第10話 伯爵と7人の小人
「先日話した、例のアンテナの件は、まだ決着がつかないのかね」
「専門家たちのチームに任せてはみましたが、何らかの電波の方向を感知する機械だというだけで、具体的な用途は分かっておりません」
Uボート部隊司令官・デーニッツ少将は総統のお気に入りと目されていたが、それでも総統との単独会見の機会をそうそう得られるわけではなかった。海軍総司令部は、デーニッツが頭ごしに潜水艦部隊のため(だけ)に交渉することを嫌っている。デーニッツはこの貴重な機会に予算や資材、人手をどうにかして分捕ろうと、空腹な狼の心境になっていた。
先頃、国防軍機関誌「ヴェールマハト」の表紙を飾った写真が、アンテナ騒動の発端であった。イェンセンとかいう記者が哨戒機に乗り込んで撮影したその写真には、対空砲火を盛んに撃ち上げるコルベットが写っていた。そのコルベットのマストに、従来見られなかった特殊な形のアンテナが写っていたのである。それは籠のような形をしていて、受信した電波の方向を知るものらしいのだが、イギリス艦が新たな電波を発信しているという証拠は挙がっていなかった。
「暗号が解読されている兆候はないかね」
「常にその可能性はあります」
デーニッツはこの話を切り上げて、鉄鋼の海軍への割当量を増加させる交渉に入りたかったから、どうも口調がぞんざいになる。
「例えば、哨戒線の位置が読まれている兆候はないかね」
総統はしつこい。
「専門家によれば、エニグマ暗号機は十分に信頼の置けるものです」
「例えばだ」
総統はなだめるように言った。
「開戦以来多くのUボートが行方不明となっている。そのうち1隻が重要文書の処分に失敗した可能性はないかね。1隻で十分なことは言うまでもあるまい」
そこまで言われると、デーニッツも以前からの漠然とした不安が頭をもたげてくる。
「報告を総合すると、敵が意図的に哨戒線を避けているとしても、事実とは矛盾しません」
ヒトラーは獲物を仕留めた猟師の顔になり、デーニッツは複雑な思いであった。狩られたのは自分なのか?
「ひとつ試してみるか」
総統は言った。
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ドイツ北部のキール軍港をあとにしたU1963潜水艦は、最初の潜航に入ろうとしていた。
「第4バラストタンク、ベント開け」
機関長の指示で、発令所では艦首から順に、4つのバラストタンクに注水する作業が行われていた。同時に、艦首の潜舵と艦尾スクリュー後ろの横舵が操作され、艦はゆっくりと深海へと身を沈めて行く。この発令所というのは、指令塔のすぐ下のやや大きな部屋で、潜水艦の出てくる映画で艦長が潜望鏡を覗いているところである。
予定深度に達して艦尾の第1バラストタンクへの注水を終え、ツリムを水平に戻すと、艦長は各部の点検結果を丁寧に聞き取った。航海準備の不足による不具合が現れるとしたら、対処が間に合ううちに現れてくれたほうがよほど良い。
その間も、艦内を音にならないざわめきと興奮が漂っていた。みんなあの封筒のことを知っているのだ。艦長はそれに気づいていたが、それについては何も言わなかった。艦長の個室のドアすら確保できない-厚手のカーテンがあるだけだった-Uボートで、本当の意味で秘密を守ることなど出来るわけがないのだ。
副長とふたりの士官が呼ばれた。士官区画に入っていく4人に、艦内のすべての人間が注意を集中していた。
艦長は時間と艦の推定位置を確認すると、分厚く封印された封筒と、航海日誌を差し出した。しかるべき時点まで封筒が封印されていたことを証明する署名を求めたのである。
封緘命令であった。
こうした秘密命令は、Uボート部隊では珍しいものであった。デーニッツは艦長たちと可能な限り面談の機会を持とうとしていたし、困難な命令を口頭で伝えて、志願する-あるいは忌避する-機会を作ることもあった。司令官本人が艦長に気軽に会える関係なのに、封筒で秘密命令を渡すのはなんとも杓子定規である。現にこの封筒も、艦長がデーニッツから直接預かったものであった。珍しいことであるだけに、艦長以下全員が興奮している。
封筒を開き、本文に目を走らせる艦長の目の動きを、3人の士官が無意識に追っている様は、もしカメラが回っていれば戯画的な情景であったに違いない。
艦長の目から、急に光が失せたと思うと、艦長はその命令書を無造作に副長に渡した。
「遠出は無しだ。エルドラドも諜報員も日本遠征もない」
艦長は懸命に平静を取り戻そうとしていた。命令書はすでに副長から航海長に渡っている。U001という架空の潜水艦を名乗り、当分の間U1963の実際の位置に近い位置を報告し続けること。それだけであった。
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冬の荒天が過ぎ、1941年のイギリス海峡には春が訪れていた。ドイツ空軍の爆撃は間断なく続いていた。
最近のドイツの夜間爆撃は、鉄道と港湾を主要目標としていた。鉄道は簡単に復旧できるし、鉄橋は爆弾が命中しにくい。しかし爆撃目標としては都合の良い点もあった。まず鉄道のどの点を破壊しても同じ効果があるから、防御が集中できず、爆撃機の損害が少ない。自動車輸送で急場の代替輸送を行うことは出来るが、最も希少なガソリンを大量に消費させられてしまう。そして爆撃の効果は、短期間とはいえ広い範囲に及ぶ。
ニューカッスルとカーライル周辺で、スコットランドとイングランドを結ぶ鉄道はわずか2本になる。南西イングランドのコーンウォール半島への交通は、エクゼターでほとんどひとつになる。孤立させやすい地帯はイギリスにいくつもあった。鉄道の復旧にはせいぜい数日しかかからないとしても、その数日の空白が引き起こした混乱は、ずっと長い期間残った。イギリスはようやく戦闘機不足の危機を脱し、大型機生産へ資源を振り向けようとしていたが、全国に散在する部品工場との連携が絶えず乱され、プロペラとエンジンは不足と過剰を交互に繰り返し、航空機生産省では担当者が頭をかきむしっていた。
沿岸航空軍団と爆撃機軍団の間では、ようよう完成した大型機の取り合いがますます激化していたが、マルタ島陥落以来戦果を焦る政府は、爆撃機軍団に有利な判断をしがちであった。イングランド南部の港湾への爆撃は内国水運を妨害し、輸送船護衛に適した小艦艇の需給に慢性的なダメージを与えた。
そして昼間と夕刻の爆撃は飛行場とレーダーサイト、それもイングランド南部に集中し、イギリス空軍を消耗させ続けていた。防空を担当するイギリスの戦闘機軍団司令官は昨年晩秋にダウディング大将からショルトー・ダグラス中将に代わったところだったが、新任司令官は前任者に比べて、多くの戦闘機で編隊を組んでから迎撃にかかる傾向があった。戦力集中は一般的には戦術の理にかなうが、ドイツが至近の目標を選んでいるときには、これはまずい対応であった。イギリス戦闘機が殺到した頃には、ドイツ爆撃機は帰途についており、飛行場からは黒煙が上がっていた。
それらの長く深刻な物語は、ここでの主題ではない。ここで問題となるのは、イギリス沿岸航空軍団がひどく手元不如意であったということである。その一方でドイツの戦闘機隊は東部戦線に回されずフランスでとぐろを巻いていたし、イギリスの哨戒機からUボートを守ろうと双発戦闘機がぶんぶん飛び回っていた。
このために、フランス沿岸のブレスト軍港にドイツの巡洋戦艦2隻が逃げ込んだという絶好の状況であったにもかかわらず、爆撃で致命的な打撃を与えることもできず、港口を爆雷でふさぐだけの大型機も確保できなかったし、イギリスの敷設艦の活動は双発戦闘機を避けられる深夜に制限されていた。だからドイツが掃海艇を1隻2隻沈めるつもりで-実際には3隻沈んだ-懸命の掃海作業を行えば、必要とされる決定的な短期間、イギリスの重圧を撥ね退けることが出来たのである。
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バウンド大将・イギリス海軍軍令部長は、開戦以来の激務と心痛でかなり体調を崩していた。その彼をうめかせる報告が、またフランスのレジスタンス組織からもたらされた。
「シャルンホルストとグナイゼナウが出撃しただと」
2隻の巡洋戦艦は、再びイギリスとアメリカ大陸を結ぶ通商路の妨害に出た公算が高かった。それ以外の戦場では、彼ら2隻の価値に見合う戦果は挙げられないだろう。
