第22話 世界の中心、あるいは世界の片隅で
「我が大巡(重巡洋艦)が大湊に3隻も並ぶと壮観だな」
重巡摩耶に座乗した第5艦隊司令長官・細萱中将は、先に入港した高雄、愛宕、鳥海の3隻を眺め渡して、穏やかに言った。艦長以下のスタッフは接岸準備に余念がなく、長官の感慨に口を挟もうとしない。
数日前に入港した空母龍驤、隼鷹、そして瑞鶴は、すでに岸壁を離れて陸奥湾内に投錨している。明後日には軽巡洋艦名取と8隻の駆逐艦が入港し、補給を受けることになっているから、時間は無駄に出来なかった。
大湊警備府に籍を置くすべての海軍軍人は、造船科だろうと砲術科だろうと、息つく間もなく様々な用事を片付けなければならなかった。要港部から警備府に改組されたばかりの小さな基地に、戦地のぴりぴりした空気を載せて、主力艦隊が入港してきたのである。糧食の補給から病院の手配まで、およそ用務の種の尽きることはなかった。
青森県大湊は津軽海峡を間近にした軍港で、日本海軍が要港部以上の司令部を置いている軍港の中では最北端であった。作戦指揮を前提とする警備府とはいえ、津軽海峡と宗谷海峡の監視・防衛が主な任務であり、中国方面や南太平洋方面の情勢が緊迫するにつれ、この港に出入りする艦はせいぜい軽巡洋艦止まりになっていた。
ソビエトがドイツを攻撃したことが、状況を一変させた。日独伊三国同盟の規定によれば、加盟国が第三国から攻撃を受けた場合、残りの加盟国はその第三国に宣戦する義務があった。ソビエトによるドイツ攻撃はまさにこのケースであり、中国ではたちまち空陸の衝突が始まった。ソビエトもまた、そのことを知った上で戦端を開いたからである。
日ソ中立条約のもとでは、ソビエト国旗を掲げた貨物船は、民生品を積んでいる限り、シベリアとアメリカを自由に往復できた。ところがソビエトと日本が戦争状態に入り、アメリカがソビエトを援助する姿勢を見せたことで、北太平洋はにわかに世界大戦の焦点となっていた。
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「何もございませんが」
警備府長官は決まり文句を慇懃に並べて見せると、艦隊の歓迎会開会を告げた。
陸軍中将の肩章をつけた人物が警備府司令長官のすぐ隣の席次で相伴していることに、細萱は気がついた。若い士官たちがそちらを見ながら、下座の方で無遠慮にひそひそと話している。それが目に入らぬわけではあるまいに、その陸軍中将は端然と銚子を持って立ち上がると、細萱のもとに挨拶にやってきた。
彼は、弘前留守第57師団(師団が戦地に出動している間、徴兵・訓練などの事務を司る組織)の師団長であった。
「まことにご苦労様でございます」
留守師団長は丁寧に細萱をねぎらった。あとで聞くと、どうにもこうにも烹炊設備が足りないので、留守師団から器材と人を借り、そのために留守師団長を歓迎の宴席に呼ばないと義理が立たなくなったのであった。
「大陸の方が大変だということで、近衛師団をスマトラから呼び戻すそうですな」
留守師団長は重大な話を酒席でぽろりと漏らした。
「海軍さんにも随分と不義理なことになりそうで」
「いやいや、ラバウルの陸軍さんには本当に済まなく思っております」
細萱長官も丁寧に応じた。
ソビエトが枢軸国に対して宣戦を布告したとき、日本軍は東南アジアの資源地帯を掌握し、ニューギニア島の北半分に点々と基地を確保しているところであった。中でも、ニューギニア島のすぐ東に浮かぶニューブリテン島のラバウル基地は、オーストラリアとアメリカの交通を遮断するための基地として重視されており、陸軍が大挙上陸していた。
