第12話 さすらいのフロイライン
パリとベルリンを訪れると、どことなく街の雰囲気が異なることに気がつく。看板の文字を視界から消し、パリのビルの窓を覆うフェンスの繊細で複雑な模様を考えに入れないことにしても、何かが違う。ベルリンのビルの窓はくぼんでいるが、パリの窓はそうでないことに気づいたとき、あなたは正解に到達できる。
壁の厚さが違うのである。
ロシアの冬とは比べられないとしても、ドイツ北東部の冬もまた、厳しい。そんなドイツの田舎町を、寒そうにとぼとぼと歩いている若い娘がいる。
「あの……給仕急募って、書いてあったんですけど」
レストランのドアをくぐった娘は、室内の温かさにも、寒そうな表情を崩さなかった。
「そうだねえ」
堂々たる押し出しの女主人は、娘を無遠慮に品定めした。
「最近、年季の入ったウェイターが、ひとり応召しちまってね。もう30だよ30。あんな年寄りが兵隊に取られるのかねえ」
「おっ、新しいフロイライン(原義は”お嬢さん”。ドイツでウェイトレスに呼びかけるときの言葉)かい」
奥から出てきたのは、かなり若い男である。白いコックの服を着ている。
「息子のヨハンさ。こいつが結婚ローンなんか申し込むような馬鹿なことをしなけりゃ、ガートルードを働かせて済んでいたのさ。まったくあたしの頃は、12や13で働いてないのは、どこかの王女様だけさね」
「母さん、それはもう言わない約束だろ」
苦笑したヨハンは、まあ優男と言っていいかもしれない。
結婚ローンと言うのは、ナチス・ドイツが一種の失業率抑制策兼アーリア人増加策として導入した制度である。ナチス・ドイツの目から見て人種的に望ましい初婚の男女は、平均的な月収の数倍に当たる額を貸し付けてもらえる。返済は無利子100ヶ月均等払いだが、返済期間のうちは、妻は夫の収入が極端に落ち込まない限り、求職も就職もしてはならない。これによって女子の求職者=失業者が減れば、失業率は好転すると言う寸法であった。好評な政策だったが、失業率への効果のほどは定かではない。ちなみに財源捻出のため、独身者には独身税がかけられた。
「ついでに屋根裏部屋に住んでることにしてやろう。いいかい、厄介ごとを持ち込むんじゃないよ。当ててみようか。男がいるんだろう」
女主人は、娘の顔を覗き込んだ。娘は首をすくめて、脅えた目をした。女主人は、きょとんとしている総領息子をじれったそうににらんで首を振った。
「この季節に娘がひとりで、こんな格好で職を探しに来て、もう10分も話してるのに、まだ労働手帳が出てこないってのは、わけありと大文字で書いてあるようなもんさ。おおかた、フランスの捕虜とでもよろしくやっちまったんだろ」
フランス軍の捕虜は、この当時もドイツの労働力不足を補うため盛んに労働に駆り出されていたが、ドイツは人種政策の観点から、ドイツ女性との交際、特に性的関係については厳罰で臨んだ。例えばラブレターを交わした程度の交際でも、女性は最低でも6ヶ月、交際の程度が深いときは最高4年もの懲役刑が言い渡された。フランス人捕虜に対しては、もっと刑期は長かった。
「安心おし。誰にも言わないし、雇ってやるよ。あたしはここの党の地区指導者と知り合いでね。40年前に、さんざ浮き名を流した仲なのさ」
母親のお気に入りのジョークをまた聞かされて、ヨハンは大げさに眉を動かした。本当は、たまたま店で若い娘を口説いているのを見つけて、弱みを握っているだけである。
「ただし、給料はポーランド人並みだよ」
娘はそれほどいやそうでもなく肯いた。ドイツは政策的に、多くのポーランド人をドイツ領内で働かせていたが、ポーランド人の給料は同種の労働をするドイツ人より低めに設定するよう指示が出ていた。ポーランド人を劣等人種とみなす人種政策の一環である。もっともその差額は税金として吸い上げられるようになっている。
女主人ベルタはにこにこしていた。その表情はまんざら作り物と言うわけでもない。ドイツ語がろくすっぽ話せず、すぐに他に移ってしまうような(ドイツ政府は少なくとも最初のうちは、ドイツ国内で働いている限り、外国人労働者の転職を規制しなかった)外国人労働者の代わりに、お買い得のドイツ娘が手に入ったのである。そのことが、珍しくベルタに気前の良い行動をとらせた。
「おいで。教会のバザーに出すつもりだった外套があるから、持ってお行きよ。今夜の夕食時分から働いてもらうからね」
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「おお、マルガリータ、君と会えない時間は、僕には10世紀が経ったように感じられたよ」