もっとも、バウンドの心の慰めとなるのは、イギリスの船団は彼らの近くにいないし、イギリスにも対応の実績があることだった。最近になってアメリカがアイスランドを保障占領して、イギリスは航空機基地を思いがけなく得ることが出来たので、船団は従来より北寄りのコースをたどり、イギリスの真北近くまで来て一気に南下するコースをたどるようになっていた。だからシャルンホルストとグナイゼナウは、まとまった獲物を見つけるまでに長いことかかるはずだった。
加えて、イギリスは第1次大戦の生き残りの低速戦艦を何隻か持っていた。これらを輸送船団につけておけば、ドイツ海軍は危険な戦闘には身を投じようとしないことが、2隻が通商破壊を続けてブレストへ逃げ込んだときの経験でわかっていた。
目下のバウンドの心配は別のところにあった。ドイツの暗号解読により、ドイツ本国方面からも何隻かの水上艦が出撃し、可能ならば洋上で合同するという計画であることがわかっていた。そしてこれらの艦は、ドイツの要港を見張るイギリス潜水艦にもレジスタンスにも、まだ所在を知られずにいたのである。
戦艦ビスマルク、重巡洋艦プリンツ・オイゲン、そして…
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イギリス沿岸航空軍団に属するサンダーランド飛行艇の機内は、興奮でむせ返るようであった。はるか眼下のデンマーク海峡に、白い航跡をはっきりと刻んでいるのは、ビスマルク級の1隻、おそらくビスマルクである。それをそのままスケールダウンしたような艦容のヒッパー級重巡洋艦も見える。イギリス軍はドイツ軍の交わしている暗号を解読して、ビスマルクと共にヒッパー級3番艦プリンツ・オイゲンが行動していることを知っていたが、もちろん現場のクルーはそんな事は知らされていない。
問題は、その後に続く第3の艦であった。
グラーフ・ツェッペリン(ツェッペリン伯爵)。ドイツ海軍がかねてより建造していた空母であることは間違いなかった。しかし…
飛行甲板が前からおよそ2/3までしか張られていない。そこから後ろは単に鉄板で覆われ、その中にエレペータ予定地と思われる縦穴がぽっかりと空いている。鉄板の部分は離発着に使えるかどうか遠目にはよくわからないが、全体の印象としては未完成のように見える。
なおよく確認しようとしたとき、クルーのひとりが接近してくるドイツの双発戦闘機を発見した。沿岸の基地から飛び立って、艦隊上空を直衛していたのである。鈍足な飛行艇は、全速力で逃げるしかなかった。穴だらけで辛くも帰還した飛行艇のクルーをイギリス軍情報部は質問攻めにしたが、グラーフ・ツェッペリンが離着陸可能なまでに工事が進んでいるのか、結局クルーの誰も言い切る自信はなかった。
ビスマルクはじめ3隻は、ドイツ戦闘機の切れ目ない護衛を受けながら、ノルウェー沿岸を北上した。逆にドイツ艦の動きは、ドイツ航空基地の一挙一動を読み取るノルウェーのレジスタンスによって逐一イギリスに通報され、イギリスは虎の子の陸上雷撃機隊を投入する機をうかがっていた。もちろんこれに加えて、トーベイ大将・イギリス本国艦隊司令長官は旗艦キング・ジョージ5世に司令部を移し、出撃に備えたのである。
北海では哨戒機と双発戦闘機がぶつかり合い、散発的な空戦が展開された。戦いはややイギリスに不利であった。ドイツは戦闘機を繰り出せばよいのに対し、イギリスは雷撃機を護衛する双発戦闘機を温存せねばならず、低速の飛行艇や哨戒機を主力にせざるをえなかったからである。しかしドイツもビスマルクの護衛に戦闘機の大半を割かねばならなかったから、獲物に対して猟犬の数が少なく、全体としては小競り合いに過ぎなかった。
やがて、ビスマルクがノルウェー沿岸を離れるときが来た。メッサーシュミットMe109戦闘機は翼を振って去り、代わって少数のユンカースJu88C双発戦闘機がその位置についた。
グラーフ・ツェッペリンがその能力を発揮する状況は、まだ生まれていなかった。
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最近のヒトラーは、個々の作戦の指導に立ち入ることを意識的に避けていた。だから今回もOKM(海軍総司令部)に足を運ぶのにちゅうちょもあったのだが、この大決戦の一部始終を見届ける誘惑には抗すべくもなかった。ただ大きな海域状況図のある作戦室に居続けることは遠慮して、別室で総統大本営担当のクランケ少将((ポケット戦艦アドミラル・シェーアを率いて、通商破壊で大成功を収めた人物です。実際に1942年1月から1943年2月まで、総統付海軍武官を務めました。))から説明を聞くことにした。
シャルンホルストとグナイゼナウはまだ無線封止を守っている。ということはまだイギリス船に出会っていない。これは良いニュースであった。独航船に出会って撃沈しても、位置を暴露しては引き合わない。どうせ会うならまとまった船団がよかった。
ビスマルクもイギリス哨戒機の触接を避けて、イギリスをかなり大回りにするコースを取っていた。イギリスにしてみれば、合流されると手が付けられない台風となって航路をふさいでしまうから、その前に各個に叩いてしまいたい。だからドイツとしては会同地点を覚らせないことが重要で、今のところこれには成功していた。
「レーダー提督は今度の作戦に不満なのかね」
「いえ、決してそのようなことはありません。洋上での合同は、提督が自ら言い出されたことです」
クランケは当たり障りのない答えをした。
「だが今回の作戦のようではなかった。彼は大型艦による通商破壊に対して積極的なのだろう?」
「それは確かです」
「もうひとつ言えば、彼はエニグマをまだ信じている」
クランケは答えなかったが苦笑した。
ドイツ軍のエニグマ暗号機は、アルファベットを機械的なルールで暗号に変換し、また逆変換する装置である。ディスク状の部品を取り替えることで簡単に暗号コードを変化させることが出来、ディスクを適当な頻度で交換している限り、入手した暗号文から変換ルールを読み取ることは不可能と思われていた。
ところがイギリス軍情報部は、エニグマ暗号機の複製、ついで実物を手に入れて試すべき組み合わせの数を減らす一方、初歩的なコンピュータを開発して試行錯誤のスピードを飛躍的に高め、このころにはエニグマ暗号を破ることに成功していた。
もちろんおっちゃんはそれを知っている。しかしエニグマは完璧だと言い張る暗号の専門家を、どう説得したらいいだろう? エニグマが解読されているのではないか、という疑いは当時からささやかれていたが、1970年代になって当時の解読班長が手記を発表するまで、「解読されていたことを証明」することは誰にもできなかったのである。それどころか、この時期まで幾つかの国でエニグマ暗号は使われ続けていたほどである。
ヒトラーの指示によるこの海空共同作戦は、ビスマルクを餌にした、大規模な実験でもあった。その結果が出るときは、刻々と近づきつつあった。
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イギリス本国艦隊司令部の一室に集まっているのは、ウルトラ情報(エニグマ暗号の解読結果)を参照することを許された、一握りの海軍高官たちであった。部屋の外には海軍少佐がふたり歩哨に立っており、先ほども身分証を忘れた中将がひとり追い返されたところであった。
机上には、大西洋から北海にかけての地図が広げられていた。地図に書き込まれているのは、ウルトラ情報から得られた、現在のUボート配置(予定)である。
一群のUボートが、アイルランド西の海域に集結するよう指示されていた。かつてはUボートの豊かな狩猟地であった区域だが、最近はイギリス商船が通ることを避け、従ってUボートの配置数も減っていた。
ここはドイツ艦隊の会同予定地点なのか。ドイツ海軍がアメリカの設定した戦闘禁止境界線ぎりぎりまで進出する野心的な通商破壊作戦を考えているとすれば、その可能性はあった。
実際には、集結命令を受けているUボートの大半は架空の艦であった。ドイツはUボートの総数を隠すため飛び飛びの艦番号をつけていたし、ときには艦番号を変更することすらあったから、イギリス軍がこれを見破ることはできなかった。
