千年前
今回のみ、時代が一気に千年前へと巻き戻っております。
次回からは現代へと時間が戻りますので、ご了承くださいませ。
「暗い……」
京の都から遥か遠く離れた北山。その山の洞窟の最奥で少女は一人呟いた。
「お逢いしたいです、母上」
しかし、それが叶わぬ願いだと分かっていた。少女の母である按察使大納言はもうこの世の人では無い。それに、父である兵部卿宮はもう自分に興味を失くしていた。
「一目だけでも構いませぬ。どうか」
『その願い、叶えてやろうか?』
少女の声に答えたのは禍々しい響きを持った声だった。洞窟の中が風も吹いていないのにざわめく。その気配にさっと少女の血の気が引いた。
「誰です!?」
問うてみたが、尋ねるまでもなく聡明な少女にはその正体は分かっていた。こんなにも不気味で、且つ人の心の隙間に入ってくる様な存在は一つしかない。
「貴方は、鬼ですね!?」
『左様。訳あって今はこの山に棲んでおる』
「私は鬼の言葉など信じませぬ」
『だが、母に逢いたいのではないのか?』
「それは……」
少女の言葉が詰まる。本当は今直ぐにでも母親に逢いたかった。逢って自分の体を壊れるくらいに抱きしめて欲しかった。少女はただ、愛に飢えていた。
『望んでいるのだろう。我ならその願い、叶えて見せようぞ』
「……」
『さあ、素直に我が【魂の器】となるがよい』
心は制止をかけていた。鬼の誘いに乗るなど愚の骨頂。しかし、体はどうしても温もりを求めてしまう。少女の心が僅かに揺れた、まさにその時だった。
「そのような話に耳を傾ける必要はないぞ!」
声が、先程の鬼の声とは正反対の真っ直ぐで誠実そうな言葉が彼女の心を繋ぎとめた。
見れば、少女が一人佇んでいた目の前に人が立っていた。まだ若い、それでも少女よりはずっと年上の青年だった。ここまで近くて気付かなかったのは、鬼の声に心惑わされていたからかもしれないと少女は考えた。
『貴様、何奴!? 入口に伏せておいた我が同胞はどうした!?」
「ああ、あれか。邪魔なので『こいつ』で斬った」
そう言って青年は刀を一振りかざしてみせた。
『その力……貴様、四家か』
「そういうこった。帝から此処に住む酒呑童子という鬼と退治して来いと勅命があった。そういう訳で大人しく退治されてくれんかね?」
少女を守る様に背中で隠しながら、青年は笑って刀を正眼に構えた。少女は青年の陰に隠れながらも、自分の父とどこか似ている青年の顔をまじまじと見つめた。
「あの、貴方様は?」
「私か? 私は六条院。っと、これは宮中での呼び名だな。本名は光源氏と申す者だ」
「光、源氏様」
少女はその名前に聞き覚えがあった。叔父である桐壺帝の第二皇子であり、叔母である藤壺中宮がその名を付けたとのこと。
「その光源氏様がどうしてこのような場所に?」
「先程申した通り勅命だ。まあ私にとってそれはついでなのだが、細かい事は後で説明しよう。その前に、ちょっと失礼」
「っんむ!?」
光源氏はいきなり少女の唇を奪った。顎に手を添えて体を引き寄せ、接吻するまでの一連の流れがまるで熟練者の様な動きだった。
「い、いきなり何をなさいます!」
「突然で済まなかったが、そう怒るな。鬼退治には必要なのだ。それに、その様な顔ではせっかくの美貌が台無しになってしまう」
憤慨する少女に微笑む光源氏の表情は「輝く君」と称されるだけあって、見惚れんばかりの美しさだった。それに、先程とは違い目が蒼く光っていた。
『くっ、だが今更出てきたところで遅い。我が呪いは既にその娘の体に根付いた』
「性質の悪い鬼だ。なら、それが悪化する前に消えてもらおうか!」
光源氏が持っていた刀を握り込むと、鍔の部分の紋様が妖しく光りその体を包んだ。そして、一閃。蒼眼で捉えた鬼の首を、確かな感触の元に斬り飛ばした。
「殺ったか!? いや、まだ存在は感じられる。然らば」
止めを刺していないと認識すると懐から数十枚重ねの札を取り出し、それらを一斉に洞窟内に展開させた。ふわふわと神札が桜の花弁の様に宙に舞っていく。
「【散】!」
掛け声と共に浮いていた札という札が壁に貼られていく。傍から見ている少女にはまるで信じられない光景だった。そして、全ての札が張り付けられると、光源氏は印を結んだ。
「この地に散らばりし数多の聖霊たちよ。今こそ我が声に耳を傾け、力を……ぐっ!」
しかし、最後まで唱え終わる前に光源氏は痛みに顔をしかめた。見れば先程斬り飛ばした鬼の首に腕を噛まれていた。いつの間にか本体から離脱した魂は、飛ばされた首に憑依していたのだ。だが、尚も痛みを堪えながら彼は再び詠唱を始めた。
「今こそ我が声に耳を傾け、力を貸し給え!」
そして結んでいた印を解き、噛みつかれた腕をそのまま突き出した。
「【滅】!」
『ぐああぁぁぁぁーーーか、体が、私の、カラダが! くっ、だが忘れるな四家の者よ。例え此の身が朽ち果てようとも、魂だけは滅びぬ。久遠の時が流れようとも、必ずや貴様等に復讐を……がああああああぁぁぁぁぁぁーーーーっ!』
それが鬼の最後の言葉だった。封じられていく様を見ながら光源氏は苦々しく呟く。
「ちっ、討ち漏らしたか。私も未熟だな。帝になんと報告したものやら」
「光様!」
「お、そういえば君は無事だったかい?」
駆けよってくる少女に光源氏は目線を合わせる様に腰を下げた。
「私は大丈夫です。それより光様は?」
「大丈夫、私は少し腕を噛まれただけだ」
「それは立派な怪我です。見せて下さい、私の癒しの『力』で今直ぐ……」
「落ち着きなって。君の能力は私が持っているから後ほど自分で治す。それに、私が此処に来た本命は鬼の退治では無い」
「えっ、それは?」
きょとんとする少女に相変わらずその美しい笑顔を見せながら、光源氏はその手を差し出して恭しく頭を下げた。
「お迎えにあがりました。紫姫」




