV-Iがエンジングリルから飛び込んだ弾片のために停車した。
残る45両は、渡河地点に向けてひた走っている。あと1時間でドイツ軍の前哨とぶつかるはずである。
ちょうど発進準備に入っていた、9機のMe110E双発戦闘機から成る飛行中隊が、次の攻撃を仕掛けた。双発戦闘機といっても、爆弾を積んで地上攻撃に使われることが多い。今回も爆装しての出撃である。
250キロ爆弾が次々に投下される。直撃弾は出ないが、これだけの大型爆弾となると道路がえぐられる。足を取られて脱落する戦車、爆風で横転する戦車が続出する。さらにMe110は20ミリ機関砲で攻撃を続け、都合5両を撃破し、脱落寸前の戦車で隊列を細長くさせた。
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渡河地点に進出した第13戦車師団の師団長はまだ西岸に残っており、現地の指揮は自動車化歩兵連隊長が取っていた。前哨部隊からの報告がすでに入り始めている。
「空軍ではKV戦車を止められない模様です」
「速すぎる。工兵の作業が間に合わんぞ」
連隊本部は焦燥感に満ちていた。
「ヘルマン・ゲーリング師団、一部が攻撃位置につきました」
「一部か」
連隊長は聞き返し、それきり何も言わなかった。時間稼ぎにしか……なるまい。
「戦車です」
連隊本部になっている農家の外から、歩哨の声がした。参謀が思わず駆け出す。わずか4両の4号戦車だが、その姿はこの状況では何より頼もしかった。歩兵はわずかずつ増強されてきている-貴重な突撃艇(小型モーターボート)や、もう少し大きなモーターボートは架橋作業のために残して、歩兵はゴムボートを漕いでドニエプル川を渡って来るのである。その細く途切れない流れに歓声が起こり、皆が戦車に手を振る。
歩兵たちは、自分たちが直面している危険を、直感していた。
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「これでは身を隠すところがないぞ」
空挺部隊の大尉はぼやいた。かろうじて丈の高い雑草が、伏せた兵士を隠してくれる。
手近に降りた兵士を集め、無線機と新式機材をようよう確保した一団は、中隊規模の戦闘団とでも言うしかない。それでも空挺部隊の兵士は、即席の戦闘組織を作り上げて戦うよう訓練されていた。
わずかな潅木の茂みに対戦車班を配置した大尉は、部下たちを広く散開させ、有り体に言えばいつでも逃げられるように配置した。数発の手榴弾を有り合わせのベルトでぐるぐる巻き、集束手榴弾を作る。グラナートビュクセでは、おそらくKV-Iのような重戦車には対抗できないと思われたが、ないよりは気が強くなる。大尉は自ら対戦車班の指揮を執るといい、無線手と中尉-たまたま次位の階級の士官-を数十メートル後退させた。
来た。ソビエト戦車隊は幸い長い縦列になっている。1両はやれるかも知れない。
「俺が手榴弾を投げたら発砲していい」
大尉はささやくと、先頭の1両を待った。
あと20メートル。心臓の音が聞こえる。大尉は初めて降下したときのことを思い出していた。
急にKV-Iが停止し、砲塔が回る。他の兵士が散開していた方向である。やはり見つかってしまったか。大尉は手榴弾の安全ピンの紐を引くと、路肩に沿って数歩走りざま、ソビエト戦車の足元に集束手榴弾を投げ、身を伏せる。
爆発。小石が肩に傷を作る。大尉が顔を上げると、先頭車の片方のキャタピラが切れている。運がいい。先頭車はもう片方のキャタピラを響かせて路肩に落ち込み止まる。後ろに次の1両がいる! シュッ。大尉の頭上を何かが飛び過ぎる。グラナートビュクセの対戦車榴弾である。KV-Iに正面から当たっては、とても装甲を貫通できない。
「大尉!」
新機材を持った兵が茂みを飛び出してくる。素早く折り敷いた兵は新機材を構える。無茶だ。KV-Iの機銃が鳴る。兵は最後の瞬間に、新機材を放つ。