新たなウルトラ情報がもたらされた。宛先には問題の区域に向かっているすべてのUボートが挙げられており、解読文が回し読みされるにつれて高官たちがあわただしく言葉を交わしはじめた。
文面にはこうあった。友軍の大型艦艇が近くの海面にいる。味方を撃たないよう十分に確認してから攻撃すること。
地図には空白地帯もあった。アイルランドとアイスランドの中間には、いつもならUボートがいくらかいるのだが、今日に限って1隻もいなかった。たぶんローテーションの谷間で、本国から急派されてくるところなのだろう。何隻かはこの海域に向かっているように見えたが、まだしばらく到着する位置にはいなかった。
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ぷしゅうっ。短い音と共に、古めかしい複葉機はグラーフ・ツェッペリンの艦首カタパルトから放たれた。どこかよたよたとした低速のFi167偵察・爆撃機である。
実のところ、グラーフ・ツェッペリンは未完成であった。飛行甲板は艦尾1/3ほどが張れておらず、鉄板で仮に覆ってあるが、その部分は飛行機の重みには耐えられない。3基のエレベータのうち完成しているのは艦首方向の第1エレベータだけで、第2エレベータはふさがれてしまっており、第3エレベータ予定地はぽっかりと空いている。
当面の問題は、飛行甲板が短くなってしまったことであった。これでは予定していたMe109T戦闘機は着陸速度が速すぎて危険である。かえって偵察機兼爆撃機兼雷撃機のFi167は旧式なデザインが幸いして、何の問題もなく離着陸できる。といってもいったんグラーフ・ツェッペリンが建造を中断したのがたたって、先行生産型12機しか急場の間に合わなかった。
ガーランド中佐はグラーフ・ツェッペリンの艦橋で、むっつりとFi167の後ろ姿を見送った。
彼はドイツ空軍ではメルダースに次ぐ第2位のエースで、名うての暴れん坊である。前年の夏、苦しい戦いを続けるドイツ戦闘機隊を督戦に来たゲーリング国家元帥に、何か欲しいものはないか、と聞かれて「(イギリスの)スピットファイア戦闘機を1個中隊」と答えたのはあまりにも有名である。ドイツ軍機の被害が多いのを戦闘機隊の不甲斐なさのせいにするゲーリングにガーランドは腹を立てたのであった。そのガーランドもまだ30才前ながら、ドイツ空軍という若い組織ではそろそろ指導者としての役割を期待されていた。彼は空軍所属のまま、ビスマルク、プリンツ・オイゲンとグラーフ・ツェッペリンの航空隊を総合的に指揮することになっていた。
偵察機は何とでもなる。問題は戦闘機であった。その戦闘機が…
思ってもせん無いことであったが、ガーランドは直衛機の飛ぶ上空を見上げた。見上げずにはいられなかった。複葉のAr197戦闘機が2機、のほほんと飛んでいる。現在の主力戦闘機Me109の前の世代の戦闘機を艦載機にしたもので、グラーフ・ツェッペリンが就役するというので急遽尻を叩いて、6機を納入させるのがやっとであった。
この6機が失われれば、その時は…
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「U001からU007までいるみたいですね」
U1963の通信長は傍受通信の内容を艦長に報告した。
「ご丁寧なことだ」
通信員が新たな紙片を通信長に渡した。
「U001のウルリヒ・ナイジェル少尉の夫人は、けさ銃剣を携帯した未来の水兵を出産した」
この種の情報が本国から、作戦中の潜水艦の乗組員に送られることはよくあった。通信長はまた、ふふんと笑って艦長に紙片を渡した。
「おれの従兄弟だ。実在するんだ、このU001ってやつは」
艦長はうめいた。
イギリス軍のマークを完全に外れたUボートが7隻、大西洋のどこかを遊弋している。その位置こそ、レーダーとデーニッツが設定したイギリスとの決戦場であるはずだった。
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「多数の友軍機のほかには、何も発見できん」
「また被雷輸送船からの漂流ボートを見つけた。救難飛行艇の出動を要請する…ああ、出動は必要ない。向こうを飛んでいるのが見える」
「ところでこれは訓練なのか?」
「人類の歴史の中で、かくも狭い海面に、かくも多数の哨戒機が…」
バウンド大将はむっつりと電文の束を読んでいた。ドイツ艦隊の会同地点と目された、アイルランド西方海域の哨戒機からの報告である。集中的な捜索にもかかわらず、ドイツ艦は影も見えない。優速で出港地点からも近いシャルンホルストとグナイゼナウは、そろそろ見つかってもいいころなのだが。ともあれ、会同前にビスマルクを各個撃破する必要がある。
イギリス艦隊は優勢とはいえ、旧式艦は一般に鈍足なため、こうした状況下でドイツ艦の追跡に使える戦艦は多くはなかった。バウンドはキング・ジョージ5世、プリンス・オブ・ウェールズ、ロドネイから成る戦艦部隊に空母アーク・ロイヤルをつけ、スコットランド北方の海域まで進出させ、発見の報に備えさせることにした。
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コルベット艦「ラフレシア」は楽しいラム酒配給の時間を迎えていた。規格品のカップが全員に行き渡る。すぐ飲むものもいるし、先日の借りを返すために他人に渡すもの、自分のボトルにため込むものもいる。ちなみに「すぐ飲む」以外の処置は規則違反である。あ、いや、「すぐ飲む」場合も水で割ることになっていたが誰も守らないので、全員が何らかの規則違反をしている。
コルベット艦には、戦前からの職業軍人はほとんど乗っていない-海軍にはそんな人事上の余裕はない。民間から志願して士官としての短期訓練を受けた人々が士官の多くを占め、水兵はほとんどが応召兵であった。中には海に通じた漁師もいたが、その人々も武装のことは何一つ知らない。わずかに乗り組んだ職業軍人の若年兵が、機器操作の要所を固めている。
だからコルベット艦は他の軍艦に比べて、和気あいあいとしていた。社会人経験の長い大人が多かったせいもあり、組織が小さかったせいもある。戦闘に直接関係しない規律も、緩められたり無視されたりしていた。
しかし最大の理由は、協力と団結が、このちっぽけな艦が大西洋で生き残るために不可欠であることを、全員が知っていたことであったろう。ラム酒の配給タイムは、だから陽気な社交タイムであった。
皆が陽気になる理由はもうひとつあった。旧式とはいえ、戦艦マラヤが輸送船団の護衛についてくれている。駆逐艦も数隻伴っていたから対潜防御も普段より格段に強化されている。何より、戦艦の黒々とした艦橋の盛り上がりが視界にあると、強大な海軍の一員であるという誇りと自信がわいてくるのであった。
「ドイツ艦が接近している。バトルステーション、バトルステーション(総員戦闘配置)」
真剣だが冷静な艦内放送が、その雰囲気を破った。水兵たちはカップを投げ捨て、あるいは飲み干し、テーブルを急いで壁に固定した。そして吹きさらしの舷側通路を通って、艦内の持ち場に散って行った。
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戦艦マラヤには、一種の油断があった。シャルンホルストとグナイゼナウが大西洋へ出てくるとき、マラヤの護衛する輸送船団と出会ったのだが、このときドイツ艦は戦闘を避け、船団を見逃している。万一大西洋上で損傷を受ければ、艦の放棄に至るからである。今度もそうなるだろう、と言う予断があった。マラヤは38センチ砲連装4基を持ち、日本の扶桑型や伊勢型と同等の攻撃力を持つ。
ところが両艦はまっすぐに距離を詰めてくる。マラヤの方が主砲の口径では優っているが、断固として距離を詰められると、その優位は小さくなる。あわててマラヤは船団を離れ反撃のために回頭し、船団は解散して輸送船は逃げ散ったが、このとき貴重な時間が失われた。
これで荷が軽くなった、と考えてしまうのは水雷屋の業というものだろう。駆逐艦は必殺の魚雷を放とうと、ドイツ戦艦に猛進する。シャルンホルストとグナイゼナウの両舷各6門の15センチ副砲は懸命に駆逐艦を狙うが、高速の駆逐艦にはなかなか命中しない。
コルベット艦には魚雷発射管はない。魚雷攻撃に参加できるのは、4隻の駆逐艦だけである。その1隻が艦首に直撃弾を食らい、速度を落とす。追うも煉獄、逃げるも地獄。
