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五つのシアワセ

作者: 西島地平

               一




 午後の空はどんより曇っています。ハッチは、しばらく見上げていて、無表情のままウンとうなずいて駆け出しました。それは、家を出るとまずするしぐさでした。肩からかけたカバンの中が、ガタガタ鳴りました。いっきに土手をかけのぼって、そして走るのをやめました。

 それから川沿いにゆっくり歩きました。からだに風があたるのを感じると、その顔は笑顔になっています。

 ここは、インドのニューデリーという都市です。道路は車がいっぱい走り、土けむりがたちこめています。

 しばらくして、今度は土手を降りて、大きな道路から離れるように歩いていくと、バラック建ての家が並んでいます。道には人がたくさんいます、はだしで、着ている服はやぶれています。

 そして子どもたちが多くなる場所に近づいていくと、集会所がありました。そこは学校に行けない子どもたちの集会所です、でこぼこの床に座って勉強します。

 ハッチは、十才の女の子です。小学四年生ですが、家が貧しくて普通の学校には行けません。

 十月から新しい先生が来ました。日本から来た若い男の先生です。背が高く、髪の毛は短く切っていました。少し照れるようにヒンズー語であいさつをしました。

 ハッチの友だちに、同じ歳のチッチとサリーがいます。三人は遊ぶときはいつもいっしょでした。そして三人がときどきいくところがありました。それは橋の下に住んでいるおじいさんのところでした。バラック建ての家よりもっと貧しいつくりの中で住んでいます。

 タンジーじいさんは、やせていて、歩くことも簡単にはできません。でもいつも笑顔でやさしく迎えてくれます。

「おじいさん、これ食べて」

 チッチが、チャパティを一枚差し出しました。

「いつもありがとう、でもきょうは、向こうの橋の下のおじいさんに持っていってくれないか、だいぶん食べていないようなんだ」

 三人で、川の向こう側のおじいさんのところへもっていきました。そんなことが何度もありました。

他にも食べ物がない人、病気の人がいます。でも、チッチたちはどうすることもできません。

 川は白いあぶくでいっぱいです、ときおり嫌な臭いもします。

「昔は、この川はきれいな水が流れていたよ。泳いだり魚をとったりできたんじゃ」

 ハッチたちには、おじいさんは何でも知っているえらい人のように思えました。昔インド中を旅して、まだいろんなことを覚えています。そして、行ったことのない世界中のことも知っていました。たくさん本を読んだそうです。星や宇宙の話もおもしろく、どんなことを聞いても答えてくれました。

 おじいさんの話もあります。

「人は、生きているあいだに、それぞれ五つのシアワセをもつんじゃよ。五つより少なくもなければ、多くもない」

 ハッチたちが沈んでいるとき、よく言いました。

「シアワセは、こころの中にもつんじゃ、見えるもの、形のあるものじゃない。こころの中で、花のように咲いて、木のように動かない」

 おじいさんは、ハッチたちがいつもお腹をへらしているのを知っています。親の仕事もいつもあるわけではなく、将来どうなるのかわからない不安があることも知っています。

「寒さでつらかった分だけ、それが長かった分だけ、太陽の日ざしのぬくもりをうれしく感じるんじゃよ」

 ハッチが聞きました。

「おじいさんは、シアワセをいまいくつもってるの」

「わしは、四つもっているよ」

「それじゃあ、あと一つしか残ってないの」

 丸いめがねの奥の目は、いつものようにやさしく微笑んでいます。

「そうじゃ、たぶん最後の一つは、死ぬ前にもつことができると思ってるよ」

「ふーん」

 ハッチたちは、よくわからないときは、そう応えます。

「たくさんシアワセをもっていると思っていても、それは本当のシアワセではないんじゃ」

「ふーん」

(わたしはいくつもっているんだろう)

 チッチは、すぐに頭の中に出てきません。ずいぶん前に、家族でどこかに遊びにいった記憶がありました。それでしょうか?