それは光の矢に見えた。KV-Iの正面装甲を貫通……いや違う。高熱で融けてへこんでいる。
ヒトラーは、成型炸薬弾を使ったドイツ独特の兵器パンツァーファウストの概念図を自ら描き示し、国防省兵器局に開発を命じていたため、史実より早く配備が実現したのである。パンツァーファウストはマッチ棒のような使い捨てのロケット弾で、膨らんだ先端部分に炸薬が詰まっている。もし装甲に正面から当たれば、熱い炸薬が装甲を溶かし、車内に吹き込むのである。
それでもKV-Iの正面装甲はびくともしない。だが……2両目の戦車はそれきり沈黙してしまった。へこんだ部分が機銃のマウント部分であることに気づいたとき、大尉は真相を悟った。高熱の炸薬が照準穴を通じて車内に流入し、機銃弾を誘爆させて、戦車兵たちを殺したのである。
2両目の戦車は、細長いアンテナをつけていた。指揮官車だ。そのことに気づいた大尉が微笑したとき、路肩に落ちた1両目の戦車の砲塔背面についた機銃が、動いた。
「大尉!」
大尉が最後に聞いたのは、部下が自分を呼ぶ声であった。
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重戦車連隊長は砲塔にいたため、機銃弾の暴発から辛くも逃れた。彼は細長くなり過ぎた隊列を整えるため、いったん後続を待つことにした。どちらにせよ、連隊長車はもう使い物にならない。
戦車は38両残っているが、そのうち無線機を持っているのは2両に過ぎない。外国との連絡手段を兵に与えたくないという政治的配慮もあったが、主に電子産業の立ち後れから、戦車部隊の無線機の普及状況はひどく悪かった。ソビエト戦車の戦場での進退がひどくぎこちないのは、甲冑で耳をふさいだ中世の騎士のように、細かい指示を行き渡らせる手段がないせいもあった。
連隊長は無造作に5両の戦車を選び、偵察隊として先行させることにした。選ばれた戦車の乗員たちはむっつりとその指示を受け止めた。連隊長は口にしなかったが、彼らは知っていた。もしこの場から逃走してソビエトの戦線にたどり着けば、間違いなく銃殺であると。
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ドイツ軍の橋頭堡では、ソビエト重戦車連隊が再集合のため小休止したことが伝えられていた。
「これで塹壕を掘りきれますかな」
「そうだとよろしいですが」
指揮所では自動車化歩兵連隊と工兵隊のスタッフがぽそぽそと言葉を交わす。大規模な架橋作業のため、師団固有の工兵大隊の他に、独立工兵部隊が一時的にいくつも集められている。
戦車はすでに合計12両が前線近くに配置されていた。長砲身の4号戦車と言えども、KV-Iと互角に戦うことは出来ない。数の優勢を確保できる見込みは、かなり薄い。
自動車化歩兵連隊長は副官に言った。
「突撃艇で手榴弾を運ぶように、師団司令部に要請しろ」
副官は無言でうなずいて、無線班のところへ行った。連隊長は続いて連隊本部班長を呼び、伝令兵たちを戦闘班として待機させるよう命じた。
防衛線が突破され、指揮所近くまでソビエト戦車が突入してくることを、もはや考えねばならなかった。
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「すまんな」
戦車師団長は飛行士に言って、握手した。笑顔はなかった。飛行士のほうがさばさばした表情をしていた。人生はこんなものですよ、と言わんばかりであった。
空軍部隊のほとんどは、指揮系統が独立していて、陸軍の要請は受けても命令は受けない。そのことには、ひとつの例外があった。各戦車師団に提供された戦術偵察機がそれである。
小型爆弾を積んだ2機のFw189偵察機は、草むらを刈り取った仮設飛行場を飛び立って行った。ソビエト戦車群を食い止めるために。