シャルンホルストとグナイゼナウは連絡を取り合い交互に斉射を行って、弾着観測に万全を期している。先に命中弾を出したのは、シャルンホルストであった。舷側に命中した2発の28センチ砲弾は数基の副砲塔を死の爆炎で包み、残り4発の至近弾が不吉な水しぶきをマラヤに浴びせる。やがて露になったマラヤの側面には黒々とした破孔が残るのみである。
マラヤの主砲も反撃した。シャルンホルストが後部砲塔を使おうと艦首を振った、その舷側への命中である。ああしかし、最大35センチを誇るシャルンホルストの舷側装甲は、その衝撃のほとんどを吸収し、いささかの速度も奪われない。破片が飛び散ったために、いくつかの高角砲砲塔に悲劇が起こったが、まだドイツ水兵たちは冷静さを失っていない。
口径では劣っていても、マラヤの前方にある主砲は4門なのに対して、シャルンホルストととグナイゼナウはそれぞれ6門の主砲を向けられる。(主砲配置は大和型と同じで、前に3連装2基、後ろに3連装1基)距離が縮まると共に、マラヤは押され気味になっていた。
逃げ去りつつも、コルベット艦の乗組員の心はマラヤにある。立ち去りかねて視界内にとどまっている艦も多かった。
距離が縮まった結果、勝敗の行方は、3隻となった駆逐艦の雷撃結果にかかってきた。
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雷撃は目標のシルエットを最大にする意味で、真横から行うのが理想的である。その射点を得るべく、3隻のイギリス駆逐艦はドイツ艦を大回りする。それは副砲や高角砲の斉射を浴びるということでもある。そう。諸事動きの鈍い戦艦の主砲では、最大戦速で疾走する駆逐艦への命中弾は望めないのだ。
まず1隻が射点に達し、魚雷発射管を自分の進行方向とほぼ直角、シャルンホルストのほうに向けた。速度を落としたことで俄然至近弾が増えるのを物ともせず、わずかな間隔で、8本の魚雷が放たれる。シャルンホルストは回避のため大きな白波を立てて回頭する。マラヤの送り込む弾幕が水柱を立て、敵味方の視界を遮る。
回避できそうである。しかしこの機動で航路変更の自由を奪われたシャルンホルストに残る駆逐艦は肉薄する。そのコースはグナイゼナウとの反航戦のコースでもある。90度近く回頭したシャルンホルストの横腹を狙うと、グナイゼナウに正面から突進することになる。
グナイゼナウはこの鋼鉄のチキンゲームを受けた。わずかにコースを変えて、駆逐艦と正面衝突も辞さないコースを取る。駆逐艦は36ノット、グナイゼナウは32ノット。中途半端に離れればグナイゼナウが雷撃される。その必死の射撃に、駆逐艦の第1砲塔が被弾して炎上する。駆逐艦長は果敢にも雷撃を諦めない。回頭だ! いくら近くても相対速度68ノットでは照準はできない。目標はシャルンホルスト。回頭の瞬間、撃って逃げるしかない。
発射命令が下ったその瞬間、前部発射管が被弾した。4発の魚雷の誘爆は駆逐艦を数メートル跳ね上げ、折り取った。艦首部分は高く跳ね上がった挙げ句、逆になって落下した。
最後の1隻は、理想的な射点にいた。いまや必殺の魚雷がシャルンホルスト目掛けて放たれようとしている。
運命は頭上からやってきた。ドイツのJu88爆撃機が、おそろしく巨大な爆弾を抱えて駆逐艦に襲いかかってきた。斜め上から急降下してきた爆撃機は、爆弾を放った。それは狙い過たず不運にも艦橋に命中し…
ごろんごろんとうつろな音を立てて、大西洋に滑り落ちていった。
ドイツ艦の上空直衛についていたJu88C双発戦闘機が、シャルンホルストのピンチを見かねて、900リットル入りの巨大な増加燃料タンクを使って駆逐艦を妨害したのである。この効果はてき面で、シャルンホルストは最も危険な位置から抜け出してしまっていた。駆逐艦は万一の幸運を願って魚雷を放ったがシャルンホルストに回避され、万事は休した。
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マラヤの最後の主砲塔はいま沈黙した。3基の砲塔は不自然に傾ぎ、もう1基は弾薬庫が誘爆した爆風を下から受けて海中に滑り落ち、ぽっかりと縦穴が残っていた。マラヤの艦上は様々な残骸で満たされている。シャルンホルストの主砲塔がひとつ、ひどく損傷して射撃不能になっているのが、マラヤの最後の一矢の結果であった。
マラヤはまだ降伏の意思を示していなかった。戦艦は砲撃だけではなかなか沈まない。沈むまでにはまだ時間があるし、その間に輸送船が逃げることも、主力艦隊が追いつくことも出来るはずであった。ところがドイツ艦隊は、マラヤをそのままにして遠ざかろうとしていた。
両艦は輸送船を日没まで追い散らすと、海域から姿を消した。イギリスは日没までは両艦と触接を保っていたが、この時期にはまだ航空機搭載用の対水上レーダーを持っていなかったので、逃走を許すことになってしまった。
この様子を軍令部で見守っていた若い参謀が、首をかしげていた。シャルンホルストとグナイゼナウはどうも先を急いでいる。軍令部が想定している会同海域に向かっているとしたら、被弾のリスクを避けてマラヤを放置してもよかったし、逆に止めを刺してもよかった。実際、マラヤが撃破されたことだけで、大西洋輸送船団の士気に与える影響は計り知れなかったが、撃沈となれば事態はさらに深刻で取り返しのつかないものとなろう。
参謀に閃くものがあった。もしや?
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「ドイツはウルトラ情報に気づいているのです」
参謀はバウンド大将に力説した。
「我々が想定している会同地域は、おとりです」
参謀は作戦図に書き入れられた、シャルンホルストとグナイゼナウのコースを指でなぞった。
「シャルンホルストとグナイゼナウはこの海域に向かってもいませんし、この海域から出てきてもいません。さらに考えなければならないことは、彼らの行動です」
参謀はたたみかけた。
「もし彼らが長期的に洋上にとどまるのであれば、マラヤとの交戦を避けるべきでした。彼らの方が優速だったのですから、彼らはそれを選べました」
「単に優勢を確信したのかもしれん。イギリスの軍艦が同じ状況になれば、戦いを避けるということはあるまい。以前の場合とは違って、損傷を受けてもすぐ近くのフランスへ戻ればよいのだからな」
バウンドは指摘した。
「優勢と判断しただけであれば、マラヤの撃沈に至るまで戦わなかった理由が分かりません。シャルンホルストは主砲を損傷するという犠牲を払っています。彼らは優勢を確信してもいましたが、先を急いでもいたのです」
「話を戻すようだが、先を急ぐのなら、なぜマラヤを回避しない」
「彼らは、より強大な戦力に守ってもらえる見込みがあるからです。シャルンホルスト級の特長は前方兵装の強力さにあります。前方の敵とのみ戦い、舵や機関を破壊されることを避ければ、今回の遭遇は彼らにとって良い取引の機会であったわけです」
参謀は、地図上の北海方面に置かれたままの、ビスマルクのマーカーを手に取った。
「しかしそれでは、ビスマルクの行動が制約されてしまうではないか」
「我々はビスマルクが通商破壊に出動してくるという前提に立っていました。しかしそうではないのです」
参謀は主張した。
「ビスマルクは、シャルンホルストとグナイゼナウを、迎えに来るのです」
バウンドが口を半開きにしたままこわばった。
「とすれば、会同地点は」
参謀は、アイスランドとブリテン島の中間の、例の空白地域を示した。
「ここです…これは?」
イギリス艦船を示すマーカーが、作戦地図のその地域に乗っていた。
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U001の目の前を、旧式戦艦ラミリーズを含む艦隊に厳重に護衛された輸送船団が、イギリスに向けて通過していった。輸送船も良いが、護衛についている戦艦がこれまたよだれが出るような獲物である。
U001には厳密な位置の秘匿が求められていた。無線封止はもちろん、攻撃はある日時になるか、別の名前のUボートに宛てた長波通信で解禁されるまで禁止されていた。
例外は、戦艦または空母を奇襲するチャンスに恵まれた場合であった。戦艦といっても少々小ぶりだが、艦長は狩りのチャンスを逃す気はなかった。
「発射」
U001は急速潜航した。聴音係がささやく。