「みんながいつも走ってることが、走れない子にとっては、もしできるのであれば、それがシアワセなんじゃ」

 チッチは考えました。

(・・お父さんとお母さんがいること、・・からだが元気なこと、・・それから、ああもうあと三つしかない、いや三つもあるのかな)

 サリーも考えました。

(わたしは、ごちそうをお腹いっぱい食べれたらシアワセだと思うけど、いつも食べている人はシアワセだと思わないんだろうか)

「ただ、悪いことをしたら、シアワセはもつことができないよ」

 三人のおしゃべりが途切れたときに、いつもおじいさんが話し始めます。

「おじいさんの話を聞いたら、わたし、ひもじさもそんなにつらくない、貧しさもそんなに嫌だと考えなくなった」

 ハッチが言いました。

「シアワセも、早くなりたいって思わない。いつかなれるって思えるんだもん」

 おじいさんは、黙ってうなづいてくれました。

 三月の末、日差しが強くなってきました。寒さがなくなってくれたのがなによりです。一年の季節のうちで一番うれしいときです。

 三人がおじいさんのところに行くと、一番先にハッチがおじいさんに言いました。

「おじいさんに会いたい人が来ているの」

 三人の顔が輝いています。めったにない出来事におじいさんがどんな顔をするのか、好奇心でいっぱいです。

 ――日本という国からきた人でね、私たちにいろんなことを教えてくれるの。紙切れで飛行機や帽子を作るの。そして絵がとっても上手よ。

 今まで、そんな話をよくしていました。

 おじいさんは、すぐにわかりました。

「そうかそうか、入ってもらいなさい」

 呼びに出た三人の後から、その青年は、入口をかがむようにして入ってきました。

「おじゃまします、チッチたちから聞いて、やってきました。もうすぐ帰るので、一度お会いしたいと思いました」

 もう普通の会話は、ヒンズー語で話せました。

「わしも、あんたのことはたくさん聞いてるよ、よく来たね」

 ことばをゆっくりと話しました。

 おじいさんは、いつもチッチたちを大事に接してくれます。それがチッチたちにわかります。青年の態度も、初めて会ったときから、それと同じだとわかりました。

「何かを、探しに来たのかな」

「はい」

 二人は黙って見つめ合っていました。やさしい笑顔どうしです。ハッチたちも引き込まれてうれしい気持ちになりました。そして青年の顔がもっともっと笑顔になりました。

「ぼくは、この半年のあいだ、集会所で子どもたちが悲しんでいるのを見たことがありません。ぼくが見ていてかわいそうだなと思ったときでも、笑っていました。ぼくは、その笑顔に力づけられ、そして助けられました」

 おじいさんは、黙ってうなづきました。

「おじいさん、ぼくはわかりました。ぼくの向く方向は、子どもたちの笑顔です。それをめざして生きていきます。もう迷いもあせりもなくなりました」

 おじいさんは、また大きくうなづきました。

「あなたのこころに平安があるように、祈ってるよ」

「ありがとうございました」

 ハッチの顔がパッと輝きました、満面の笑顔です。

(あっ、いまシアワセを一つもったんだ)



                  二



 見上げた空高く、飛行機雲の白い線がまっすぐ描かれています。まだ乗ったことのない飛行機、まだ行ったことのないいろんな国。ハッチはウンとうなずいて頭を下げました。そしてむすんだ唇に力を入れて、駆け出しました。

 街の広い道路の脇に、犬や猫の死体が横たわっています。車にはねられたのです。車も人もそれを見てそのまま通りすぎるなかで、ハッチは紙や布に包んで抱きかかえました。

 そしてチッチやサリーといっしょに、川辺の土手の下に、穴を掘って埋めてやりました。そんなときそばを通ったおじいさんが、「いいことをしたね」と言いました。

「わしも、この動物たちのために祈るよ」

「ありがとう」

  それがタンジーじいさんとの出会いでした。それまで気づかなかった、土手の上の橋の下に、ダンボールや板切れで被った囲いが並んでいて、タンジーじいさんやいく人かの人が住んでいました。

 おじいさんは、天気のいい日には草の上に座って、いろんな話をしてくれました。――昔は、この川には、たくさんの渡り鳥がやってきた。道行く人たちは足を止めて、この土手の上でながめていた。草木が生い茂り、いろんな動物が走り回っていた。空は青く広がり、いつも風が通り過ぎていたよ。