ジャンは秘密の隠れ場所で、マルガリータを強く抱きしめた。マルガリータはジャンの口説き文句のすべてを聞き取れるわけではなかったが、十分に幸せだった。聞き取れる口説き文句だけでもずいぶん長かったし。
新しいフロイラインは、上々の評判だった。地区指導者は早速マルガレーテの尻を触りにやってきて、ベルタにやんわりかわされ、なんとなく5マルクのチップを弾まされて、首を振って帰って行った。平均的な労働者の月収が150マルクだった時代である。
ジャンとマルガレーテの生活は、貧しいなりに安定した。ジャンはカトリック教会を見つけ、フランス語を話せる司祭に頼み込んで、どうにか空き家を世話してもらった。そしてマルガレーテは相当なチップを稼いだし、ヨハンが時々片目をつぶって、店の残り物を持たせてくれた。
栄養状態は良いとは言えなかったが、マルガレーテはどこかふくよかになったと、店の客は口を揃えてベルタに言った。うちの料理のせいですよと、ベルタは如才なく答えた。
ある日、マルガレーテが出勤すると、休業日ではないのに、休業の札がかかっていた。
店に入ると、ベルタがテーブルのひとつに突っ伏していた。背中を丸めたその姿は、あの活気にあふれたベルタを、ひとりの老婆に見せていた。
「ああ…すまないねえ。辞めてもらわなくちゃならないよ」
ベルタの声には張りがなかった。
「店を閉めるのさ・・・ヨハンが召集されちまってね」
マルガレーテはあまりの急転に、呆然としていた。突然、ベルタの表情がくしゃくしゃになって、その目から涙が溢れ出してきた。
「人前で泣いたのは、何年ぶりかねえ。ヨハンの親父が、前の大戦で逝っちまったとき以来だよ」
泣いているうちに、ベルタは落ち着きを取り戻してきたようであった。
「あの…」
マルガレーテが何も言えずにいると、奥からヨハンが出てきて助け船を出してくれた。
「これ、僕の古いコートなんだけど、当分着ないだろうから」
ヨハンは男物のコートをマルガレーテに手渡した。
「大丈夫だよ。僕は戦場でもコックなんだ。炊事兵の学校でちょっと再教育を受けたら、あとは戦線の後ろで毎日鍋を磨くんだよ」
ヨハンは愉快そうに言った。ヨハンの父も炊事兵だったが、毒ガスは戦闘要員と後方要員を区別してくれなかったことを、ヨハンは口に出すような人物ではなかった。
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「クランベリーケーキと、紅茶をポットで」
「はい」
マルガレーテは喫茶店で注文を受けていた。
「それでね。ハンスから手紙が来たのよ。ポーランドにいるらしいんだけど、元気でやってるって」
ふとマルガレーテは、客同士の会話を心に留めた。
「まったく、あの坊やが兵隊になる前に、戦争は終わってると思ったのにねえ」
「何、総統は何でも計算済みさ」
男の声がした。
「東にいるんなら、家にいるようなもんさ。二正面作戦なんて、総統がするわけがないよ」
突然、店先で鋭い音がした。ガラスが割れたのである。悲鳴が上がった。老人がひとり、うずくまっていた。ガラス片が刺さったらしく、上着の何個所かが赤くにじんでいる。
「ユダヤ人め!」
店の外から声がした。若い一団の少年が走り去って行くのが見えた。マルガレーテは思わず老人に走り寄って、ガラス片を払った。胸の黄色いダビデの星(ユダヤ人であることを示し、外出時の着用が義務づけられていた)がちらりと見えた。
「すまんね」
老人は落ち着いた声で言った。起き上がろうとするが力が入らないようである。客たちから忍び笑いが聞こえた。よく見ると、左足が義足である。老人は暖かく笑った。
「前の大戦でね」
老人のドイツ語はドイツ人と変わらなかった。
「ちょっと、どうしてくれるんだい。ガラスがめちゃめちゃじゃないか」
喫茶店のおかみがやってきて、老人をしかりつけた。
「すまんことをした。だが、あいにく持ち合わせがないんだ」
自分のせいではない、と抗弁しても受け入れられないことを、老人はもちろん知っていた。事実上、ユダヤ人は法の保護を受けていないも同然なのだ。
「身ぐるみはいじまえ」
客から声がかかった。
「血のついたコートなんて、もらってもしょうがないよ。とっとと出て行っとくれ」
マルガレーテによりかかってやっと立った老人に怒声を浴びせて、おかみは押し出すように店から出した。
店を閉めてから、おかみはマルガレーテを呼んだ。
「さっきは済まなかったね。あのお年寄りを助け起こしてくれて、ほっとしたよ」
おかみは何かをマルガレーテに握らせた。見ると、1マルク札であった。
「あの場はああ言うしかなかったんだよ。窓際に座ってたザウケンさんは、去年ゲシュタポを辞めたばかりだからね」
おかみの口調はどこか独り言のように聞こえた。実際、懺悔をしている心境なのだろう。
