第19話 アドルフ・ヒトラー連隊西へ
ドイツ軍がドーバー海峡を渡ってから1週間が経過した。ドイツはいまや、南東イングランドの支配地域を大きく広げていたが、その支配地域の広がりに補給と増援が追いつかず、戦線は停滞しつつあった。連合軍も戦線を立て直し、カナダ軍は高級指揮官の多くを更迭して戦意を取り戻していた。ロンドン前面の守りは、さすがに堅い。
ドイツ軍にとって補給など様々な障害はあったが、その万難を排して西側に攻勢を発起することが必要になってきていた。西側から連合軍の戦線を突破して行動の自由を取り戻し、別の角度からロンドンに迫るのである。
ヒトラーはディートリッヒが苦手だった。この男は何かというとおっちゃんの知らない昔話を持ち出すものだから、ひどく応対に困るのであった。親衛隊の将官にしては、ヒムラーのことをほとんど話に出さないのも奇妙であった。
最近ではおっちゃんにも、親衛隊内の、というよりナチス政権内の事情が分かってきた。ヒトラーと早くから行動を共にしてきた幹部たちは、NSDAPの旗色が良くなってから参加した党員よりも格上で、わがままを言っても通るのであった。ヒムラーは官僚組織を冷酷に運営する才能があって、いまや親衛隊の中に警察組織全体を飲み込んで支配していたが、ヒトラーの個人的なボディーガードをもって任じてきたディートリッヒには、この新参者が自分の風上に立っていることが我慢ならないのである。ヒムラーにそれがわからないはずはなかったが、古参闘士中の古参闘士であるディートリッヒを表立って左遷するわけにも行かず、ディートリッヒの指揮するアドルフ・ヒトラー連隊は親衛隊内で浮き上がった存在になっていた。
ディートリッヒは、他のSS部隊がアドルフ・ヒトラー連隊のことを、行進がうまいだけの役立たずだと蔑視していることを知っていた。戦闘親衛隊全体が、国防軍からアマチュア扱いされていることも知っていた。だからディートリッヒは、どうしても自分の連隊を率いてイギリス上陸作戦に参加したくて、たびたびヒトラーに直訴していた。
結局ヒトラーはため息を吐いて、アドルフ・ヒトラー連隊を上陸第2陣に加え、攻撃任務につけるよう、ハルダー元帥に口を利いた。
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マイヤー少佐は、自分の大隊長車をしげしげと眺めていた。受領してから慣熟する暇もなく上陸準備に追われたので、まだ装甲兵員輸送車というものがマイヤーには珍しかった。ごつごつと薄い装甲板に囲まれた装甲兵員輸送車は、大砲で撃たれればひとたまりもなかったが、機関銃などは防ぐことができた。自分が有力な砲を持っていないことが、かえって相手の対戦車砲などから身を守る面もあった。自分の防御力が弱い対戦車砲は、小さな目標に発砲して、発見され反撃されたらひとたまりもないからである。
アドルフ・ヒトラー連隊の中で、この装甲兵員輸送車に乗れるのは、3個大隊のうちの1個に過ぎなかった。しかしひとつの大隊全体がこの車両を与えられている例は、全ドイツ軍の中で10個大隊にも及ばなかった。上陸用舟艇の増産を優先して、この種のものは後回しにされてきたからである。
いまや歩兵はこれに乗って、戦車のすぐ後を移動できるようになった。対戦車砲などの戦車に強く歩兵に弱い目標は、これによって短時間で制圧できる。だからこの兵器は、戦車師団の自動車化歩兵連隊にこそふさわしかった。その装甲兵員輸送車をヒトラーに掛け合って強引に分捕り、頭から湯気を出して追いすがるように抗議したグーデリアンに「戦車と組み合わせて使用すべきだというなら、我々に戦車を与えよ」と啖呵を切り、本当に最新鋭の4号戦車を5両だけだがせしめてしまったのは、もちろん連隊長のディートリッヒ少将である。
実際、戦車部隊の増設を抑制したおかげで、各師団の保有戦車の内容はかなり良くなってきていた。長砲身75ミリ砲を備えた新型の4号戦車F型も、ほぼ全師団に1個中隊分が行き渡り、いくつかの独立大隊も作られていた。
エンジン音に振り返ると、フランス軍から捕獲したノーム・ローン製オートバイが到着したところで、埃だらけになった運転手が、マイヤーの副官に何かを渡していた。中身を一瞥した副官は、すぐマイヤーにそれを見せた。