「複数の爆発音」
乗組員たちは笑顔で肯きあう。だが歯がゆいことに、U001はこれから生き残ることに専念しなければならない。戦果を確認することは出来ないのである。
U001はこの戦闘を切り抜けたが、戦果を問い合わせる機会はついに得られなかった。この海域を離れたU001はそのまま次の狩猟に参加し、帰らなかったのである。
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イギリス海軍はマラヤを自沈させることに決定した。マラヤはUボートとドイツ攻撃機の目標になることが明らかであり、限られた戦力をかかりきりにさせるよりも、分散した輸送船の保護を優先することにしたのである。
ラミリーズは魚雷3発をを受けていたが、皮肉なことに、輸送船と同程度の速度なら航行可能であったから、船団にとどまった。
イギリス艦隊は新たに想定された会同地点に向かっていた。シャルンホルスト・グナイゼナウとの合流前に、ビスマルクを迎撃するためである。
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「ソナー、感。左舷45度」
イギリス艦隊の前衛をつとめる駆逐艦長はうんざりと報告を聞いていた。これで何度目だろうか。
「旗艦に報告しろ」
短く指示すると、艦長はまた前方の海を見詰めた。
艦隊駆逐艦にもソナーはあり、要員も乗り組んでいた。しかし彼らは実戦経験という点ではコルベット艦の同僚たちに及ばなかった。その報告を受ける指揮官も、情報を評価する訓練を受けていなかった。艦隊駆逐艦は大型艦を雷撃するためにあり、そのためにこそ温存されてきていたからである。
今回は誤報ではなかった。U002は発見され、制圧された。艦隊司令部は防潜態勢の問題点を良く知っていたから、たまたま負傷が癒えて待命中のコルベット艦長と技術者を軽巡洋艦に乗り組ませ、防潜指揮艦としていた。ここで情報は評価され、輪形陣に加わっていない駆逐艦が派遣された。彼らは少なくとも1時間は制圧を続けるよう命じられた。これは艦隊からの脱落を意味したから、戦力をそがれる水雷戦隊指揮官は抗議したが、防潜指揮艦は取り合わなかった。今は第1次大戦ではなく、駆逐艦の任務は多様化しているのだ。
U002は動きを封じられたが、沈没はしなかった。このころイギリスはUボートの潜航可能深度を低く見積もっていて、浅い深度で爆発するよう爆雷を調定していた。U002はしかしこの後幸運に恵まれず、この一連の戦闘の間、有望な目標に巡り合えなかった。
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大西洋の輸送船団は高速船団と低速船団の2種類に整理されていて、極端に遅い船は高速船団からは外されていたが、それでも船団が10ノット以上で航行できることは珍しかった。Uボートは潜航していると7ノット程度しか出せなかったが、夜間にうまく水上航行で遅れを取り戻せば、しばらく船団を追尾することが出来た。
U003は戦艦ラミリーズを含む輸送船団を追尾していた。特にU003の艦長に公共心があるわけではなくて、被雷してから警戒が厳重になって、なかなか有利な発射位置が得られなかったのである。
1機のFi167が、イギリス主力艦隊の哨戒線に触れた。先行するコースを取っていたハドソン哨戒機と出くわしたのである。その任務上、軽快とは言えないハドソン哨戒機も攻撃的であった。鈍足な複葉機のFi167は懸命に攻撃をかわす。しかし及ばず、艦隊に警報を発すると、白煙を引いて北海に落ちていった。
「来た!」
ビスマルクに座乗するドイツ高海艦隊司令長官・リュチェンス中将は、はるかかなたにイギリス艦隊の艦影を認めた。キングジョージ5世級が2隻、ネルソン級が1隻。グラーフ・ツェッペリンは、ある事情で17ノット以上出せないこともあって、はるか後方を走っている。
「3対1か」
もちろんリュチェンスは戦艦以外は数に入れていない。
「あとはガーランドのお手並み拝見だな」
ちょうどグラーフ・ツェッペリンからの攻撃隊が、頭上を飛び過ぎるところであった。
ガーランドは一種の賭博に手を染め、成功した。攻撃機隊にイギリス艦隊を探させる代わりに、自分たちの艦隊を追わせたのである。ドイツ艦隊が無事に帰って来れば、戦果がなくても上上の首尾、という考え方であった。アークロイヤルは今あわててエレベータで攻撃機を上げている始末で、航空機による先制権はドイツが握れたようであった。
ただその戦力たるや、情けないほどに少なかった。偵察のために4機を使ってしまったために、Fi167攻撃機がわずかに8機である。イギリスに戦闘機がいないのを見て、4機のAr197戦闘機はビスマルクの頭上にとどまる。
複葉のFi167は、イギリス対空砲火の良いカモであった。相次いで3機がイギリスの機銃火を浴びて砕け散る。2機がパニックに陥り、命令を待たずに魚雷を放つ。しかしこれを回避したロドネイの回頭が、次の魚雷の狙いを容易にした。
3機が一斉に魚雷を放つ。1発は艦尾方向にそれたが、2発が艦尾近くに命中し、ロドネイの速度を落とす。
ドイツの航空機が先制に成功したとしても、イギリスは自分だけの攻撃の手番をまだ持っていた。水雷戦隊である。
2隻の軽巡洋艦とともに、復仇の念に燃えた10隻の駆逐艦がエンジン出力を最大に上げて、ビスマルクに殺到しようとしていた。ビスマルクの副砲とプリンツ・オイゲンの主砲が次々に火を噴くが、とても全部を撃擾することなどできそうにない。
ビスマルクの上空を警戒していた2機のJu88Cと4機のAr197は、判断良く駆逐艦への妨害攻撃に出た。Ar197は7.7ミリ機銃わずかに2丁の軽装備だからいやがらせ以上の効果は期待できないが、ビスマルクへの到達を遅らせれば、それだけ副砲かプリンツ・オイゲンの砲火に捕捉される確率は高くなる。
先に砲火を開いたのはイギリスであった。ロドネイの40センチ砲がビスマルクの行く手に水柱を立てる。ビスマルクも初弾を放つ。近い! 先頭のキングジョージ5世に水しぶきがかからんばかりである。ビスマルクの乗員の練度はかなり高かった。
イギリスを飛び立ったボーフォート雷撃機隊が到着して、ますます戦場は混戦の度を増した。ボーフォートは操縦席から後部銃座までが胴体からそそり立つように高く、どこかロンドンの二階建てバスを思わせる。しかし昨年来戦闘機の生産を最優先してきたこともあって、イギリス本土全体での配備機数は40機に満たない。これらの部隊は人知れず、ノルウェーから鉄鉱石を乗せてドイツに向かう輸送船団を攻撃して、自らも損害を被っていたのである。情けないことに、Ar197はこれらの雷撃機に追いつけない。Ju88Cがあわてて本来の任務に戻るが、所詮2機では14機の攻撃隊に対処しきれない。
片舷8門の105ミリ高射砲と、無数の機銃が雷撃機を迎え撃つ。火を噴くもの、遠くで魚雷を放してしまうもの。ビスマルクは大きく転舵する。次々に魚雷が放たれる。
ビスマルクは揺れた。ついに魚雷2発を浴びたのだ。しかし次の瞬間、ビスマルクの斉射はロドネイを押し包む。ロドネイの2番・3番砲塔は直撃を浴びて沈黙する。1番砲塔の弾薬庫にも火が迫り、要員が脱出する。
ドイツ機の執拗な妨害に手を焼いていたイギリス水雷戦隊だが、軽巡洋艦バーミンガムとシェフィールドが活路を開いた。これらは日本の最上型に対抗すべく15センチ砲12門を積んでいるため、20センチ砲8門のプリンツ・オイゲンを圧倒することができた。プリンツ・オイゲン自身の対空砲火を避けるため、ドイツ機は近づけなかったから、かえって死角になったのである。プリンツ・オイゲンがまず魚雷4本を至近から受け、機関停止に追い込まれた。イギリス駆逐艦がビスマルクに向け必殺の魚雷を放つ。懸命の回避にも関わらず、また2本が命中する。
勝ち誇ったように接近する2隻のイギリス戦艦。ビスマルクは見かけ上は悠然と、正確な砲撃を浴びせる。至近弾が艦首を挟むように落ち、キングジョージ5世の第1砲塔を水煙に包む。答えるように放たれた砲弾は、ついにビスマルクの舷側を捉え、高角砲が基部から折れて横倒しになる。連装副砲塔がひとつ、真上に直撃を浴びて火柱を上げ、揚弾筒の上部を折り取られて、北海へ落ちて行く。
グラーフ・ツェッペリンの艦橋で、ガーランドはむっつりと腕を組んでいた。切り札を投入すべき時期だろうか?