ところがソビエトとの戦いが始まってみると、陸軍はどこか戦線を縮小しなければ大陸への増援を捻出できず、ニューギニアでのすべての攻勢作戦を中止して、有力な部隊を次々に引き抜いていた。しかし今度は、海軍がそのような大規模な海上輸送に責任が持てず、最前線となったラバウルには船団が近づけない状況になっていた。
「弘前兵団は、どちらの戦線におられるのですか」
「第8師団、第57師団、いずれも満州におります」
留守師団長はゆっくりとした口調で答えた。
樺太では激しい戦闘が生じていたが、大陸ではソビエトは限定的な攻勢を取るにとどめていた。ソビエトは持てる力のほとんどをドイツに対して投じていたし、アメリカから援助が実際に届くまでは、日本軍の戦力を殺ぐと言う交渉材料を無駄にしようとはしなかった。しかしソビエトがこの方面に振り向けている旧式戦車は、日本軍にとっては十分に脅威であった。
「海軍さんにアメリカとソビエトの連絡を絶って頂きませんと、大陸の陸軍も難儀いたします。どうぞよろしくお願いいたします」
留守師団長は丁寧に頭を下げた。
「微力を尽す所存です」
細萱も応じた。
ソビエトと戦端を開くことになって、一時は思考を麻痺させた日本海軍だったが、ここへ来て新たな戦略をまとめつつあった。太平洋での優勢を保ち、満州・樺太方面の戦況を安定させて、有利な講和の機会を探るというのがそれである。そこでいったん主力部隊を本土に集結させると共に、有力な艦隊を北方に送ってこの方面の(微弱と思われる)アメリカ艦隊を叩き、あわせて樺太周辺の海上優勢を確立するというのが、今回の第5艦隊の任務であった。すでに軽巡2隻、特設巡洋艦(武装商船)2隻の支隊が樺太方面に出動し、ソビエト軍の補給妨害と陸上支援に当たっていた。第5艦隊はアリューシャン諸島方面に敵を求めて出動し、可能なときはダッチハーバーを空襲することになっていた。
「この戦争、とうとう最後の氏神(仲裁者たりうる有力中立国)がおらんようになりましたな」
留守師団長はぽそりと言った。聞きようによっては不穏な発言である。すぐ下座にいた第5航空戦隊司令・原少将と第4航空戦隊司令・角田少将が、目を見張ってそちらを見た。
「そのあたりのことは、霞ヶ関(大本営海軍部)の方で考えておるでしょう。まま、閣下も一献」
細萱はさすがに長者の風を示して、座をまとめた。留守師団長もそのあたりを察したのは年功であろう。恭しく杯を受けると、何事もなかったように角田や原に酒を勧めた。
ソビエトに和平の仲介を求めるようになってはおしまいである。細萱も角田も原もそう思ってはいたが、だからと言って気の利いた終戦構想を持っているわけでもなかったし、和平に向けた体系的な努力が為されていると言う話も聞いていなかった。近年のめまぐるしい国際情勢の変化を見るにつけ、政治家を無力化して軍人だけで戦争を始めたことの愚を薄々感じていた高級軍人も多かったが、今更それを言い出してどうなるものでもなかった。
酒宴は1時間ほどでお開きとなった。艦に乗るものも、陸にいるものも、あまりにも多くの仕事を抱えていたからである。
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「大湊航空隊3番機より入電。敵艦見ユ、巡洋艦4、駆逐艦、輸送艦多数。空母ラシキモノ1隻伴フ。敵機ノ迎撃受ケツツアリ」
通信兵は叫ぶように電文を読み上げた。旗艦摩耶の艦橋では、すべての視線が細萱に集まった。
予想しなかった事態である。戦力の優劣ははっきりしない。
「参謀長は、どう思うか」
細萱は慎重に口を開いた。参謀長の中沢大佐が口を開こうとしたとき、別の通信兵が艦橋へ駆け込んできた。
「龍驤より信号。直衛機発進ノ許可ヲ乞フ」
「角田君は、やる気満々だな」
細萱が物柔らかく言ったので、中沢も苦笑いするしかなかった。
