源氏物語『若紫』
六条邸の書物庫というのは思ったよりも広かった。それこそあの銭谷邸が丸々一個入ってしまうのではないだろうかというくらい。いくら時代別に分けられているからといって、平安時代の書物だけでもゆうに千は数える書物が有るのではないだろうか?
だが、泣き言も言っていられない。前回はみんなの協力もあってなんとかなったから良かったものの、あの鬼の悪霊の言葉を信じるならばあれで終わりとは到底思えない。この資料の中から何か読み解けると良いんだけど……。
「しかし」
まだ六月に入っていないというのに暑い。滴り落ちる汗をハンカチで拭いながら僕は棚から本を一冊取っては戻しの作業を二時間ばかり繰り返している。個人的には本への汗の付着くらい大丈夫だと思っていたのだが、六条さんからここにある本一冊で車が買えると聞かされたものだから小心者の僕としては極力丁重に扱うしかないのだ。
それにしても、先程から何か違和感がある。
「おかしいな」
暑さで脳みそをやられていたからか、なかなか頭が働いてくれない。だが、いくら目の前に陳列された本の山を見ても全くおかしな感じはしない。
「これは困った」
そうだ、きっと女の子成分が不足しているんだ。今となってはもう小さな女の子じゃなくても良い。この邸宅に居るはずの六条さんか、僕と一緒に来た葵でも良い。神よ、女の子パワーを僕に与え給え。Give me a girl's power.
「……何を不可思議なポーズを取っておりますの、源くん?」
「あ~宮須ちゃん見ないであげて。きっと暑さで頭がおかしくなったのよ」
僕が昔大河ドラマで見た祈りのポーズを再現していると絶対零度の刺す様な、いやもう貫く様な視線を感じた。見ればいつの間にかコップが乗ったお盆を持った六条さんと、完全に呆れ顔の葵がかたわらに立っていた。神よ、もっとタイミング考えてください。
「お、おほん。ど、どうしたの二人とも」
一応わざとらしく咳き込み本を広げて体裁を整えてみるが、何かもう色々と遅すぎたのだ。メロスは途中で力尽きたのだ。すまん、セリヌンティウス。
「あの、お茶の差し入れを持ってきたのですが」
「どうやら必要無かったみたいね~。サボってたみたいだし」
「断じて、断じてサボってなどいません! お願い信じて!」
ここで補給を断たれれば我が軍は壊滅だった。僕は恥も外聞もかなぐり捨てて日本古来の礼式であり、最近ではアルファベット三文字で表せるようになったいわゆる土下座を敢行した。すると熱意が伝わったのかそれとも憐れみか、僕の前にコップが置かれた。
「と、とりあえず飲んでください」
「宮須ちゃん優しいわね~。でも、男を甘やかすと良いこと無いよ?」
葵が何か言っているが、僕はなりふり構わずコップの中の液体を喉に流し込んだ。お、これは麦茶だ。やっぱり夏は麦茶だね。しかもキンキンに冷えている。流石は六条さん。細やかな心遣いが身に染みる。
「で、何か進捗があった?」
僕が飲み終わると同時に葵が尋ねてくる。僕は何も収穫が挙げられなかったことを素直に告白しようとした時に、改めて視界に入った本の山を見て気付いた。
「そうか」
「どうかしましたか?」
訝しそうに六条さんも僕と同じ様に書架に目を向ける。だが、彼女は首をひねるばかりで違和感に気付いた様子は無い。当たり前だ、違和感が無いこと自体が違和感なんだから。
「六条さん、ここには平安時代の四家に関する本が有るんだよね?」
「え、えぇ。そう聞いていますが」
「でも、この書架には有り過ぎるんだ。僕が見た限り『四家』という言葉が入っていないタイトルの本はほとんど無かった。これはどういうことだろうか?」
「えっ!?」
六条さんははじかれた様に書架に駆け寄り、人差し指を当てて流しながら背表紙のタイトルを確認していく。一人では足りないと思ったのか、葵も自然と続いた。そして。
「……今まで全く気付きませんでした」
「確かに光の言った通り『四家』の言葉が入ったタイトルがほとんどね」
二人の同意が得られた事で、僕はある一つの仮説を立てる。
――これはもしかして意図的に何かを隠そうとしているのではないだろうか?
「気付かなかったのは当然かもしれない。なんせ六条家はずば抜けた知性を持っていて、四家の流れを保っている。『四家』という文字がある事は自然なんだ」
でも、これはその当然を巧みに利用した人為的な配置ではないだろうか?
なら、何故そんな事をする必要がある?