ガーランドは、リュチェンス中将ら海軍の主な指揮官と共に、今回の作戦前にヒトラーから直接指示を受けていた。
「水上艦同士の収支は、五分と五分で良い。いくつかの船団を分散させれば、Uボートと攻撃機が黒字を稼ぐことができる。積極的に戦闘せよ」
海軍総司令官・レーダー元帥の怒りを抑えた表情がガーランドの脳裏に焼き付いていた。
「想定される戦場では、イギリス軍の航空優勢は動かしがたい。君と空母航空部隊の任務は決定的な損失を避けることである」
ヒトラーはガーランドに言った。
「決定的な損失とは、何でありますか」
リュチェンス中将は食って掛かった。
「砲塔をすべて失うことになっても、帰ってこい。決定的な損失とは、艦と共に将兵を失うことである」
ヒトラーの静かな口調に、リュチェンスは目を伏せた。
ガーランドは回想を振り払って心を決めた。
「私が出る」
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決定的な爆発は、プリンツ・オイゲンが半分ほどの搭載ボートを下ろしたところで起こった。全体に姿勢の低い重厚なデザインのプリンツ・オイゲンは、中ほどでその艦体を折り、急激に傾斜を深めていった。黒煙をぬうようにイギリスのボーフォート雷撃機、そしてドイツのAr197戦闘機が乱舞する。
すでに至近弾や命中弾を浴びて、小型砲塔のいくつかが沈黙していたが、ビスマルクは後退しようとしない。ヒトラーの命令を守って、プリンツ・オイゲンの脱出者たちを見捨てずに抵抗しようというのだ。いや、リュチェンスはヒトラーに対してやや意地になっていた。ヒトラーはかねてからデーニッツ少将をひいきにして、水上艦隊に冷たいというのがもっぱらの評判だった。きっと大型艦など沈んでもいいと思っているのだ。
やはり大小の手傷を負いながらも、勝ち誇った2隻のイギリス戦艦は、より確実に致命的な打撃を与えるべく、ビスマルクに接近してくる。防御力では勝るビスマルクも、砲数2倍とあっては決定的に不利である。
そのとき、プリンス・オブ・ウェールズの観測員は、左舷からするすると近づいてくる4本の雷跡を認めた。懸命に舵を切るプリンス・オブ・ウェールズ。しかしそのうち2本が、艦尾近くに命中してスクリューを破損させた。折角ビスマルクに迫っていた水雷戦隊は、すっかりおろそかにしていた対潜戦闘のため、慌てて離れていく。息を吹き返したビスマルクの副砲はついに軽巡洋艦バーミンガムの中央構造物を直撃し、戦闘力を奪う。
「急速潜航」
U004の艦内では、非番の乗組員がどやどやと前部発射管室に駆け込み、艦の前傾姿勢をせいいっぱい深める。U004はそのまま、そそくさと待ち伏せ位置を離れ、爆雷攻撃をかわして逃げおおせた。
ビスマルクの第1砲塔がついに被弾し、沈黙する。イギリスの圧勝かと思われた、その時である。
来た。
ついに来た。
シャルンホルストとグナイゼナウがやってきた。
イギリス軍の不吉な予感を増幅するように、ロドネイは最後の大爆発を起こし、総員退避が命ぜられた。
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輸送船団では、ラミリーズに随伴してきた駆逐隊をビスマルク追撃に加わらせよとの命令が下っていた。隊形が組みかえられる短時間の乱れを、U003は突いた。
雷跡はそこに見える。見えるのだがラミリーズは低速で航行しているために舵の利きが遅い。
結局駆逐隊は出発できなかった。沈没したラミリーズの生存者を収容することで、戦闘区画まで人があふれてしまったからである。
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「まだ砲力は我が方に有利です。迷うことはありません」
「しかし戦艦がこれ以上の損害を受ければ、イギリス本土の防衛は危機に瀕するぞ」
議論する部下をちらちら見ながら、トーベイ大将は迷っていた。そのとき、ちょうど連絡が入ってきた。
「潜望鏡らしきものを駆逐艦が視認しました。いま攻撃に向かっています」
U005は、イギリス艦隊に苦労して触接したとたんに見つかってしまった。このころになると損失と急拡大により、Uボートは経験の浅い乗組員、特に経験の浅い艦長を迎え入れるほかなくなっていた。U005はそうした艦長が指揮していたので、戦果を焦って大胆すぎる行動をとったのである。
U005はほどなく、その短い哨戒行動を終えた。
「この戦域はUボートでいっぱいだ。撤退の許可を求めよう」
トーベイは自分に言い聞かせた。艦橋は静まり、砲声がうつろに響く。すでにロドネイ、マラヤ、ラミリーズを失い、プリンス・オブ・ウェールズも数ヶ月のドック入りが必至である。ドイツにはまだ、完成直後で慣熟訓練中とはいえ、ビスマルク級2番艦ティルビッツがいた。ここでキングジョージ5世を雷撃のリスクにさらし続けるわけには行かなかった。
「後は…」
トーベイは空を見上げた。
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シャルンホルストは浸水が始まっていた。マラヤとの砲戦による被弾が、初夏とは言え極北の海を航行するうちに、艦体に亀裂を生じさせたのである。ビスマルクの損傷も重い。ノルウェーのナルビクかトロンヘイムを目指し、重苦しい逃避行が始まった。艦隊の将兵にはまだ勝利感を味わうゆとりはなく、緊張から来る疲労はつのるばかりだった。もし被弾した2隻のうち1隻が沈没すれば、曲がりなりにもスコアは3対2の僅差となり、元々の兵力差から言ってイギリスの戦略的勝利とすら言える。もし両方を喪失するようなことがあれば…
Fi167の特殊な構造によって、グラーフ・ツェッペリンの艦載機はすでに実質的に3、4機にまで落ち込んでいた。
Fi167は固定脚であるが、空戦時には脚を落下させられるようになっていた。パイロットは機ごと着水するか空中でパラシュート降下し、機体を捨てる。もちろん敵を見てから脚を落とすのだが、すでに多くの機体が空戦に及んで着水していた。
空母アーク・ロイヤルを発進した、ソードフィッシュ雷撃機の群れの接近を観測員が告げたのは、その時であった。
「ドイツの戦闘機は複葉だそうだ。条件は五分だぞ」
ソードフィッシュ隊の無線に、隊長の励ましとも冗談ともつかない言葉が乗せられる。ソードフィッシュは複葉布張りという旧式極まりない雷撃機であったが、イギリスはこの機体をうまく使いこなしていた。だが、彼らにその天敵が襲い掛かろうとしていた。
「隊長、前方に…」
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ドイツのMe109T戦闘機は、次々にカタパルトを発進していた。もちろん着艦はできない。ドイツ艦隊が危機を脱するまで飛んで、あとは脱出するしかない。
そして、真打ちが登場する。ガーランドの機体にはキルマークこそ描かれていなかったが、黄色いノーズコーンはガーランドが愛してやまない第26戦闘航空団の識別用塗装である。他のパイロットたちもJG26から借り受けてきたものであった。
「久しぶりに、飛ぶ口実ができた」
ガーランドはつぶやくと、機上無線のスイッチを入れた。
「中佐、カタパルト発進のご経験はおありですか」
「これからテストするところだ」
無線機から笑い声が漏れた。
「ご幸運を祈ります、中佐」
エンジンが回転数を上げると、ぶうんと加速度がかかった。
イギリス側の護衛についているフルマー戦闘機は、武装こそ7.7ミリ機銃8丁と侮れないが、最高速度はAr197とほぼ同じ時速約400キロで、たちまちMe109に蹴散らされてしまった。Ar197はMe109と交代して着艦し、次の出撃に備えている。
しかしソードフィッシュは布張りのため、Me109のせっかくの20ミリ砲は布地に大穴を開けつつ貫通してしまって効果が半減する。意外にソードフィッシュは落ちなかった。
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最も対空能力の弱くなったシャルンホルストを両脇から抱えるように、グナイゼナウとビスマルクが並走し、脇からの雷撃を警戒している。