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ジューコフの司令部は地下室にあったが、それでも時折激しい振動が伝わってきた。ドニエプル川の西岸にあるキエフに対して、ドイツ軍は南東方面を激しく攻め、キエフをドニエプル川の東岸から切り離そうとしている。もしそれを許せば、キエフの命運は尽きる。
ソビエト空軍は優勢を失ったが、多くを学びつつあり、ドイツ空軍に大きな出血を強いていた。空軍の傘によって、かろうじてキエフはドイツの猛攻を支えている。
ジューコフはドニエプル東岸から次々と入ってくる報告に目を通していた。歩兵部隊はドイツ空軍の機銃や爆弾に追い散らされ、橋頭堡への攻撃位置につくことが出来ていない。重戦車連隊だけが前進を続けているが、小規模ながら執拗な妨害に遭っている。
至近距離で大きな音がして、天井から何かがぱらぱらと崩れ落ちた。司令部は騒然となり、ジューコフは総員退避を命じた。
戸口を出ると、太陽が眩しかった。隣の民家に爆弾の直撃があったらしい。高射砲の弾丸はとうに尽き、時折思い出したように飛来するソビエト戦闘機だけが頼りであった。
もう仮設橋は出来上がろうとしているはずである。ジューコフはそのことを思った。
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また1両がドイツ機の爆弾に破壊された。ソビエト兵士の神経は音と光の刺激に対してすでに麻痺している。行軍を続けてきたソビエト戦車群が、指揮官の命令で停止した。
前方にドイツ軍の作った障害物がある。針金製で簡単に踏み潰せるものだが、そばにドイツ歩兵が隠れていることを暗示している。すべてのKV-Iが弾薬を用意して待機する中、5両のKV-Iがそろそろと前進する。
ちゃちな針金の三角柱を先頭のKV-Iが踏み潰す。次の瞬間、KV-Iがわずかに浮き上がり、轟音が続いた。地雷だ。他にも道をふさいでいる障害物を避けて通ろうとしたもう1両が、やはり対戦車地雷を踏んでかく座する。ドイツ軍は悪魔のようにずる賢い。
連隊長は路肩を降りて麦畑を進むよう後続車に合図した。麦畑を進むKV-Iがまたも爆発音に包まれるが、損害なく前進を続ける。ドイツ軍はまだ大型の対戦車地雷をそれほど多く運び込んでいないのである。いま爆発しているのは、小型の対人地雷だろう。
余裕を持って前進を眺めていた連隊長の視野の隅を、光の矢が横切った。対戦車班が深い塹壕に隠れていたのである。真横から見舞われたパンツァーファウストは、装甲を貫通して車内に飛び込み、砲塔のハッチが主砲弾薬の誘爆で吹き飛ぶ。その熱風にあおられた連隊長は、思わず自分のハッチを閉めた。
カタカタと車載機銃が鳴る。連隊長はその時、重大なことに気がついた。ハッチを開けて指示を出そうとした瞬間、車体の側面にカツン、という何かが当たる音がした。
数秒後、連隊長はその位置から、赤く焼けた炸薬が車内に吹き出して来るのを見た。塹壕に隠れていたドイツ兵が危険な接近を試み、マグネット式の対戦車吸着地雷を取り付けたのである。
連隊長は、新たな指示を出すことが出来なかった。
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対戦車班がすっかり撃退されてしまうまで、それほど長い時間はかからなかった。ソビエト戦車はあまりにも多く、機銃の死角を消し合うので、発見されると接近は出来なかった。KV-Iは砲塔背面にも機銃があるので、うかつに忍び寄るといきなり撃たれた。