「だけどあんたも気をつけるんだよ」
おかみは付け足すように言った。
ジャンの住む小さな部屋への帰り道、マルガレーテは街灯の明かりで、その1マルク札を見直した。これは紙幣ではなくて、おかみの免罪符であるように、マルガレーテには感じられた。
マルガレーテは、その紙幣ではないものをふわりと投げ捨てると、家路を急いだ。
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「あの、家事手伝い急募って、張り紙があったんですけど」
マルガレーテは心細げに言った。空腹感そのものがもう鈍り始めていた。仕事の口はなかなかなかった。労働手帳がないと、後難を恐れて誰も雇ってくれないのである。どうやら新任の軍需大臣は女性の労働力活用に熱心なようで、いったん家庭に閉じ込められかかった女性が、再び労働市場に吐き出されてきていた。マルガレーテの代わりはいくらでもいた。
断られたら、すぐに移動しなければならなかった。密告されるかもしれないからである。いつしかジャンとマルガレーテは、北西ドイツのハンブルグ市の郊外まで来ていた。
「すまないねえ、もう間に合ってしまったんですよ」
初老の上品な婦人は言った。
「まあお茶でも上がっていらっしゃい。マグダ! マグダ!」
マグダというのが先に職を決めてしまった娘なんだな、とマルガレーテは思った。きびきびした、というと誉めすぎになりそうな声が台所から返ってきた。
老婦人はマルガレーテの話を聞きたがった。代用コーヒーとケーキを前に、マルガレーテはここしばらくの旅の話をした。老婦人を警戒していろいろな部分をぼかしたが、老婦人は巧みに話題を変えながら会話を続けた。
「マグダ! シュルツさんのお店に行って、白ワインを受け取ってきてくれるかしら」
老婦人がマグダを使いに出したので、マルガレーテは立ち上がった。危険だった。警察が来るまでの時間稼ぎをしていたのかもしれない。
老婦人は自分の口に指を当てながら、鋭い目を玄関に走らせた。マグダは既に出て行っていた。
「あなた、追われていらっしゃるのね。そうなんでしょ」
「あの…」
早く逃げたいんです、と面と向かって言うのも馬鹿げているし、マルガレーテは混乱して言葉が出なかった。
「そう、急いだほうがいいわ。でもその前に…」
老婦人は戸棚から紙片と万年筆を取り出すと、名前と住所を走り書きした。
「いいこと、これは暗記したら、すぐに捨ててしまいなさい。きっとあなたが隠れる手助けをしてくれる人たちよ。この人たちは、花ならラヴェンダーが好きなの。ラヴェンダーよ。わかった?」
「あなたは、何なんですか?」
やっと出てきたマルガレーテの言葉は、老婦人をぽかんとさせた。やがて老婦人は、くすくすと笑い始めた。
「ごめんなさいね……私、あなたを試すことで頭がいっぱいで」
ここで初めてマルガレーテは、老婦人が長い会話でマルガレーテを引き止めていたのではなく、ドイツ政府のスパイかどうか試していたのだと気がついた。
「あなたは嘘をついている……すごく下手な嘘。ごめんなさいね……でも、ゲシュタポが絶対つかないような嘘よ。私の主人は、アメリカ公使館に勤めているの。急いだほうがいいわ。マグダがどこへ走ったか、おおよそ想像がつくでしょ」
マルガレーテは虚を衝かれた。
「このご時世ではね。公使館員の家に来てくれる家政婦さんは、2種類しかいないの。若いゲシュタポのスパイと、若くないゲシュタポのスパイよ。あらごめんなさい。あなたがそうだというんじゃないのよ」
老婦人は若々しくけらけら笑うと、表情を引き締めた。
「さあ、早く。ここは見張られているのよ」
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「ふむ……娘さんのフランス語の方は、からきしなんだね?」
細縁眼鏡をかけた職人風の男は、マルガレーテをぎろりと見た。
老婦人の示した住所は、フランスとの国境近くにあった。その家でいくつかの質問に答えると、その家の男たちは、ふたりに長い箱に入るように命じた。ふたりは箱の中でしばらく揺られ続けた。再び箱が開けられたとき、ふたりは国境を越えて、アルザス地方(フランス東部で、ドイツとの国境地帯)にいた。そしてふたりは、再び質問を受けているところであった。
「よろしい。君たちは今日から、フォルクスドイッチュ(民族ドイツ人)だ。君たちくらいの歳で、ドイツ語のできんフォルクスドイッチュは、ここじゃ珍しくないからな」
男はさらりと言った。フォルクスドイッチュとは、ドイツ占領地域に住むドイツ系住民のことである。彼らはドイツの占領下においては、一般住民と区別されて様々な恩典に与かった。アルザス地方は17世紀以来ドイツとフランスの間を行ったり来たりしているから、フォルクスドイッチュも多い。