ここまで低速だと対空砲火もよく当たる。魚雷を投弾できるまでに、ガーランド隊の戦果とあわせ半数の雷撃機が失われていた。ほとんどは遠くで魚雷を放す羽目になり、命中が得られない。
しかしついに、1本の魚雷がビスマルクの後部に命中した。
第3砲塔の弾薬庫が浸水し、撃てなくなった。そのこと自体はこの状況ではたいした問題ではないが、艦全体としての注水量はもはや限界に来ていた。上甲板は海面と擦れ合わんばかりである。かろうじて20ノットにも満たない速力ながら自力航行できているのが幸運なほどであった。もはや回避行動も困難であろう。
ほどなく、Me109の1機から敵機の来襲が告げられた。
40機はいる。ガーランドはぞっとした。ボーフォート雷撃機とボーファイター双発戦闘機がおおよそ半々か。こちらは敵を選べる立場とは言え、限られた接敵時間では撃退しきれない。
ボーファイター双発戦闘機はドイツのMe110と同様に、正面に20ミリ砲4門を持っている。この機体はいわゆる一撃離脱戦法に向いていて、自分より軽快な相手には分が悪い。
イギリス戦闘機隊は勇敢に立ち向かってきた。彼らはすでに、ビスマルクを守っているのが彼らの天敵であることを知っていて、それでも雷撃機のために時間を稼ごうというのである。
戦闘機と対空砲火でも防ぎきれないと見て、シャルンホルストとグナイゼナウは最大戦速で走り始めた。自然と、ビスマルクが取り残される。
ビスマルクの高角砲はもう半分も残っていなかった。それらが懸命に雷撃機を追い払おうとする。1機が四散し、破片を受けたもう1機がやはり墜落する。
相前後して、13本の魚雷が3隻に放たれる。各艦は懸命の回避行動に移る。グナイゼナウは軽々と、シャルンホルストはようやく、魚雷の回避に成功する。しかし、ビスマルクは速度が落ちており、最も多くの魚雷を引き付けてしまっていた。
3本の命中魚雷を受け、ビスマルクの傾きはさらに大きくなる。ついにリュチェンス中将は、艦の放棄を艦長に命じた。
ビスマルクは、プリンツ・オイゲンの乗員も多く収容している。これだけの人員を収容できるのはグラーフ・ツェッペリンしかなかった。グラーフ・ツェッペリンはビスマルクに接近してしばらく停止したあと、他の2艦と共に全速力でノルウェーを目指すことになっていた。
「リュチェンス中将」
ビスマルク艦長のリンデマン大佐は、大きな封筒をリュチェンスに示した。
「私は、艦を放棄する場合にのみ開封すべき封緘命令を受けております」
リュチェンスの与かり知らぬことであった。
「開けたまえ」
リュチェンスは冷ややかに言った。
中から出てきたのは、1枚のタイプ用紙と、大判の写真であった。
「同封の写真を舵輪に張り付け、司令部および艦の責任者は必ず脱出のこと、とあります。総統が最高司令官としての資格で発行された命令で、レーダー元帥の副署があります」
リンデマンが読み上げた命令を聞いて、リュチェンスは写真を取り上げた。手のひらを見せるような独特の敬礼をしている、ヒトラーの肖像写真であった。
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グラーフ・ツェッペリンの艦上ではドイツ国歌が演奏され、集まれる限りの人間が飛行甲板と格納庫の舷側に集まった。
涙でくしゃくしゃの顔もあった。消耗し尽くした顔も合った。能面のように無表情な顔もあった。しかしそれらの顔が見つめているのは-他の頭に邪魔されていなければ、だが-同じだった。傾きかかった太陽を浴びて、いまビスマルクの艦橋は水面下に没しつつあった。
特等席とは言えなかったが、舷側の窓からはイギリス海軍の捕虜も同じ光景を見ていた。ビスマルクに肉薄して撃沈された駆逐艦の乗組員で、幸運にも甲板など逃げやすいところにいた人々である。彼らにとって喜ばしい情景には違いなかったが、その荘厳さには言葉を奪う何物かがあった。
「状況は見ての通りだ、アベヴィル・キンダー諸君」
グラーフ・ツェッペリン艦長・ケーラー大佐は、直ちに脱出して収容を受けるようパイロットたちに告げた。グラーフ・ツェッペリンがMe109TとFi167のための収容態勢を取れるのはここが最後になる。
「リュチェンス提督から、直接お話がある」
機内無線の声が変わった。
「リュチェンスだ。君たちのしてくれたことには感謝の言葉もない。君たちの努力にもかかわらずこのような結果を招いてしまったのは、ひとえに私の責任である。いずれゆっくりと語り合う機会を持ちたいと願っている。以上だ」
「戦闘機隊を代表して、提督閣下および海軍将兵の奮闘に敬意を表します。ビスマルクを失った悲しみを、私たちも等しく共有しております」
ガーランドたちはもちろん海軍軍人ではない。
「では、気をつけてな」
ケーラー大佐が締めくくった。ここは北海である。ガーランドはヘルムート・ヴィックの事件を思い起こした。ヴィックはメルダース、ガーランドに次ぐ第3位のエースだったが、昨年の秋に北海で撃墜され、脱出したことが確認されたのに、そのまま行方不明になったのである。北海の水温は、脱出者をそれほど長いこと生かしてくれなかった。
誰もその事に触れなかったが、脱出の前にパイロットたちと提督が直接言葉を交わす機会が設けられたのは、脱出の危険さと無関係ではなかった。
パイロットたちは次々に脱出し、今までのところは全員生きて救助されていた。残るはガーランドである。
「ガーランド中佐、脱出してください。ご幸運を」
まことにそっけない指示が来た。これが最後に聞く人間の声になったとしたら殺風景な話である。ガーランドは風防を開けた。
思い切って飛び出す。このときの思い切りが足りないと垂直尾翼に激突してしまう。射出座席はこの当時、ようやく実用化に近づいたところであった。
パラシュートを開くと、ガーランドは眺めを楽しんだ。海というのも悪くない-時々来るならだが。戦闘機乗りの保養施設はなかなか充実していたが、地中海岸にもうひとつあってもよい。帰ったら如才ないメルダースに相談してみよう、とガーランドは取り止めもなく考えた。
着水した。全身を震えが走る。寒い。これは寒い。かろうじて肩から上が水面に出ている状態だから、視界も思ったよりずっと狭い。
ほんの数分のことだったが、ガーランドは本当に心臓が止まるかと思った。
「中佐!泳いでこられますか」
やれやれ、声がする。ガーランドは程なくゴムボートに引きずり上げられた。ゴムボートの行き着いたところは、なんと浮上したUボートであった。特殊装備を持ったUボートでは決してない。それどころか、これは最新艦をもらった新米艦長の初航海であった。
「お会いできて光栄です」
その新米艦長は握手しながら、ガーランドに毛布を差し出した。
「すぐにグラーフ・ツェッペリンから迎えのボートが来るはずです。あちらのほうが、その、シャワーなども整っております」
すでに救助されたパイロットたちは、風を避けて艦内に入っているらしく、姿が見えなかった。
このUボートは、ノルウェーからずっと水上航行でグラーフ・ツェッペリンに並走してきていた。だからグラーフ・ツェッペリンはその水上最高速度の17ノットしか出せなかったのである。航空機救難艦として適切な小艦艇は他にいくらでもあったが、どれもこれもアイスランド近辺まで行って帰ってくる航続力がなかったのであった。
「これからこの艦はどうするんだ」
ガーランドは尋ねた。
「まっすぐノルウェーまで帰ります。こちらは全力疾走でしたからね。哨戒に出かける燃料の余裕がないんです」
若い艦長は、屈託なく笑った。
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「イギリス戦艦3隻を失わせ、艦隊駆逐艦を多数撃破したのだから、そう悪い取り引きではなかったろう。ビスマルクとプリンツ・オイゲンの乗組員の大半も救出できたし、イギリス側が暗号を解読していることもおおよそ知ることができたのだから」
報告に来たレーダー元帥に対し、ヒトラーは上機嫌で応じた。