前進命令である。ヘイスティングスから平坦な南イングランドを横断してブライトンを通過し、ポーツマスを指向する。たぶん陽動なのであろうとマイヤーは考えた。栄光の親衛隊がおとりになっている間に、本物の兵士に南西からロンドンに迫らせようと国防軍は考えているのだ。ならばその策に沿って、本当にポーツマスまで行ってしまえば、主攻と助攻は入れ替わってしまうであろう、とディートリッヒがつぶやいているようにマイヤーは感じた。それにしては支援に当たる砲兵が少ないようだが、と口の中でつぶやきながら、マイヤーは中隊長たちを参集させるよう副官に命じた。
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ビットマンは新しい戦車が気に入っていたが、イングランドの道は気に入らなかった。狭くて、戦闘以外の原因でしょっちゅう渋滞に巻き込まれた。これはイングランドの道路関係者に対する不当な非難というべきであろう。首都から放射状に延びた幹線に比べて、どうしてもそれを横につなぐ方向の道路は数も車線も少なくなるからである。アドルフ・ヒトラー連隊は西へ西へと進んでいた。
ビットマンは軍曹になったばかりで、突撃砲の乗員として訓練を受けていたが、たまたまアドルフ・ヒトラー連隊に4号戦車F型が配備されたので、車長として突撃砲でなく戦車を受け取ったのである。
5両の戦車小隊は、マイヤーの自動車化大隊に先行していた。ドイツ軍での基本としては、戦車は歩兵より先行するが、突撃砲は砲兵の一部だから歩兵より後を進む。隊列の先頭を走るのはビットマンにとっても初めての経験で、ここが戦場でさえなければ気持ちいいドライブと言えたであろう。
ビットマンは砲塔の上のハッチを開けて、周囲に油断なく目を配っていた。イギリス軍の防衛線に触れても良いころである。ビットマンたちのさらに前を、貴重な装甲兵員輸送車が1台、罠の弾き役として進んでいた。
聞きなれたドイツ機関銃の発射音が前方で響くのと同時に、レシーバーから切迫した呼び出しの声が聞こえてきた。イギリス軍を発見したらしい。ちょっとした集落に入りかけていた装甲兵員輸送車が、大慌てでバックしてきたかと思うと、後部の扉が開いて歩兵が走り出た。
ハッチを閉じかけたビットマンは、不吉な砲声を聞きつけて、また少し頭を持ち上げた。高初速の砲らしい。戦車か、でなければ対戦車砲があるらしかった。小隊長からすぐに注意を促す交信が入った。
各自発砲が許可されたが、どうもまずい状況である。相手は身を隠していて、砲なのか戦車なのか決断がつかない。それによって込める弾の種類が違ってくるのである。
「ビットマン、集落に接近せよ」
小隊長の指示が入った。やれやれ、小隊長から見ても自分は味噌っかすらしい。ビットマンは前進を命じると、賭けをしようと腹を決めた。
「徹甲弾を装填、発射待て」
対戦車砲だったらそのまま徹甲弾を撃ち放して、次弾のために時間を稼ぐしかないと思われた。
のそのそとビットマンの戦車は進んでいく。
ぐわん! 割れ鐘のような音が車内を満たした。一番厚い前面装甲に敵弾を受けて、跳ね返したものの、音と衝撃はどうしようもなかったのである。続いて聞きなれないエンジン音が響いて、疑問は解決した。戦車だ。
「停車」
叫んだビットマンは危険を冒してハッチを跳ね上げた。緑色の見慣れない戦車である。
「9時、徹甲弾、急いで回せ」
4号戦車の砲塔は動力で回るが、このころからの生産型は、装填手がハンドルを人力で回して加速することができた。至近距離からの射撃である。敵戦車が続けて撃っている音がするが、どうやら停車せずに撃ち放しているらしい。
「発射」
ビットマンの戦車からの初弾は、見事に敵戦車の側面を撃ち抜いた。間もなく小隊の僚車も発砲して、数発の弾丸が敵戦車の諸処に穴をうがった。
無線が一度ににぎやかになっていた。相手は中隊級(15両程度)の戦車隊らしいが、装甲や砲の威力はこちらが上で、敵の損害の方が多いようだった。3両の敵戦車がドイツ軍の戦車めがけて接近してきて、それらがすべて撃破されてしまうと、敵戦車隊は撤退して行った。