「明日には身分証が出来上がる。名前の希望があったら、今のうちに言っておくんだぞ。めったにない改名の機会だからな」
男はクックッと笑った。
「身分証ができたら、ちょっと使いに行ってもらいたい」
ジャンとマルガレーテは顔を見合わせた。予期していないことではなかった。こうなったら運命に我が身を委ねよう、と話し合っていたところであった。ジャンは言った。
「どこへです」
「イギリスだ」
男はまたクックッと笑った。
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「おや、ごきげんよう、フロイライン(お嬢さん)」
身分証を受け取ったドイツ人の警官がドイツ語で声をかけた。ジャンは曖昧に微笑し、マルガレーテは快活に応じた。
「こんにちは」
「船旅はいかがでしたか」
「最高よ」
イギリス領チャネル諸島は、英仏海峡のフランス寄りの位置にあり、ドイツが占領したイギリス本土の唯一の属領である。その中のジャージー島に、いまフランス本土からの連絡船が着いたところであった。
ふたりは、この島にドイツ語学校を作る計画を話し合うために、アルザスのドイツ人が経営する学校から派遣されたことになっていた。もっともドイツ人は架空の人物で、そこへ電話をかけるとマキ(レジスタンス)の電話番が応対する。ふたりの訪問先は地域の名望家だが、日中は家の中でくつろいで過ごし、日が暮れてから真の目的地に向かうことになっていた。受入先は用心のために、その目的地について知らされなかった。
ふたりの真の目的地は、何の変哲もない農家であった。乳牛のジャージー種に島の名前がついているように、この島では酪農が盛んである。
「ごめんください」
「アルザスからの方ですか」
「ロッテンマイヤー学校から来ました」
応対に出た中年男性の表情は、ほとんど変わらなかった。
「裏の納屋でお待ち下さい」
どうやら中年男は、家族をレジスタンス運動に巻き込むことを恐れているようであった。ひとりで応対しようと言うのであろう。ふたりは、組織作りのためのフランス本土からの援助と、今後の連絡の方法について、この男へのメッセージを言付かって来ていた。
ふたりは、納屋の干し草の山に腰を下ろした。今までの逃避行とは違った、旅の開放感が、ふたりを包んでいた。
「ああマルガレーテ、君といっしょなら、干し草も魔法の絨毯に変わるよ」
ジャンは早速文学的創作にいそしみ始めた。
「誰?」
若い女性の声に、ふたりはすくみ上がった。英語とドイツ語とフランス語による不得要領な会話の末に、ふたりは若い女性がこの農家の娘であることをやっと知った。娘は父親の活動について何も知らされていなかったが、薄々そういった運動があることは察していて、ふたりの用向きもおおよそ見当をつけたようであった。
娘は事情を知ると、ひどくおどおどし始めた。自分たちがここにいてはまずいのか、とジャンが尋ねようとした、その時である。
「ジャン!」
マルガレーテが鋭い声を上げた。納屋の入り口から、夜目にも見間違えようもない、軍服のドイツ兵が覗いている。飛び出して行こうとする家の娘を、マルガレーテが押え込む。それをかばおうとするジャン。
ドイツ兵は、下手な英語でささやくように言った。
「ケイト! いるんだろうケイト!これはどういうことだ」
最初に事情を飲み込んだのはジャンだった。ジャンがマルガレーテを止めたので、家の娘は納屋の外に走り出し、ドイツ兵に抱き付いた。
「マルガレーテ、ぼくのマルガレーテ、わからないのかい。この人たちは、ぼくらと逆の立場なのさ」
「じゃあ、この娘さんは、ドイツの兵隊さんと……」
「わかったかい」
「わからん。全然わからんぞ」
怒りのこもった男の声が、納屋の外から響いてきた。さっきの中年男性、つまりケイトの父であった。呆然と立ち尽くす若いドイツ兵を見て、ジャンとマルガレーテは笑い声を押し殺すのに苦心していた。
ヒストリカル・ノート
シュペーアは、ヒトラーと党組織が女性労働力の動員に消極的であったことを、回想録の中で批判しています。軍での補助任務につくケースや、RAD(帝国労働奉仕団)への参加など、少なからず女性は戦争参加を強いられていたのですが、様々な理由によってかなりの女性労働力が(もちろん女性たち自身の希望もあって)家庭に留まっていました。
チャネル諸島は1940年から1945年の終戦までドイツ軍の占領下にありました。連合軍はヨーロッパ再上陸に当たって、この島を無視して通り過ぎたのです。
チャネル諸島の女性で、戦後になってドイツの元駐留兵と結婚した例は、実際にあります。




