小さな暴れ川(あるいは、雨後の水たまり)
「ふあー」
襟足の伸びたアクアグリーンの髪の少年――ウォルター・ヴァルテル――は大きなあくびとともに、床に敷かれた薄布の上でゆっくりと起き上がった。
昨日、謎の美女に身につけていた宝飾品をすべて持ち去られたあと、鉛のように重くなった体を揺らしながらなんとか近場にあった宿に転がり込んだ。宿は大勢が同じ部屋で雑魚寝するタイプの安い簡易宿泊所ではあったが、少しでも安全な場所で倒れていたいだけのウォルターにとっては十分。むしろ値段も安く上等な場所であった。
夕食も食べずに床に転がること12時間超。早朝から働く宿泊者は既に姿を消し、逆に夜遅くまで働いていた人が入れ替わりで入って来て床に寝そべり始めるといった、ある種の朝と夜の狭間の時間。気がつくとそんな時間になっていた。
「どうしようかなぁ……」
床の上とはいえ、半日も寝たおかげで体力は十分に回復した。しかし、昨日1日で手がかりは何も掴めなかった。おまけに見せ金代わりの宝飾品もすべて奪われてしまい、宝石商にまともに取り合ってもらえるかも怪しくなってしまい、これからどういったアプローチをするべきか、それが問題だ。
下半身にまとわりついた毛布を蹴飛ばして立ち上がると、腹があくびと同じく大きな音を立ててグーと鳴り響く。
「飯食うか……」
先のことは1度頭から切り離し、食事をとって吸い取られた分のエネルギーを補いたいところ。しかし、街が目を覚ますにはまだ少し早い。こんな時間から開いている飲食店があるだろうか。
ウォルターは一瞬考えたが、すぐにそんな店に思い当たる。すっと立ち上がり、床に敷いていた薄布と毛布を一緒くたに丸めると、部屋の入り口付近に置かれたカゴに放り込み、受付へと向かった。
「ここら辺に酒場ってあります?」
「ここの前の通りを1本入ってしばらくまっすぐ行ったところにあるが、あの辺は最近変な連中がうろついてるから、あんまりおすすめはしないぞ」
店主っぽい風貌をした男がそう忠告すると、ウォルターは得意げな表情で笑ってみせる。
「大丈夫。こう見えて意外と強いから」
そうして宿を後にしたウォルターは、さっき言われたとおりに路地に入ってまっすぐと歩いて行く。しばらくすると、ドアの横に立て看板が置かれた建物が見えてきた。
近づきながら看板を凝視すると、そこにはかすれた文字で"労働を愛する者たちの集い"と書かれている。おそらくこれが目的の場所だ。ウォルターは少しだけ歩くスピードを上げた。
看板の前まで来ると、教会の裏口のようなボロい木のドアを押す。すると、ドアと壁の間に隙間が生まれたその瞬間、凝縮された酒とたばこの臭いが鼻腔に突き刺さる。
ウォルターはむせ返りそうになるのを堪え、そのまま店の中に歩みを進めた。夕暮れ時のギルドの食堂と同じような喧噪の間を抜け、奥にあるカウンター席に腰を下ろすと、店主と思しきずんぐりとした中年の男がゆっくりとウォルターの前まで歩いてきた。そして、赤らんだ顔でウォルターを見回すと、酒の臭いのする口をこれまたゆっくりと開いた。
「ご注文は、坊や?」
人の顔を見るや否や、坊やとは失礼な奴だ。とは思いながらも、一応客として認識されていることに安堵しながら答える。
「ホットドッグを2つ。あとコーヒーを1杯」
「コーヒーだ?うちにはそんな景気の悪いもんねーよ」
店主はそう言うと、がはがはと大声で笑った。
「ここに居るのはみんな、普段泥水を啜りながら働いてる連中だ。小綺麗な坊やが朝からお食事を楽しむような場所じゃない。わかったら諦めて酒を飲め」
店主が周りに聞こえるような声でそう言うと、店中の客が笑い出した。
「そーだそーだ酒飲め酒!」
「おごってやろーか坊主!」
周囲も口々に盛り上がり、朝になり店じまいに向かいつつあった店が再び目を覚まし始める。
「でもこれから仕事だから……」
「酒飲んで仕事すりゃいいだろ」
ウォルターの控えめな抵抗も虚しく、流れるように目の前に木製のコップが置かれ、乱雑に酒が注がれていく。
何が最近変な連中がうろついているだ。この店主の方がよっぽど変な奴じゃないか。
ウォルターは宿屋の男への恨み節を頭に浮かべながらコップに張られた水面を見つめる。何の酒かはわからないが、薄い琥珀から昇ってくるアルコール特有の臭いに顔をしかめていると、店主がウォルターの顔を見ながら残念そうな表情を浮かべた。
「悪かった悪かった。まさか本当に酒が飲めないとは思わなかったよ」
店主がそう言うと、ヒートアップしていた周りの空気が徐々に落ち着いていくのを感じた。これで平穏な朝食にありつけると思ったのも束の間――
「出口はあそこだぜ」