「まわりを見わたしてごらん、この世界には、人と自然しかないんじゃよ、つらいときには自然を見なさい、自然が何かを教えてくれる」

 おじいさんは、何度もそんな話をしました。同じ話でも飽きることはありません。

「チッチ、サリー、ハッチ、自分のまわりを見てごらん。何がある、たくさんの人がいる、よい人とわるい人、金持ちの人と貧しい人。そして何がある、大きな自然がある、空があり、山があり、川がある、そして動物がいて、植物がある」

 おじいさんは、低い声でゆっくり話します。

「チッチ、サリー、ハッチ、それだけだよ、それだけなんだよ」

 ――きれいに咲いた花もいいが、じっと咲くときを待つ蕾もいい。そして、その蕾が膨らんで、ある日さっとはじける。

「この中で、ただ一つ変わるものは人のこころなんだ、よいこころとわるいこころ、どっちにも変わるんだ。ほかのものは、何も変わらない、みんなやさしさをもっている」

 ――夜明けの静けさ、夕暮れの荘厳さ、夜空の神秘さ、何年経っても、いつ見ても変わることはない。

「よいこころをみなさい、よい人をみなさい、貧しい人をみなさい。そして、人以外のものをみなさい」

 目の前には、草花が咲いています。ゆっくりと流れていく川、遠くにかすむ山々、そして限りなく広がる空。おじいさんの話を聞いていると、そのひとつひとつの自然が何か違って見えました。

 ハッチたちもいろんなことをおじいさんに話しました。見てきたこと、考えたこと、そして何でもわからないことをたずねました。

「サンゾーは日本に帰ったけど、何度も何度もおじいちゃんに会えてよかったと言ってたよ」

「私たちにも、おじいちゃんに会わせてくれてありがとうって言ったわ」

「そうか、そうか」

 おじいさんは、目を細めてうなづきました。

 三人の話の中で、サンゾーのことがよく出てきました。

「いつも私たちが着る服と同じ服を着て、ビニール袋に荷物を入れて来てたよ」

 うれしそうに、おじいさんに話して聞かせました。

「少し下を向いて歩いていくうしろ姿が、さびしそうだった」

「一年前、二ヶ月のあいだひとりでインド中を旅したって、地図をみてバスや汽車に乗って、泊まるところも探して、・・いろんなことがあったって」

 通りで会う人に、自分から笑顔であいさつをして、中腰になって顔をくっつけるようにして話をしていた。人なつっこい性格なんだろう、相手もすぐにうちとける。

「サンゾーは、からだの不自由なホリーにも勉強を教えていたのよ。ホリーは、生まれつき立てなくて歩けないの。ことばも話せないし、左の手しか動かせないの」

 その左手さえうまく動きませんでしたが、一生懸命字を書く練習をしました。口を閉じることもむずかしく、頭を上にあげないと水や食べ物を飲み込むことができませんでした。

 ホリーが小さいときには、おばあちゃんがひょいっと抱えて外に連れ出しました。そしてそばにおいといて、畑仕事をしました。

 いま、ホリーは二十歳になりました。からだが大きくなっておばあちゃんは抱きかかえることができません。それでずっと家の中にいます。サンゾーが来たときには、おばあちゃんは安心して畑仕事をすることができました。

 お父さんは、ずいぶん前に家を出たきり帰ってきません。お母さんは昼も夜も働いています。お姉さんと弟も遠くへ働きに行ってます。ですから、ふだん家にいるのはホリーとおばあちゃんの二人きりです。

 おばあちゃんは、サンゾーに話しました。ホリーはこの先どうなるんだろうか、自分が死んだら誰がホリーの世話をしてくれるんだろうか。サンゾーは黙ってその話を聞いていました。

 おじいさんは、話を聞きながら声には出しませんが、こころの中でハッチたちに教えていました。

(・・・自分が、どの生活のレベルで生きようとしているのか、常に考えるんじゃ。いつも貧しい人たちのことを考えることができるかどうかだ。そして、その人たちが苦しんでいるときに、その手をにぎってやれるかどうかだ)