彼らが時間を稼いだことは、無駄ではなかった。そっくり1個中隊(14両)の4号戦車が、ソビエト戦車の前に立ちはだかることが出来たからである。ドイツ戦車は、ソビエト戦車の側面に回り込もうと、その右側へ一斉に突っ込んだ。ソビエト戦車は互いに連絡の取りようがなく、各自の判断で発砲した。4号戦車が3両命中弾を受けて破壊されたが、30両からの一斉射撃の戦果としては微々たるものだった。ソビエト戦車は停車せずに射撃したため、精度が悪くなったせいもあった。
ドイツ戦車は小隊ごとに停車し、射撃し、今度は後ろに回り込もうとした。ソビエト戦車は統制が取れず、回頭しようとして後続車と衝突するものも現れた。
ドイツ戦車は被弾すると確実に脱落する。ソビエト戦車は当たり所が悪くなければ破壊されない。統制に大きな差があるにもかかわらず、ドイツ戦車もまたたく間に半数が失われる。
そのとき、上空にエンジン音がした。
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周囲に散らばっていたドイツ歩兵たちは、飛行機の飛んできた方向と、ドイツ機らしいシルエットを見て表情をほころばせたが、すぐに不思議そうな表情になった。
フロート付きのその機体は、見たことがないマーキングである。それがルーマニア空軍のマークであることに、誰も気がつかなかった。
ルーマニア空軍がソビエト黒海艦隊に対抗するためにドイツから輸入したHe115水上爆撃機は、最新式の航空機を見ているものにはどうしようもなく遅く見える速度で、ソビエト戦車に突っ込んで行った。He115はなまじ低速なので燃費が良く、黒海からはるばる飛んできたのである。
なまじ遅いので投弾も正確である。
ソビエト戦車の群れの中心近くに落ちた250キロ爆弾は、2両のKV-Iをなぎ倒し、残りをパニックに陥れた。近くにドイツ歩兵がいるのでハッチを開けられず、ハッチを開けられないので上空に1機しかいないことが分からない。残ったドイツ戦車は、ここぞと有効弾を送り込む。
煙幕手榴弾をぶつけられるKV-Iもあった。ドイツ兵が接近の準備をしている。機関銃に取り付いた戦車兵は、不吉で空ろな手応えを感じた。
弾切れである。戦車だけであまりに多くの歩兵を相手にしてきたので、機関銃弾が尽きたのである。
コトン、と側面に何かが取り付けられた音がした。
橋頭堡は、ついに守り切られた。
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「ジューコフ将軍ですね」
モスクワから来た士官は、ぶっきらぼうに言った。
「スターリン閣下が、直ちに指揮権を参謀長に譲り、モスクワに出頭するようにとお命じになりました」
士官の乗ってきた飛行機がある。自分がキエフを立つ最後のソビエト軍人になるだろう。参謀長がうらやましそうな顔をする。
代わりにスターリンに会ってくれるか……とジューコフは思った。
ヒストリカル・ノート
第9話で取り上げたように、この世界ではヘルマン・ゲーリング戦車師団は編成されません。代わりに空挺突撃連隊を統合する形でヘルマン・ゲーリング空挺師団が編成されています。
ライヒスバーンでも、ドイツ軍そのものと同様に、志願したソビエト軍捕虜が多数働いていました。
川幅によって橋を架ける所要時間は違ってきますが、南方軍集団所属の独立工兵連隊が夜間に砲撃下で作業し、11時間で400メートルの仮設橋をドニエプル川に架けた記録がありますので、この作品では仮設橋を架けるのに半日かかると考えています。また、ドイツ軍は空挺作戦を夜間に行ったことがほとんどありませんので、早朝から作戦が始まったことにしました。
1個戦車中隊の定数は時期と車種により様々です。ここでは、新型戦車なので定数は少な目であったと想定しました。各4両の3個小隊に、中隊長車と副官車です。
ルーマニアは実際にはHe115よりさらに旧式であったり、小型であったりする機体を受け取っています。ここでもルーマニア軍は史実より少し(ほんの少しですが)優遇されています。