追いついて来たマイヤーの歩兵大隊が集落の確保に当たっている間に、ビットマンたちは撃破された敵戦車を検分した。アメリカ陸軍の白い星のマークをつけた戦車には2種類あった。小さい方は37ミリ級の砲を積んだ軽戦車、大きい方は75ミリ級の砲を持ったずんぐりした戦車であった。75ミリという口径はビットマンの戦車と同じだが、砲身が短いので装甲を貫徹する力が弱く、ビットマンはかろうじて助かったものらしかった。着弾個所には醜いくぼみが出来ており、その前面装甲板の裏側に座席のある無線手は、アメリカ戦車を見に行こうともせず、言葉もなく自分の運命の決定結果を凝視していた。
再び前進命令が出たとき、ビットマンの小隊の戦車は3両になっていた。1両はキャタピラに敵弾を食らったためにつなぎ替えに時間がかかり、もう1両は砲手が慌てて操作したものか、薬莢が砲に詰まって取り出せなくなってしまった。
もしドイツ軍が追い払われていたら、2両とも損失につながっていたかもしれない。ビットマンは勝利というものの紙一重の危うさを強く感じていた。
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パットン中将はひどく不機嫌で、司令部に当てられた小学校の職員室をうろうろと用もなく行ったり来たりしていたので、幕僚たちは士官学校の入学試験でも受けるときのようにびりびりしていた。古巣のアメリカ第2戦車師団先遣隊がドイツ軍の先遣隊と遭遇して、一方的な敗北を喫したのである。
「ああもう、中隊全員を1発ずつぶん殴ってやりたいくらいだ」
幕僚たちはその台詞を昼からこれで4回聞かされていた。パットン将軍が好ましくない状況を描写するボキャブラリーはかなり豊かであったが、その蓄積もこの猛烈な消費率に耐えられなかったのである。
南スコットランドの駐屯地から急派された第2戦車師団は、ドイツ軍の弱い脇腹を突くべく、攻撃準備のために戦線を引き継いだばかりであった。それが逆に押し戻されているのでは話にならない。
パットンの直情径行は今に始まったことではない。ホワイトハウスからダウニング街に、欧州派遣アメリカ軍のトップ人事について打診があった際、チャーチルが「性格は問わないから有能な司令官を寄越すように」と特に念を押してくれたので、この人事が決まったようなものであった。そのチャーチルも戦争がなければとても首相には選ばれそうにない人物だからお互い様であるが。
パットンの心の炎は、多少歪んだプロセスを経てではあるが、アメリカ派遣軍に浸透しつつあった。
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アメリカ軍の主力とぶつかって、アドルフ・ヒトラー連隊の前進は止まった。
アドルフ・ヒトラー連隊は普通の歩兵連隊よりは支援火力が充実していたが、それにも限度があったし、軍司令部は陽動としか考えていないので砲兵を余計に配属していなかった。総合的に優勢なアメリカ軍に対して、あくまで攻撃意図を達するなら、士気の高さをたのんで夜襲をかけるほかなかった。
車両による夜襲は、エンジン音でそれと気づかれることがある。そこで、戦車小隊とマイヤー大隊の一部が街道沿いに陽動攻撃を仕掛け、少し遅れて歩兵が側面から突撃してアメリカ軍陣地に取り付くことになった。
ドイツ軍にはひとつ誤算があった。パットンに急っつかれたアメリカ軍もまた、戦車部隊を中心とする夜襲を企図していたことである。
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小隊長の号令で、追いついて来た2両を含め、5両の4号戦車は一斉に榴弾を発射すると、アメリカ軍の布陣する小高い丘を目指して動き出した。すぐ後ろに10両の装甲兵員輸送車が追随していて、アメリカ軍の機関銃座にぎりぎりまで接近して歩兵を飛び出させる手はずであった。
ビットマンのヘッドホンからは、断続的に小隊長からの指示が入ってきていた。キャタピラの擦れ合う音とエンジンの音が背景に加わって、車中の会話はほとんど聞き取れないほどであった。その中で、細く高い音を真っ先に聞き分けた砲手が、ビットマンを大声で呼んだ。
聞き返す間もなかった。爆発音と地響きは、少なくとも105ミリ級の大口径砲の砲弾が飛来したことを示していた。近い-ひどく近い。