 ハッチたちも、何度もサンゾーについていって、ホリーといろんなことをして過ごしました。

「ホリーは、ことばにはならないけれど、出にくい声をふりしぼって何かを言おうとするの、それをサンゾーは大きくうなずいてわかるって笑顔をしていた」

 おじいさんは、いまはまだ子どものハッチたちが、いつか自分でわかるときがくることを願うばかりです。

(・・・他の人たちも、同じ苦しみに耐えていると知れば、自分の苦しみもがまんすることができる。自分よりもっと大きな苦しみに耐えていることを知れば、なおさらだ)

「そして、サンゾーは一枚の絵をかいたの。それは、ホリーがきれいな服を着て立っているの。日本の服でとってもきれいなの、そしてホリーがまっすぐにスクッと立ってるの」

「その絵を見たホリーは、できる限りからだをいっぱい動かして喜んだの」

 サリーたちは、おじいさんが真剣に聞いていてくれるとわかっています。話しながら、何か教えてほしいのですが、それをうまくことばにできないもどかしさがありました。

(・・・シアワセは、他人からもらうものではない、求めて探して自分でつかみとるものだ。シアワセは、満ち足りた生活の中ではもつことはできない、欠乏と失意のなかでつかみとるものだ)

 生きる意味を、人生の目的を考えなかったら、シアワセもわからないだろう。そう話してあげたいのですが、理解することがむずかしいと思うのです。おじいさんは、声には出さず、祈るようにつぶやきます。

(・・・いつか、こころの中につかみとるシアワセは目にみえない、その目にみえないシアワセを信じることじゃ。信じることは難しい、だから信じることができるように努力するんじゃ、考え続けるんじゃ。必ずシアワセをもつことができると信じること、それが勇気だ)

「私たちも、みんな似顔絵をかいてもらったのよ」

 ハッチは、それをいつもかばんの中に入れています。大事な大事な宝物です。

「おじいちゃん、どうしてみんないっしょじゃないの」

 チッチがぽつりと言いました。

 そんなことは聞くことではないことはよくわかっています。言おうとしたのではなく、つい口から出てしまったのです。でも本当は言いたいのです、どうしてお金持ちの人と貧しい人がいるの、なぜお金持ちの人は、シアワセが余っているのに貧しい人にわけてくれないの、と。

 みんな黙っていました。貧しい自分たちが何も言えないのはわかっているのです。哀れみをもらうことはできないことも知っています。

  少しの時間が経ってから、サリーが言いました。

「サンゾーは、どうして私たちのところに来たんだろう」

 それは、チッチもハッチも、今まで考えもしなかったことです。でもそう考えると、何か気づくことがあります。

「サンゾーは、何かつらいことがあったんだろうか、何か私たちよりもっとつらいことだあったんだろうか」

 チッチが泣きそうな声で言いました。

 みんな自分たちのことより、サンゾーがかわいそうでたまらなくなりました。

 いつも明るい笑顔でみんなを笑わせていた、みんなが言うことをなんでも聞いて、そしてやってくれた。

 ――日本では、一年に四回自然の景色が変わるんだ、四つの季節ともみんなきれいなんだよ、と自慢そうに話すサンゾーの顔が思い出されました。

「いつかまたサンゾーに会えるよ」

 おじいさんが、なぐさめるように言いました。

「目の前にいなくても、こころの中に思い出せば、会ったことと同じなんだよ」

(・・・見えないものを信じるんじゃ、いつかシアワセをつかむことができると信じるんじゃ、信じることができる強いこころをもつんじゃ、チッチ、サリー、ハッチ、・・・サンゾー)

 おじいさんは、三人が立ち上がるまで、やさしく見守っていました。

 帰り道は薄暗くなっていました。東の空にまーるい月と一番星が見えました。

(サンゾーも、日本でいま同じようにあのお月様と一番星を見ているかもしれない)

 ハッチは、そう思うと何かしらうれしい気持ちになりました。



                三



その日は雨が降っていました。ハッチは家を出ると、そっと空を見上げました。雨つぶが顔にあたりました。一瞬目をつぶったけれど、その顔は少しずつ笑顔になりました。

 雨がふっても暗くても、この空は世界中につながっていることを知っています。今から出かけていく初めての遠いところにも、この空はつながっている。そう思えば、かなしい気持ちもがまんできるようです。

