こんやく
いちゃついてます。
「ヘミス様」
「ああ、来たね。ミファ」
ヘミス様が振り返って微笑む。
婚約してからひと月。私は彼を名前で呼ぶ権利を得て、彼に愛称で呼んでもらえている。
これ以上の喜びはない。
私は浮き足立ちそうな自分を抑えて、遠慮がちにヘミス様の方へ向かう。
ソファに座るヘミス様の横を通って、テーブルを挟んで向かいの席に座ろうとすると、手首を掴まれた。
「え?」
「そっちへ行かずとも、こちらに座ればいい」
そう言って示した先は、彼の隣だった。
「えっ……そ、それは……その……」
隣!この、決してそこまで大きいわけでもないソファに二人で!
トキメキ過ぎてボロが出るかもしれない。いや、しかし隣に座りたい。密着したい。そんなラブラブカップルみたいな前世でもやらなかったことやってみたい!!
私が狼狽えているのをヘミス様はしばらく眺めたあと、不意をつくように軽く掴んだ手首を引いた。
バランスを崩した私をうまいこと誘導して、隣に座らせる。
ヘミス様は予想外に強引だ。こうした恋愛的なことはあまりしない人だと思っていたが、違ったみたいだ。
緩みそうな頬を引き締め、照れたように瞳を伏せる。
「照れている?」
「あ、当たり前です……」
う、この近さで囁くのやめて。あー、駄目だ。抱きつきたい。その胸に顔を埋めてぐりぐりしたい。好きだ。その悪戯っぽい顔ものすごく好き。もっとして欲しい。
やはりボロが出そうだ。私のキャラ的にも、これ以上このままでいない方が合ってる。
「や、やっぱり私……!」
立ち上がりかけた腰は、あっさり引き寄せられて元の場所へ。
と、思いきや、先ほどより近い位置に座らされる。太ももと太ももがもうすっかりくっついている。その腕が私の腰に回る。死ぬ。
「どうして?嫌?」
「いいいやじゃないですけど…………」
何これ何これ何これ!こんなことするの!?
だって前世ではこんなことするタイプでは全くなかったし、今のヘミス様だって、恋愛には興味ありませんって感じで。恋愛ごとに持ち込もうとする輩を煙たそうに追い払っていたはずだ。
私は、何を試されているんだ!?
そもそも、浮かれて頭から抜け落ちていたけれど、こんなにあっさり婚約者になれるのもおかしい。
確かに控えめで頭も悪くないという彼の好感度を上げるためのポイントはついた。しかし、それだけだ。他には何もやっていない。
あれがほとんど初対面で、しかもあっさり途中で終わってしまった。それですぐ好かれたと思えるほど、私の頭も悪くない。いや、一旦思ったけど。
これはどう考えても裏がある。なにせヘミス様だ。頭が良くて体術にも長けているくせに、権力争いに巻き込まれたくなくて奔放に振舞っては周りの頭を悩ませているところからも、一筋縄ではいかないことは明らかだ。
私はちらりと彼の顔を伺う。なんだか、すごく楽しそうだ。本当に楽しんでいるのか、何かを考えた上での演技なのか判断がつかない。
試されているとすれば、なんだろう。
やはりお父様のことだろうか。今まで平凡そのものだった我が家が急に力を持ったのは、やはりまずかったか。
諸外国と取引があることで、スパイだと疑われている可能性もある。
私の後ろ暗いところといえば前世のことだけなので、その二つであればいくら叩かれても埃一つ出ない。
あ、しかしまてよ。事業のためとは言え、あまり法律的にはよろしくない手段をとったこともあった。
それまでの我が家には縁がなかったが、貴族であればやっている人も少なくないためあまり深く考えていなかった。けれど、もしかすると暗黙の了解のようなものを逸脱してしまっていたかもしれない。その中で、王族に不利益のかかる何かに触れていたとすればもっとまずい。
それらに関して私が何か知っていると思い、結婚することで我が家の内情を探ろうとしている可能性がある。ヘミス様のハニートラップとかすごい。誰が相手でも引っかかるんじゃないか。
ただ、私が最も恐れているのはそれではない。
「ミファ?何を考えているの?」
「……え、……いいえ、何でもありませんわ」
「へえ?」