「街道を下りろ」
小隊長の指示は的確だったが、それでも遅すぎた。一斉に飛来した砲弾は、街道を次々と直撃した。その轟音と競うように、小隊長は何事かを怒鳴っていたが、そのヘッドホンからひときわ高い轟音が響いて、ビットマンは思わずヘッドホンを跳ね飛ばした。ハッチを開けて外に身を乗り出すと、天井のぽっかり沈んだ1両の4号戦車が、小さな爆発を繰り返しながら燃えているのが目に入ってきた。小隊長車は不運にも、薄い上部装甲を直撃されたのであった。
「退却だ」
最先任の曹長が無線で指示を出した。アメリカ軍の様子がおかしい。ドイツ軍の接近に気がついたというより、あらかじめ何かを策していたようである。砲兵隊と連絡のつくのが早すぎる。
答えはすぐに出た。前方から複数のキャタピラ音が聞こえてきたのである。ビットマンは操縦手に怒鳴った。
「後退だ。反転するな」
速度は劣っても、この状況で装甲の薄い側面や背面を見せることは危険であった。ビットマンの戦車は少し高い街道から後退して、民家の生け垣に尻から突っ込んだ。これによってかえって車高が低くなり、弾には当たりにくくなったが、どうやら何かに引っかかって動けなくなったようであった。
「エンジンを止めろ」
指示を受けて車内に静けさが戻ると、ビットマンは落ち着きを取り戻した。戦車を放棄しても軍法会議にはかかりそうにない状況だったが、奇襲を食わせるチャンスでもあった。ハッチから身を乗り出したまま、ビットマンは戦況の推移を見守った。
アメリカ戦車は20両以上いるようだった。他の4号戦車は応射していなかった。1両の4号戦車が、アメリカ戦車が次々に浴びせる戦車砲を後部のエンジンに受けて炎上し、ぱらぱらと乗員が飛び出した。その炎に、近くにいたもう1台が照らし出され、集中砲火を浴びてキャタピラを切られた。無謀にも砲塔を回して反撃しようとしたその4号戦車は、続いて数発の命中弾を浴び、砲塔に食らった1発が主砲をがくんと不自然に前傾させ、砲塔の回転を止めた。
アメリカ戦車は勝ち誇って前進して来る。その影が炎上するドイツ戦車の炎に照らし出された瞬間、ビットマンは発射を命じた。
長砲身75ミリ砲の砲弾は7kg近い。それを懸命に持ち上げての給弾が続く。程なく3両のアメリカ戦車が炎上し、街道にはかなり明るい光の帯が出来た。
ビットマンのいる方向はすぐ知れ、アメリカ戦車はそこをめがけて射撃を加えてきた。しかし街道の水準からすると、ビットマンの戦車は車体を土に埋めたような位置関係になっていて、なかなか命中しない。逆にビットマンに砲炎を視認されてさらに1両が破壊される始末である。
パニックを起こしていた兵員輸送車の歩兵たちも気を取り直し、遠巻きに炎上する戦車の光が届かぬよう展開して、グラナートビュクセを構えた。丘から下りて来たアメリカ歩兵たちも同様に対抗したから、夜間の銃撃戦になった。
ドイツ軍の攻撃が失敗したのは明白であったが、双方の戦車の残骸で街道が通れなくなったことで、アメリカ軍の攻撃もまた所期の目的を達しなかった。連隊の主力は急を聞いて攻撃を中止し、あわてて退却を始めていたが、戦車戦闘と歩兵戦闘では時間軸の目盛りがまったく違っているから、ビットマンたちがもうしばらくここを死守しなければ連隊主力が捕捉され壊滅する。少し気を落ち着けたビットマンは、そう状況を整理した。
アメリカ軍は奇襲攻撃を命じられていたから、照明弾を撃つことを思い付くまでに、多少時間がかかった。しかし遭遇から20分後、ついにアメリカ歩兵部隊のある下士官が、それを撃った。
戦場は赤裸々に照らし出された。アメリカ戦車の砲塔が一斉に回り、ビットマンの戦車を指して止まった。ビットマンはあわててハッチを閉じ、砲塔に潜りながら神に祈った。
照明弾が消えるまでに、砲塔への着弾は少なくとも3発あった。うち2発は幸運にも主砲防盾の一番厚いところに当たったが、1発はキューポラ(戦車長用ハッチの基部で、横長の覗き穴があり、小高くなっている)に当たって跳ね飛び、ハッチを開かなくした。その間、ビットマンたちはじっと身を潜めているしかなかった。
不意に周囲に暗さが戻ってきた。照明弾が燃え尽きたらしい。
「脱出」