 ハッチは十三歳になりました。集会所での勉強が終わりました。そして、きょう家を離れて仕事のある土地へ行きます。お父さんとお母さんは、朝早くから仕事に出かけています。ハッチは弟と妹の世話をして、身支度をすませました。バッグを一つ持って、雨にぬれながら街まで歩いていきます。そのきりっとしたまなざしは、もう子どもではないようです。

 チッチとサリーは、この土地で仕事がありました。でも、ハッチの家族が必要なお金をもらえる仕事は、この土地ではみつかりませんでした。きのう、ハッチはタンジーじいさんにお別れを言いに行きました。

 おじいさんは、だいぶんからだが弱くなって、ほとんど寝たきりでした。

「おじいちゃん、土手に咲いていたの」

チッチがガラス瓶に一輪の花をさして、おじいさんの横に置きました。

「風にゆれて、みんなで歌を歌っているようだった」サリーが言いました。

「ほう、そうかえ」おじいさんは、ニコッとしました。

おじいさんも、ハッチがあした旅立つことは知っていました。

 ハッチは、おじいさんの手をにぎりしめました。

「おじいちゃん、わたし、いつもおじいちゃんの顔を見るまで、おじいちゃんが死んでいないか心配だった」

 ハッチの目は、涙でいっぱいになりました。

「おじいちゃん、死なないでね、わたしが帰ってくるまで、絶対に死なないでね、お願いね」

「大丈夫だよハッチ、わしはハッチが帰ってくるまで、楽しみにして待っとるよ」

 おじいさんは、ハッチの手をしっかりにぎりかえしました。


 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「ハッチ、すまないね」遠いところに仕事が決まったとき、お母さんは、そう言いました。そして、それ以上は言いませんでした。お父さんも、あやまることばは口には出しませんでした。でも、ハッチは両親の気持ちがよくわかっていました。

「ううん、わたし大丈夫よ」

 そう言ったとき、ハッチはタンジーじいさんのことを思い浮かべていました。そして、かなしいことやつらいことにくよくよしない、強くなった自分がわかりました。

 そして、ハッチは覚えています。小さかった頃、お父さんとお母さんといつもいっしょだったこと。そばにくっついて離れなかった、抱っこしてもらった、おんぶしてもらった、顔をくっつけて笑った。

 みんなで食べ物を分けあった、相手に多く食べさせようと気をつかった、そして、お互いそれがわかってどんなにうれしかったか。小さい火ばしのまわりに、からだをくっつけて暖まろうとした、ガタガタと震える顔を見合って笑った。

 それらのことが、いまなつかしく思えるのでした。

「わたしがんばってくる、おじいちゃんから教わったことを思い出して、笑顔でがんばってくる」

「ハッチ、・・・」

 そう言って、おじいさんはゆっくりとうなづきした。

(わしは、ハッチたちをなぐさめようと思って、とっさに、誰でもみんな五つのシアワセをもつことができると話した。そして、ずっとそのことを考えてきた。それは本当だった、真実だった。わしは確かにシアワセをもったんだ、今までに四つのシアワセをもったし、最後の一つをいまもとうとしている。ハッチたちをみていて、そう思うようになった。ハッチたちがわしを慕ってくれた、わしのために涙を流してくれた。それでわしは十分だ、わしのシアワセだ)

 自分ではもうどうしようもなく困っているとき、思いもかけない親切や手助けが、どんなにうれしいものか、助けられることか。人が生きる目的は、生きていく意味は、そんな困っている人への手助けだと思う。

 ハッチたちには、ここに来たときに話をするだけだったけれど、私はハッチたちに何かをしてあげれたのだろうか、もしそうだとしたら私の何よりの喜びだ。そして私ができるのは、ハッチたちがシアワセになることを祈ることだ。そして私は祈り続ける、つらい日々を過ごしている人たちのために、その人たちがシアワセになれるように。

 ――生きていくことは、毎日のそして毎年の積み重ねと思った。でも違うようだ、積み重ねではなく、一つ一つを分けていいんだ。これまで生きてきた長い道のりを、いくつかの時代に分けることができる。少年の頃、青年の頃、二十代、三十代、・・・、それぞれの自分が生きた時代だ。