「許可しましょう。4航戦と5航戦に攻撃隊の編成を命じたいと思います。護衛隊は瑞鶴から出すことにしましょう」
細萱はうなずいた。中沢はてきぱきと細かい指示の文案を起草し、紙片を持った通信兵が次々に艦橋を下りて行った。
北海道の千歳や美幌にいる海軍航空隊は南方に出動していたり、樺太方面の応援に駆り出されていたりしたので、今回の作戦の先行偵察のために数機の旧式陸上攻撃機が大湊海軍航空隊から派出され、択捉島から飛び立っていた。それが敵機を見つけて第5艦隊長官宛に打電してきた内容を、龍驤の角田少将が傍受していて、敵空母が近くにいるならすぐに戦闘機で上空を守ろう、と細萱に急っついてきたのである。ほとんど搭載機のなかった軽空母祥鳳が、わずか5機の直衛機を上げて南太平洋で作戦中アメリカ機に見つかり、成すすべもなく撃沈された最近の事件は、航空関係者を神経過敏にしていた。
「こちらからも水偵を出しますか」
中沢に問われて、細萱は考え込んだ。敵の見つかった位置から言って、第5艦隊の重巡群から水上偵察機を飛ばしても、敵影を捉えられる可能性は大いにある。
「艦偵は、積んでおらんのだったな」
細萱は煮え切らない呟きを漏らし、中沢の顔に瞬時怒りの色が浮かんだ。
こうした戦闘時、いったん水偵を射出すると、波の荒い外洋で機体を回収できる見込みは少なかった。かろうじて脱出した乗員は救えるかもしれず、それも救えないかもしれなかった。細萱はそれを思ったのである。中沢にもそれが分かっていたが、だからと言って艦隊全体を危険にさらしたままで良いわけがなかった。
数分後から各艦のカタパルト周りが騒がしくなり、相次いで8機の水上偵察機が艦隊の重巡洋艦群から飛び立って行った。陸攻はどうやら追撃を振り切ったようだが、触接を続けることは不可能と打電してきたし、別の陸攻を差し向けるには距離があり過ぎた。ここからは、第5艦隊が独力で自分の身を守らなければならない。
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原は海図に目を落とし、ぼんやりと考え事をしていた。攻撃隊とのブリーフィングが終わり、爆装準備が整うまでのわずかな時間を、原は司令室で過ごしている。海図には報告されたアメリカ艦隊の位置と、攻撃隊の予定コースがプロットされている。
原の第5航空戦隊には、翔鶴・瑞鶴の空母2隻が属している。ところが5月の珊瑚海海戦で翔鶴の飛行甲板が大破して発着艦不能に陥ったため、今回の作戦には瑞鶴のみが参加していた。瑞鶴も多くの乗員と器材を失っていたため、2月に座礁して修理中の空母加賀や、完成したばかりの軽空母龍鳳から基幹要員を無理に引き抜いて、どうにか飛行隊の員数を合わせてきた体たらくであった。
今回の戦いで、またパイロットが死ぬ。補充されてくるのは、滞空時間の短い若手である。原はそのことを思っていた。
パイロットの経験は、滞空時間に比例すると言うのは言い過ぎであるが、かなり関係があるのも事実である。日本海軍は、ごく少数のパイロットを選抜して、それに猛訓練を課し、限られた燃料と機材を彼らのために集中させていた。それではパイロットの量が充足できないと言うので、かなりの手直しをしていたのだが、開戦以来のパイロットの消耗率はそうした努力を嘲笑うものであった。
航空主兵は、アメリカに勝つために考え抜いた日本の秘策である。その秘策が、まさに国力と資源の差を反映するようなものであるとしたら、日本が戦争に勝てる見込みなど万にひとつもない。
ドイツ軍は7月に入って、イギリス方面の空軍部隊が東に向けられてから攻勢を強め、ソビエト軍の大兵団を次々に撃破していると聞く。東京にはそれを単純に喜んでいる軍人も多くいた。しかし、自分たちが今やろうとしていることは、何か。アメリカからソビエトへの輸送船団を攻撃する……