ビットマンはかすれた声で叫び、砲塔横のハッチからひねり出されるように外へ出た。15秒後、4発目の命中弾が主砲防盾を割って車室に飛び込み、弾薬を誘爆させて、開かなくなった戦車長用ハッチを上空へ跳ね散らした。
「戦車兵、こっちだ」
大声で呼ぶ声に誘われて、ビットマンたちは走った。道路脇の生け垣の陰に、一群の兵士がいた。そこへ飛び込むと、指揮官らしい男が声をかけた。
「心配したぞ、戦車兵。いい仕事だ」
夜目で階級章が分からない。
「ありがとうございます、その…」
「第1大隊長、マイヤー少佐だ」
「これは失礼いたしました。ビットマン軍曹であります」
マイヤー大隊長は部隊の最先頭に立ちたがるという噂は聞いたことがあったが、それを目の当たりにして、ビットマンはまごついた。マイヤーはビットマンを忘れたように叫んだ。
「ヒルマン、第2中隊に伝令。攻撃開始位置まで後退せよ。第1中隊は大隊本部と共に後退を援護する。行け。ランケは第3中隊に伝令…」
名を呼ばれた兵士が次々に生け垣を離れていく。最後にはマイヤーだけが残ってしまうのではないか、とビットマンは妙な錯覚にとらわれた。
「ビットマン」
自分の名前が呼ばれて、ビットマンは我に返った。
「お客さんにはおもてなしをしなければならんが、あいにくコーヒーを切らしていてな」
マイヤーはビットマンの手を取ると、何かをじゃらじゃらと握らせた。小銃弾であった。マイヤーの大隊本部班長が心得顔で、ビットマンに小銃を差し出した。
「使い方は、分かるな」
マイヤーの口調は質問ではなく、断定であった。
ビットマンは聞こえないようにため息を吐くと、胸のポケットに小銃弾を詰め込んで、大隊本部の護衛についた。
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アメリカ軍の攻勢意図が明らかになってくると、ドイツ軍の上級司令部も軍団直轄部隊を派遣して、戦線の補強にかかった。連隊主力は戦闘しつつ後退し、アドルフ・ヒトラー連隊は一夜にして保有戦車5両のうち4両を全損した。
しかしこの間に、ドイツは戦車と支援火力を集中して北西方向に戦線の一部を食い破り、ロンドンの南西地区に取りつく構えを見せていた。ロンドンを一旦ドイツの手に渡し、その突出を咎めることが兵理に適っていたが、イギリスを取り巻く政治状況はそれを許さなかった。いまやイギリスの運命は多くの同盟国と連邦国、そして中立国が握っており、それらはロンドンが攻抜されたと聞けば一斉に離反するのではないか、と懸念するイギリス高官は多かった。すでにアメリカですらイギリス戦時公債の起債は困難になっていた。
かくして連合軍は、ロンドンの喪失を引き延ばすために、海岸に近い防衛線を放棄して全体に北上することを強いられ、ドイツは上陸直後の危機を脱したのであった。
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「この若者か? わしを救ってくれたのは、この若者か?」
ビットマンの頭をぐりぐりとなでこすっているのは、ディートリッヒ連隊長である。戦闘親衛隊の信用失墜を懸念するヒムラーの思惑で、攻勢の失敗は不問に付され、かえってアメリカの攻勢を失敗させたことを激賞する宣伝記事が、ドイツの様々なメディアに送られていた。ビットマンは確かに、ディートリッヒの個人的な面目をも保ったのである。
ビットマンは繰り返し写真を撮られ、長いインタビューを受けたが、あとでメディアに載った記事はまったくそれらを無視したものであった。ある記事などは、ビットマンの4号戦車が街道上に立ちはだかり、雨と降り来るアメリカの砲撃を装甲板で跳ね返しつつ、その無敵の主砲で18両のアメリカ戦車を次々に葬る様を感動的に描いていた。そしてビットマンを指してこのように呼んだ。
「街道上の怪物」
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ロンドンの北東に位置するケンブリッジ駅は、スコットランドへ逃れようとする市民でごった返し、駅員たちは大小のトラブル処理に追われて駅務室に帰る暇もなかった。しかしこんなときでも、駅務室には忘れ物が届けられるし、忘れ物を尋ねる客もまた現れるのである。ブラインドの下りた問い合わせ窓口の前で、彼らは辛抱強く駅員が現れるのを待っていた。