店主のそのひと言に、周囲はドッと笑い、再び
盛り上がりを取り戻した。どうやら、これを飲まなければ背割りパンの一口すら口にすることはできないようだ。
「わかった。飲むよ」
「そう来なくっちゃ」
覚悟を決めてコップの持ち手に手を掛けると、店中の客が手拍子をしてウォルターをはやし立てる。
これほどまでに食べるのに苦労するホットドッグがこの国にあるだろうか。この後の最初の一口に期待を膨らませながらコップの縁に口を付けた。その時――
「無理して飲むことはないぞ」
この騒がしい場所でもよく通る野太い声とともに誰かがウォルターの肩をポンと叩く。慌ててコップを顔から遠ざけて振り返ると、そこには他の客のような肉体労働者然とした服装ではなく、比較的街中に馴染む格好をした男が居た。
「おいオヤジ、素直に食いもんを出してやれ」
男がそう言うと、店主は渋々裏にあるキッチンの方に歩いて行く。客達もしらけた様子で散っていき、再び各々で談笑を始めた。
「助かりました。ありがとうございます」
ウォルターはコップをカウンターの端の方に追いやりながら男に礼を言うと、男はウォルターの隣に腰を下ろした。
「気にするな。お前に酔ってもらっちゃ困るからな」
俺が酔うと困る?ウォルターは男の発言に強烈な違和感を覚えたが、何も言わずにそのまま黙ってホットドッグが出てくるのを待っていた。だが、段々とモヤモヤが頭の中を支配していき、あまり回っていない頭で思考を巡らせる。
すると、記憶の片隅のそれまた奥の方に、薄らと男の顔が浮かび上がってきた。
この男に会ったことがある……それもつい最近……
ウォルターは頭に神経を集中させたが、これ以上は思い出せそうにない。
何かないか……?この男に関する知っていることが他にも……?
頭が茹だつような感覚を覚え、思わず額を俯いて額を手で押さえる。そんなウォルターの姿を見てか、客の一人が酒入りのコップを片手に、強烈なアルコールの臭いを纏わせながらカウンターの方へと歩み寄って来る。
「なんだ坊主、やっぱ酒が要るんじゃないか?」
「黙れ!あっち行ってろ!」
男は野太い声でその酔っ払いを怒鳴りつけ、追い払った。
その瞬間、脳内におぼろげと空いたスペースに、記憶とこの男とを結びつけるピースがばっちりとはまった。
「おまちどう」
目の前に待ちに待ったホットドッグが運ばれてきたことになど目もくれず、ウォルターは顔を上げて男の顔をジッと見つめる。
「そら。それ食ったら一緒に来てもらうぞ。お前には聞きたいことがある」
そうだ、この声……昨日街を歩いているときに追いかけ回してきた3人組のうちの1人だ。ウォルターはそう確信すると、素早く立ち上がって男から距離をとった。
すると、男はため息を吐きながらゆっくりと立ち上がり、ウォルターに鋭い眼光を向ける。
「手荒なまねはしたくなかったが、そっちがその気ならそうせざるを得んな」
酒で緩んでいた辺りの空気が一変して、店中に緊張が走る。騒いでいた酔っぱらい達はまるで固まってしまったかのように、誰一人身動きを取ることも、声を出すこともしない。ウォルターは店中の視線、その半分を背中に受けて男と対峙する。
昨日は3人居た上に、周りに水場がなくて逃走を余儀なくされたが、今日はこの男1人。おまけにここは酒場だ。水ならそこら中にある。
ウォルターは顔の前で右手を握りしめ、その手の中にすべての意識を集中させる。
そして、掌に滲み出た汗が一塊の雫になるのを感じ取ると、ゆっくりと手を開き、その雫をまき散らすかの如く男に目がけて手を振りかざした。
すると、周囲にあった酒の入ったコップが男の方向へ勢いよく飛んでいく。しかし、そのほとんどは男の元に到達する前にどんどん床に落ちていき、最終的に中身の酒だけが男の体にバシャバシャと衝突する。
それでも、顔に酒が掛かり、一瞬顔を背けたことによって隙が生じた。ウォルターはその隙を見逃すことなく、一気に踏み込んで男の懐に潜り込むと、跳び上がりながら拳を突き上げ、真上にあった男の顎へ強烈な一撃をお見舞いした。
凄まじい衝撃を受けた男は後方に体を仰け反らせ、そのまま床に倒れ込む。ウォルターは、すかさず首からストールをもぎ取り、男を縛り上げた。
盛り上がる間もなく終わった対決に、周囲は呆気にとられたようで、未だ固まったまま2人を眺め続ける。
「こっちも丁度聞きたいことがあったんだよ」
ウォルターは縛り上げてうつ伏せにした男の前にしゃがみ込み、顔を覗く。
「昨日も追いかけ回されたけど、目的は何?宝石泥棒の仲間?」
ウォルターがそう尋ねると、男は顔を歪めながら力を振り絞るようにこう言った。
「俺は警察だ……」
「へっ?」