私が首を振るのを見て、ヘミス様は目を細める。
「何でもいいけれど、僕といるんだから、僕のことだけ考えていて」
甘い微笑みで、甘く囁かれ、私は思わず震えた。
もういいんじゃないか。ヘミス様の目的がなんであっても。だってもうすごい素敵だし。何考えててもかっこいいし。探るためだったとしても婚約してるし。何がなんでも結婚はするし絶対逃がさない……はっ。
流されかけた思考を慌てて戻す。
駄目だ。一番まずい状況だった場合、私がどう頑張っても結婚できない可能性がある。
それは、彼も前世を覚えていて、私にも気づいていた場合だ。
それなら彼の目的は考えるまでもない。私への復讐、もしくはからかい。
どちらも彼に結婚する気は無い。もしそうであれば彼のことだから、必ずあらかじめ抜け穴を作ってあるだろう。
彼に本気を出されたら太刀打ちできない。私の頭のレベルは前世と合わせてもそれほど高くないのだ。
「あの……ヘミス、様?」
「ん?」
「ええと……ヘミス様は、どうして私を婚約者に選んでくださったんですか?」
「ああ……そうか。気になる?」
やっぱり楽しそうに見える。からかうようなその瞳に、悪意は見えないように思う。
「はい……」
「そうだねぇ。まぁ、好みだからだよ」
あっけらかんと言う彼。
「……」
「あれ、信じてない?」
「……ヘミス様は、そんな理由で物事を決める方ではないでしょう」
ヘミス様の瞳が、すっと細められた。からかうようなものから、観察するようなものに。
やっぱり、何かあるのだろうか。緊張しながら、なんでもないような顔で次の言葉を待つ。
「……君の方は、どうなの?」
「え?」
「君はどうして僕の婚約者になってくれたの?」
「それは、……ヘミス様が素敵な方だからです」
「そう?君は僕を買いかぶっているようだけど……まぁ、それなら同じじゃないか」
「同じ?」
「そうだよ。僕が君を婚約者にしたのは、君が可愛いから」
「……っ」
可愛い、だなんて。
リップサービスとわかっていても、顔に熱が集まる。
そんなこと、家族以外に言われたことがない。前世の自分であれば尚更だ。
いくらか顔のキツさのない今だって、ろくに他人と交流も持たず父の仕事をせっついてばかりで、そんなことお世辞にも言われる機会がなかった。
「ふふ、やっぱり、可愛い」
この方は、私を耳から殺そうとしている。
今の声で脳の細胞が数十個ほど死滅した気がする。
「……そんなこと、ありません」
「いや?可愛いよ?」
「…………殿下は私をどうなさりたいんですか……」
「別に?ただ感想を述べてるだけ」
私はもう耐えきれず顔を伏せた。
「殿下は本当に現実の人間なんですか……?」
「ええ?何それ、酷いな。こうやって触れてるんだから、現実でしょう。というか、呼び方が殿下に戻ってるけど」
「だって……顔がよくて頭が良くて笑顔が素敵で私をさらっと褒めてくれて……って漫画の王子様ですか!」
「買いかぶりすぎだねぇ」
「……」
「……?」
私は、黙って彼の顔を見た。
彼は珍しく自分の反応のおかしさに気づいていないらしい。首を傾げて私を見る。
この世界に、漫画はない。
だから正しい反応は、「まんが?何それ?」だ。
ゆっくりとした動きで、彼の手をするりと抜け出す。
「……ミファ?」
「…………すみません、突然体調が悪くなりましたので、今日はこの辺りで失礼させていただきますわ」
「……それは、気づかなくて申し訳ない。直ぐに送らせよう」
彼は私の様子に訝しげにしながらも、申し出を受けてくれた。
彼の従者に案内され、私は王宮の馬車で屋敷まで送り届けられた。
どうしよう。
彼には記憶がある。間違いない。
そして私が漫画という概念を知っていても、すぐには疑問を持たない。それはつまり、少なくとも私が日本の前世を持っているということを、知っているということだ。
どうしよう。
まず、間違いなく、美麗だということがばれる。
もしくは、ばれている。
もしくは、今日突然帰ったことでばれる。
どうしよう。
嫌われる。振られる。会えなくなる。
駄目だ。そんなの、もう、耐えられない。