「それが何よりの慰めです。実は、総統にお願いがありまして」
レーダーは言いにくそうな顔をした。
「辞職させていただきたいのです」
ヒトラーが無言なのでレーダーは続けた。
「今回の戦いのような、水上、水中、そして空中を巻き込んだ戦闘がこれからの戦闘であるとしたら、私にはそれを適切に指揮する自信がありません」
ヒトラーがやっと口を開いた。
「君との間にはいろいろなことがあったが、私は君と君の部下たちに感謝している。もし私との不和が辞職の主な理由であるなら、もう一度私に話し合いの機会を欲しい」
もちろん半分以上はおっちゃんの知らない話であったが。
「総統からそのようなお言葉を頂けるとは、正直なところ、望外の喜びです。もし可能なら、戦争が始まる前に、そのようなお言葉を伺いたかった」
「すまん」
ヒトラーとしては、それ以外に言いようがない。
「後任者を推薦させていただいてよろしいでしょうか」
「聞こう」
ヒトラーは悪い予感がした。
「カールス大将を推薦いたします(レーダーの自伝によると、ヒトラーはレーダーの辞職申し出を受けて、後任候補をふたり推薦するように依頼しました。レーダーはカールスとデーニッツを挙げ、先輩のカールスを両者のなかで上位としました。)」
やっぱりまた知らない名前が出てきた。レーダーはヒトラーの表情を見て、かばんからごそごそと封筒を取り出して、中身を差し出した。カールス大将の履歴書であった。
「第1次大戦ではデーニッツ少将と同様、潜水艦長でした。最近は地域基地部隊の司令官を歴任しております」
日本海軍で言う鎮守府長官か、とおっちゃんは思った。デーニッツは正直なところ、能力は非凡であったが、総司令官としてはまだ若すぎる。検討してみる価値は有りそうだった。
「正直なところ、君は私がイギリス本土上陸をあきらめていないのに、不満なのではないかね」
「いえ、そのようなことは」
そう答えるレーダーは、作り物の表情をしているように思えた。レーダーは、海軍にとってひどくブラッディな本土上陸だけはやらせたくなかったのである。
「後任問題については、今後継続して協議しよう。その決着がつくまで、君の辞表は保留する。それでよろしいな」
ヒトラーは言った。
「ひとつ、質問してよろしいですか」
「何だね」
「あなたは、本当にヒトラー総統でいらっしゃいますか」
「そんなに私らしくないかね」
ヒトラーは苦笑した。
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U006について語ることは少ない。U006は指定された位置についていたが、そこはたまたま主戦場からも、イギリス戦艦のコースからも外れていたので、U006は何もできなかった。
これもまた、潜水艦戦のひとつの側面であった。
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U007の艦内は興奮に包まれていた。キングジョージ5世級が、2隻連れ立っているところに出くわしたのである。少々護衛は多いが、艦長にいよいよ騎士十字章が授与されるチャンスとなれば、危険は受け入れねばならない。それが艦の総意であった。
通算5万トンの商船を沈めると、艦長には騎士十字章が与えられるというのが基準であった。これに早く達したくて無理な攻撃に踏み切り、艦を危険にさらす艦長は後を絶たなかったが、U007の艦長は違った。彼は避退にも、もちろん攻撃にも非凡な腕を持っていたが、どういうわけか5万トンの手前で足踏みをしていた。
ただ獲物に出会わないのではなくて、どうもこの艦長は撃沈船舶のトン数を少な目に見積もっている節がある。乗員たちはこのことを不思議がっていたが、自分たちが無用の危険にさらされないことに感謝していた。そしていつの日か「親父」に騎士十字章を取らせてやりたいと、皆が思っていたのである。
艦長が手に汗をかいているのを、近くにいた乗員は感じた。いま潜望鏡はイギリス戦艦の姿を正しく捉えている。潜望鏡を覗いていなくても、乗員にはそれがわかっていた。
「発射」
艦長はボタンを押した。
「急速潜航」
慌ただしく潜航のための作業をしながら、乗員たちは水中音に聞き耳を立てていた。10秒、20秒。期待されていた水中音は、ついに聞こえなかった。厳重に物音を避けるべき場合にもかかわらず、舌打ちや小声のうめき、悪罵が広がるのを、誰にも止めることができなかった。
艦長は収納された潜望鏡に寄りかかって、自分が騎士十字章をもらう場面を想像していた。デーニッツとの握手。そして記念写真。故郷の新聞への記事。記者は艦長の略歴を記事に加えようと思い付き、そして…
艦長は汗をぬぐった。
魚雷が外れて良かった。これでもうしばらく、ドイツは彼の一家をそっとしておいてくれるに違いない。
母親が本当はユダヤ人である、彼の一家を。
ヒストリカル・ノート
この話は、1941年5月に起こったと想定しています。この話の下敷きになっている史実について解説しておきます。
前年の秋、ドイツの巡洋戦艦シャルンホルストとグナイゼナウはドイツを出発して、イギリスとアメリカの通商を妨害する作戦に出ました。その後1941年初めに、両艦はフランスの大西洋岸に到着しました。
1941年5月、戦艦ビスマルクと重巡洋艦プリンツ・オイゲンは、ノルウェーから大西洋に向けて通商破壊作戦に出動しました。このときシャルンホルスト・グナイゼナウが呼応して再び出撃する案も検討されましたが、放棄されました。理由は2つあります。まず、イギリスは沿岸航空軍団・爆撃機軍団の航空機に加えて、敷設艦にも協力させ、両艦の泊まっている港の出口を機雷で封鎖していて、すぐには掃海できませんでした。そして決定的なことに、イギリス空軍はシャルンホルストとグナイゼナウの正確な位置を突き止め、爆撃を加えて、数ヶ月の間ドック入りしなければならない損傷を負わせていました。
ビスマルクはイギリス巡洋戦艦フッドを撃沈するなど追手を撃退しつづけましたが、最終的にフランスまでかなり近づいたところで捕捉され、撃沈されました。ビスマルクと途中から別行動をとったプリンツ・オイゲンは無事フランス大西洋岸の港に逃げ込みました。
1942年2月、これら3艦は一斉に港を出て、ドーバー海峡を抜けてドイツへ帰還するコースを取りました。これはイギリス海軍の意表を突いた上にいくつかの幸運に恵まれ、3艦とも無事にドイツの港に入港しました。
もっとも数週間のうちに、グナイゼナウはイギリス空軍の集中的な爆撃を受けて実質的に廃艦に追い込まれ、プリンツ・オイゲンはあらためてノルウェーに向かうところをイギリス潜水艦に雷撃されて大破したので、ドイツは海峡突破の成功をまったく生かすことができませんでした。
この作品では、ドイツがイギリスに戦争努力を集中させた結果、イギリスの空軍力が史実よりやや弱体であると想定しています。また、ゲスト・キャラクターとして、半完成状態のグラーフ・ツェッペリンとガーランド中佐を出してみました。今回動員されたその他の戦力は、ドイツがAr197を史実より3機多く持ち、イギリスが空母アーク・ロイヤルをジブラルタル部隊から本国艦隊に戻していることを除いて、ほぼ史実通りに仕上げてあります。ジブラルタル部隊はマルタ島への補給を護衛するのが重要な任務でしたから、マルタ島失陥後は縮小されるのがむしろ自然でしょう。
実は1941年5月当時、イギリスは空軍のエニグマ暗号を解読していたものの、海軍のエニグマ暗号はまだ解読していなかったことが、比較的最近出版された回想録で明らかになりました。ビスマルクに登場した空軍連絡士官に対して、その父親である空軍高官が空軍のエニグマ暗号で安否を問い合わせたことが、ビスマルクの位置への手がかりを与えることになったのです。ですからこの点で、この話は史実と少し離れています。
イギリスは第二次大戦のころまで、危機のたびに無名であったり傍流であったりする人物が頭角を現し、祖国を救いました。チャーチル首相しかり、ダウディング空軍大将しかり。この作品でも無名の参謀がドイツの作戦を見抜き、スコアを五分に持ち込みます。