ドイツの、手伝い戦さ。
そしてそのドイツは、二言目にはイギリスとの和平を口にし、アメリカとの単独講和すらたびたびラジオ演説で示唆している。
ドイツから見れば、日本は騙しやすいお人好しに見えるのであろうな……とそこまで原が考えたとき、司令室のドアがノックされた。攻撃隊発進準備が完了したのである。
艦橋から司令と艦長に見送られ、瑞鶴の搭載機は次々と発進した。3空母合わせて100機近い攻撃隊のうちで、戦闘機は約20機に過ぎなかった。ほぼ同数の戦闘機を上空直衛用に残していたせいもあったが、当時は艦上陸上を問わず、戦闘機と爆撃機・攻撃機の比率は戦闘機が下のことが多かった。戦闘機は大型目標を破壊することが出来ないので、どちらかと言うと軽視されていたのである。日本海軍もこれではいけないと思い始めていたが、機材と乗員の調達が追いつかないでいた。
あとは水偵が首尾よく敵艦隊を見つけてくれることを祈るしかなかった。
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水偵からの吉報はなかなか入らなかった。戦後になって分かったことだが、発見されたことを知ったアメリカ輸送船団は思い切って針路を南に向け、やや離れて護衛についていた機動部隊もまた、針路の予想をはずすように輸送船団のやや東に占位していたのである。
細萱たちにとっては意外なことに、最も南寄りのコースを取っていた水偵が、ついにアメリカ輸送船団の姿を捉えた。すでに機動部隊は輸送船団とかなりの距離を取っていたので、水偵からは見えなかった。
直ちに各航空戦隊司令を通じて、攻撃隊に進路の変更が命じられた。いったん触接した空母が見当たらないのは懸念されるが、見間違いと言うこともあるし、空母が見つかれば見つかったで輸送船団攻撃を大急ぎで終えて、新たに兵装を整える必要がある。
それが、悲劇の始まりであった。
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瑞鶴飛行隊の飛行隊長は、艦上攻撃機に乗って部隊の先頭を飛んでいた。単座の戦闘機では操縦しながらの通信となり、母艦との通信に差し支えるからである。
後部座席の通信士が、肩を叩いてきた。エンジン音のため声は聞き取りにくい。
「4航戦の連中が、転針しています」
ぎょっとして飛行隊長は振り向いた。艦上攻撃機の後部視界は良好とは言えないが、それでも斜め後ろを別方向に飛び去る日本機群ははっきりと見える。飛行隊長は母艦に指示を仰ぐよう通信士に命じた。
摩耶の方は摩耶の方で、瑞鶴隊が追随しないとの龍驤飛行隊長の報告を受けて、あわてて瑞鶴に命令を再送信するよう細萱が命じたところであった。真相は結局不明であったが、たまたま瑞鶴隊との通信時の電波状態が悪かったと思われる。
大戦初期の空母飛行隊は各空母の艦長の指揮下にあって、統一的な指揮がしづらかった。角田は龍驤に乗ってはいても、細萱が角田に、さらに角田が龍驤や隼鷹の艦長に命令して、やっと飛行隊へ命令が届く仕組みである。
ともあれ、このために瑞鶴隊はそれ以外の隊から10分程度遅れてしまった。戦闘機隊だけ速度を上げれば追いつけるのだが、指揮系統上、瑞鶴隊は龍驤隊や隼鷹隊の指揮官の指示に従うわけにいかない。一方、それぞれの隊が低速な艦上爆撃機を連れている関係で、隊が丸ごと速度を上げるにも限界がある。
このような事情で、攻撃隊が輸送船団に殺到し、その上空を守っているアメリカ艦上戦闘機と鉢合わせしたとき、日本側の戦闘機は低錬度で少数の隼鷹隊機だけとなっていたのである。
戦闘は一方的であった。いろいろな意味で。