「……二人とも、ここに有る『四家』という言葉が入っていないタイトルの本を全部抜き出すのを手伝ってくれないかな?」
「何か分かったの、光?」
「多分、ね。それも実際に検証してみれば直ぐに分かると思う」
「分かりました。家の者にも手伝わせましょう」
そうして僕達三人と六条家の使用人までも総動員し、大規模なローラー作戦が始まった。
作戦は長期戦となった。六条さん達が僕にお茶を届けてくれたのが昼の午後二時頃。そして今はもう夕飯時を越えて時計は午後八時を指そうとしていた。
五十四帖にも及ぶ折本の抜き出しが終わった後は、内容の精査。
とは言っても書かれている事が大昔の出来事であるのと、解読出来るのが六条さん一人とあって作業は難航した。それでも僕達はようやく大昔に封印された謎の回答に辿り着いたのだった。
「これは……」
「『源氏物語』、ですわね」
「うん、授業で習ったやつだ」
あれだけの時間と人員を割いて出てきたのが、まさか中学や高校辺りで誰もが習うような古典物語である事に僕達は愕然とした。それは紛うこと無き想像の物語である。
「いえ、でも少し待って下さい」
落胆を隠しきれない僕を余所に、六条さんは真剣にある一部を読み始めた。それは五十四帖の中の五帖目。『若紫』。当時十八歳だった光源氏が病の療養の際に訪れた北山で後の妻である紫の上を見初める話である。
個人的に十歳の女の子に恋をした光源氏には名前も近いこともあって親近感を抱いていたが、それがどうかしたのだろうか?
「源くん、『若紫』の内容は覚えていますか?」
急いて尋ねる僕に、六条さんは努めて冷静に返してくる。僕もそれを首肯する。
「では、その中で光源氏が鬼に襲われる若紫を助ける描写はありましたか?」
光源氏が若紫を助ける?
そんな描写は無かったはずだ。僕もそこまで詳しい訳じゃないが、確か光源氏はたまたま通りかかった家で密かに恋焦がれる藤壺に瓜二つの少女「若紫」と出会った。
「そう、『たまたま』出会ったのです。でも、ここには違う記載がされています」
六条さんが折本に書かれている内容を読み聞かせてくれる。
母との再会を願う若紫。そこに響く鬼の声。刀を持って助けに来る光源氏。だが、一寸遅れて若紫にかけられた呪い。何もかもが知っている『若紫』とは違う。
しかし、僕は最近似たような事を実際に体験した。
何だろう? 気持ちが悪いくらいに繋がってしまう。ここに書かれた約千年前の物語と、僕達が生きる現在の物語が。まるで鬼の呪いに吸い寄せられるように。
「千年前に襲われたのが、若紫なら……」
上手く声が出ているか分からない。それくらい僕の体は一つの予感に囚われて震えずにはいられなかった。恐ろしい。口に出したくない。でも。
「今度狙われるのは、次の【魂の器】は」
――器はもう既にある。後は……
この前討ち祓った鬼の言葉が、頭の中をかき乱した。もう分かっていた。分かっていても理解したくなかった。でも、否応なく言葉が漏れた。
「紫ちゃん、なのか?」
「「…………」」
僕の問いに誰も答えてはくれなかった。
分かっている。二人もきっと理解している。目の前の現実から目を背けたくなっているのだろう。こんな話きっと大昔の人が考えた絵空事だろうと笑い飛ばせれば、どれだけ幸せなことだろうか? でも、物語は、再現されている。
いつから運命の車輪は動き始めていた? 千年前? それとも僕が紫ちゃんと出会った日からか? このまま僕達は車輪の下敷きになれって言うのか?
「ふざけんな……」
そうだ、ふざけるな。人の人生を何だと思っていやがる。呪いだかなんだか知らないが、そんなもので僕と紫ちゃんの仲を裂こうなんてちゃんちゃら甘いんだよ!
立ち上がる。そして、自分の手を見つめる。
昔から何で自分に不思議な力が備わっているのか何度か考えたことがある。でも結局いつも答えは分からず仕舞いだった。でも、今なら分かる。
「断ち切ってやる」
「源くん?」
「光?」
僕の呟きに二人が反応した。そうだ、紫ちゃんには僕以外にも心強い仲間が三人もいるのだから。四家の力があるのだから。だから、鬼退治なんて朝飯前だ。
「断ち切ってやろう、僕達で。四家の力を合わせれば、きっと紫ちゃんを守れる」
「……そうですわね。なんせ紫さんは源くんの一番のお気に入りですから。ここで助けてポイントを稼いでおくのも良いかもしれません」
「妹を守るのはお姉ちゃんの役目だからね。仕方なく光にも手伝ってもらうけど、そこんとこ勘違いしないでよね」
二人ともなんとも素直じゃない言葉で僕の背中を押してくれた。正直、涙が出るほど嬉しかった。
でも、今は泣いている暇は無い。彼女達の好意に応える為にも、僕は今自分に出来る事を精一杯やるまでだ。例えば、あと一人の女の子に助力を頼むとか……ね。非常に情けないけど、彼女ならきっと協力してくれるって分かっているから。
「守ろう、僕達の手で。紫ちゃんを!」
どれだけ自分を鍛えても、結局僕は一人では無力だ。でも僕には頼もしくて、信頼出来て、そして心から愛していると言える人達がいる。だから彼女達が側に居ることで僕はどこまでも強くなれる、そんな気がする。
先生……イチャラブが、書きたいです……。
それはともかくいつも読んで頂き有難うございます!
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