 私はガリガリに痩せこけた、ただ生きることを求めた。ガツガツと貪り食う人々、見向きもしない、見ても顔をしかめる。私が餓死しようとかまわない、人が餓死しようとかまわない。  

ガサガサに枯れたからだ、こころも何ら変わりはない。ガラガラに嗄れた声、振り絞っても誰も気にもとめない。あの崖から飛び散れば、あの崖から飛び散れば、そう思った。

ガミガミとがなられながら、殴り蹴られた日々、親に、雇主に、大人に。ガクガクと震えながら捜しあぐねた日々、お金を、食べ物を、着る物を、薬を、寝る場所を、何より愛を。私はそんなに害なのか、この地球にとって、お金持ちにとって、人にとって、害なのか、そう考えた。

それでも必死にがんばった、なんとか生きてきた。そんな中にもシアワセがあったんだろう、・・・四つのシアワセがあったんだろう。

 そのシアワセの一つ一つは、なくなってはいない、こころの中にちゃんとある、いつまでも残っているんだ。積み重ねの上に、今があるのではない。そのとき、その時代を生きた自分があり、そして今を生きる自分があるんだ。

 チッチたちといるときは、私はこれまでの年月を積み重ねたおじいさんだが、一人でいるときは、私はいくつかの時代を生きてきた人間になる。静寂と対峙して、自分をそして人間を考える。人間のあり方を考える、何か大きな考えをつかもうとする、真実を知りたいと思う。

 老木にも、生きているあいだは、美しい花が咲き、緑の葉が生い繁る。その花も葉も老いてはいない。そのみずみずしい姿は、若木のときから変わらない。

 私は、この不自由なからだと、寒さと空腹の中で、今までのシアワセを笑顔でみることができる。そして、今がつらいと思うとき、未来を信じることができる、いつかシアワセをつかむことができると信じることができる。

 そう信じれば、つらくても生きていける。そう信じれば、シアワセな気持ちになれる。

 寒さの後には、必ず暖かさがやってくる。毎年毎年それは変わらなかった、私は何年も何十年もそれをみてきた、それを知っている。

 太陽は東の空に昇り、そして西の空に沈む。雨が降り、大地を潤す。風が吹き、生命をつなげる。自然のいとなみは変わらない。

 シアワセだったときの長さは、わからないけれど、つらかったときよりずっとずっと短いんだろう。長いあいだ苦しさの中にあって、シアワセだったときは思い出そうともしなかった。でも、確かにシアワセはあったし、これからもつかむことができるんだ。

 もしかしたら、つらい年月も、シアワセになるための一部分なのかもしれない。・・・いま初めて、そう考えることができる。

 あたりがうす暗くなってきて、帰る時間になりました。何もすることはないけれど、ここにいるといつもあっという間に時間が過ぎました。

 ハッチが言いました、その顔はいつもの笑顔にもどっていました。

「おじいちゃん、わたし、いまシアワセを一つもったような気がしているの」

 ハッチはこころの中に、何かふくらんでくるようなものを感じていました。

「そうか、そうか」

 おじいさんは、やさしい笑顔で何度もうなづきました。

(わしも、おまえたちに会って、シアワセをひとつもったんだよ)

 口には出しませんでした。そう言ったら、最後のひとつになるからと、サリーたちを悲しませると思ったのです。

 ハッチは、がんばって笑顔をつくって言いました。

「おじいちゃん、さよなら、また来るね」

 いつもと同じように大きな声で言いました。チッチとサリーのほうが泣き声になりました。

「ああ、またおいで、・・・元気でな」

 おじいさんも、いつものように返事をしました。

 人間が、自然を壊してしまった。そして人間どうしで貧富の差をつくった、理不尽なことをつくった。

 そんな、もうどうしようもないと思う世界の中にあっても、若い人たちの感情や情熱はすばらしいものだ。

 彼らの若い魂で、すばらしいこころで、何かをやってくれると思う。それは私の思いもよらないことなんだろう。そう思うと私はうれしくなる、シアワセな気持ちになる。

(チッチ、サリー、ハッチ、そしてサンゾー、・・・あんがとう)

 おじいさんの目を閉じた顔には、ほほ笑みがうかんでいました。


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