大型輸送船5隻が撃沈され、物資の30%以上が海底に届けられた。3隻が大破して船団への追従が不可能となり、20%弱の物資と共にダッチ・ハーバーに引き返した。日本軍は22機の航空機を失い、うち17機は攻撃機と爆撃機であった。アメリカ軍は戦闘機3機を失ったに過ぎなかった。
瑞鶴隊が戦闘に参加したときには、あらかた機銃弾を撃ち尽くしたアメリカ戦闘機は退避を始めていた。そのアメリカ軍機を追って空母に殺到することを3人の飛行隊長はみな考えたが、燃料不足が懸念され、実行に踏み切れなかった。実際、大きなコース変更があったので、誤りなく日没までに母艦へ飛行隊を導けるか、すでに隊長たちは不安を覚えていたのである。
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ホワイトハウスの一室で、報告を受ける面々は押し並べて沈黙していたが、そのニュアンスは様々であった。このことが米ソ関係に及ぼす影響で頭がいっぱいになっている者もいたし、この作戦を推進した自らの責任を重く受け止めている者もいた。そして、赫怒を抑え込むのに精一杯の者もいた。
「日本海軍がこの方面に相当程度の戦力を集結していることは、分かっておったはずです」
キング大将・海軍軍令部長は怒りを押し殺そうとしていたが、成功していなかった。
「貴重な空母を発見される危険にさらした結果が、これです」
「(空母)ホーネットのパイロットたちは良い仕事をしたではありませんか」
トルーマン副大統領はキングをなだめた。
「日本空母の搭載機を多数撃墜したと言うことは、日本軍の攻勢企図を未然にくじいたことになるのではありませんか」
「今度ナグモがインド洋に入ってきたとき、その効果の大きさを測るチャンスがあるでしょう」
キングは意地悪く言った。
真珠湾攻撃の後、南雲中将率いる第1航空艦隊はインド洋で作戦し、セイロン島の軍港を奇襲するなど一定の戦果を上げた。そのことが日本にとってどれほどのメリットをもたらしたかは疑問だが、連合軍の世界戦略から言えば、このことは重大な結果をもたらす可能性があった。
ソビエトに対して西半球から援助物資を届けるルートは、大きく分けて3つある。ひとつはイギリスから北極海を渡り、ソビエトのムルマンスク港に至るものである。このルートはドイツ軍航空機とUボートの攻撃の可能性に終始さらされており、現在のイギリスとイギリス海軍の状況を考えると、あまり頼りたくない。
もうひとつは、イギリスとソビエトが保障占領しているペルシア(イラン)から鉄道を使ってソビエトに物資を届けるルートである。最も確実だがアメリカからは最も遠く、積み下ろしに使われるバスラ港(現在のイラク)の能力や鉄道輸送能力も拡充する必要があったため、本格的に稼動するには時間がかかる見込みである。アメリカとイギリスの話し合いで、インド洋はイギリスの作戦地域となっていたが、ドイツのイギリス上陸以来イギリス海軍の士気が低下し、日本軍の本格的な攻勢を耐え抜けるかどうか懸念する向きも出てきていた。キングが腹立ち紛れにトルーマンを当てこすった裏には、こうした事情があった。
最後のルートは、アメリカから太平洋を経てウラジオストックに向かうものである。ソビエトの方からドイツに宣戦させる、というヒトラーの戦略は、このルートをはからずも閉ざしてしまった。ソビエトの連合軍離脱を防ぐため、アメリカ政府は陸海軍の反対を押して今回の作戦を発起したのである。
じっと話を聞いていたルーズベルト大統領が、ぽつりと言った。
「日本を先に倒さないと……ドイツは打倒できないと言うことか」
誰も口を挟めなかった。このことはルーズベルト政権の重大な方針変更につながり、その責任を負える者はルーズベルト以外にいなかったからである。