「失礼ですが」
そうした紳士のひとりが、もうひとりに話しかけた。
「そのトランクは私のものではありませんかな。このトランクがあなたのものであるように」
「おお、これは。するとあなたがトルキーンさんですか」
呼ばれた紳士はにっこりと右手を差し出した。
「初めて御意を得ます、オードリーさん。それと私はトールキンです」
互いに、取り違えたトランクの名札を読んでいたから、自己紹介は必要なかった。
「中をご覧になられましたかな」
トールキンに問われて、オードリーは曖昧に微笑した。肯定と取ったトールキンは続けた。
「小説を書いておりましてな。このトランクの中身をなくしたら大変困っておったところです」
「ずいぶん長い小説をお書きなのですね」
トランクはひどく重く、ぎっしりとノートやタイプ用紙の束が詰まっていた。
「このトランクに入っておるのは設定資料です。小説は別のトランクに入っております」
トールキンは声を低くした。
「入り切りませんでな」
オードリーは上品に笑って受け流した。
「あなたの創作もいずれ出版なさるのかな」
言われたオードリーは顔を赤くした。
「ご覧になりましたか」
「いやこれは失礼しました」
トールキンもまた、トランクを開けてみて、取り違えに気づいたに違いない。
「息子に聞かせている話なのです。同じ話をしないと、息子が矛盾を指摘するものですから」
「それは良いことをなさっておりますな。失礼を重ねるようですが、牧師様ですかな」
オードリーは牧師のみなりをしていた。
「ケンブリッジシャーの教区牧師をしております」
「それはそれは。疎開のお世話が大変でしょう」
オードリーは苦笑した。
「子供をアメリカに逃がすべきかどうか尋ねられるのが、一番つらいですね」
トールキンは悲しげにうんうんと肯定した。ドイツ軍の空襲が激しくなった1940年から、子供をロンドン近郊から田舎へ疎開させることは盛んに行われていた。しかしたくさんの子供を載せてアメリカに向かった客船がUボートに撃沈される事件があってから、国外への疎開はほとんど言い出されなくなった。それを再び考えなければならないところまで、イギリスは来ている。
最近のUボートは上陸作戦支援を優先されて、空からの協力を受けられなくなっているが、防御と襲撃のために駆逐艦を激しく消耗しているイギリスにも弱みがあって、大西洋の事情は上陸作戦開始後も好転していなかった。
「ひどい時代ですが、平和になったらまた会いましょう」
トールキンは手を差し出しながら、詠うように言った。
「では、王がお帰りになるまで」
オードリーは一瞬戸惑ったが、すぐににっこりと右手を差し出した。
「さよう、王がお帰りになるまで」
この夜、イギリス国王ジョージ6世はラジオを通じて、スコットランドに拠って徹底抗戦のシンボルとして留まることを選び伝えると共に、王位継承権第一位のエリザベス王女をアメリカに留学させることを発表した。
ヒストリカル・ノート
この作品に登場する4号戦車F型は、史実のF2型です。長砲身4号戦車の配備状況は史実より半年ほど進んでいます。しかしソビエト戦車との実戦を経験していないため、装甲を厚くする処置は逆に史実より遅れ気味です。
シャーマン戦車の75ミリ砲は初期型のT34と同程度の威力で、ドイツの長砲身75ミリ砲には及びませんでしたが、まったく歯が立たないということはなかったはずです。
装甲兵員輸送車の生産と配備は、史実よりかなり(1年くらい)進んでいます。
オードリー牧師がこのころ持っていた原稿は、要らない紙の裏側に書かれたもので、機関車の簡単なスケッチも含まれていたと言われますが、たぶんそれはかなりラフなものであったと思われます。なぜならオードリー牧師の童話が1945年に出版されるとき、彼は画家の絵柄が気に入らず、最もお気に入りの機関車であるトーマスをお話に出さないことにしてしまったからです。トールキンはこのころには「ホビット」の作者として知られていたはずですから、実際にふたりが出会えば、オードリーは相手が誰だか分かったかもしれません。
トールキンはTolkienと綴るので、オードリー牧師は読み方を間違えてしまいました。誤字報告を頂きましたが誤字ではありません。