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第5艦隊の各戦隊旗艦では、通信兵たちが幽鬼のような表情をしていた。ここ1時間ほど、記録的なペースで発光信号が飛び交っているだけでなく、その通信内容を伝えたとたんに、艦橋では高級士官の誰かがぎょろりと目をむいて怒るからである。
飛行隊は大損害を受けた。アメリカの戦闘艦には損害を与えておらず、空母がいることはほぼ確実である。第2次攻撃隊を出すか、出さないか。これが発光信号での押し問答の内容であった。
敵に接し、飛行隊が帰投して来た以上、こちらの位置は(方向としては)知られていると思わねばならない。攻撃隊を出すならすぐ出さなければならないし、出さないならすぐ移動すべきである。
原の座乗する瑞鶴の通信員は、比較的気楽でいられた。出せ出せという角田と、慎重な細萱の間で主に発光信号が交わされていたからである。しかし瑞鶴にも、とうとう角田からの発光信号がやってきた。
「龍驤ハ艦隊ヨリ先行シ盾トナラント欲ス 御賛同ヲ乞フ、か」
原は角田からの通信の最後の部分をつぶやくように読んだ。先ほどの戦闘で、瑞鶴隊はほとんど損害を受けていない。攻撃隊は瑞鶴を中心としたものになるだろう。だから原が攻撃に賛成する具申をすれば、細萱も心を動かすかもしれない。もしアメリカ軍の攻撃隊が入れ違うように現れたときは、比較的小型の龍驤がおとりになって敵の雷爆撃を引き付けようと言うのである。おそらく角田は、もう龍驤の舵輪に自身をくくりつけたような気になっているのであろう。
そのことをとやかく言う気はないが、と原は考えた。この戦いの意義を考えれば、帝国軍人にはもっと他にふさわしい死に場所があるはずである。
原は小さくため息を吐くと、参謀長に黙って右手を差し出した。心得た参謀長は万年筆と紙片を原に渡し、原はそれに返信をさらさらとしたためた。それを受け取った参謀長は紙片に目を落とし、口だけでにやりと笑うと、通信兵を呼んだ。
紙片にはこう書かれていた。
「伊勢海老ヲ以ツテ小鯛ヲ釣ルコトアルヲ虞ル 自重サレタシ」
通信兵が駆け下りて行ったとき、原は細萱長官に早期撤退を具申するよう、参謀長に命じていた。
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アメリカ海軍は輸送船団を散開させ、残った輸送船はばらばらにウラジオストックを目指した。護衛艦隊が帰ってしまったのである。何隻かは樺太方面の日本軽巡と特設巡洋艦に捕捉され、ソビエトに無事届いたのは貨物の30%に過ぎなかった。
第5艦隊に賞罰はなかったが、空母と重巡がすぐに第5艦隊から取り上げられてしまったことが、大本営海軍部の間接的な評価とも言えた。横須賀に復命した細萱中将は、本来の旗艦である軽巡多摩に座乗すべく、汽車で大湊に向かわねばならなかった。
細萱も角田も原も考えず、そして連合艦隊や大本営の事後研究でもまったく問題にされなかった質問が、アメリカ戦史研究所から発せられたのは戦後のことである。
「なぜ重巡を分遣し、輸送船団を全滅させなかったか?」
ヒストリカル・ノート
史実における第5艦隊は、開戦時には軽巡洋艦2隻と特設巡洋艦2隻から成っており、のち水雷戦隊(駆逐艦部隊)も配属されましたが、終戦まで辺境防衛艦隊と言った位置づけでした。
当時の参謀長である中沢大佐(のち中将)は軍令部第一(作戦)課長を務めた利け者です。細萱中将は中沢参謀長が他の人物と交代してから数ヶ月後、アメリカ艦隊との遭遇戦で部下がミスを連発し、その責を問われて更迭されました。
加賀が1942年2月にパラオで座礁し、修理して戦線に復帰したことは、あまり知られていませんが史実通りです。
近衛師団(近衛第2師団)は史実では終戦までスマトラにいました。