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93 盗まれたM

 まずは発声練習。「あ・え・い・う・え・お・あ・お」から「か・け・き・く・け・こ・か・こ」と続けていき、それを繰り返す。大きく口を開いて発声する事で、表情筋を和らげ正しい発音で話す事が出来るようになる。

 本来、アメリカで演技指導を受けるならば「英語」を話せないというのは問題だった。今回は特別で「日本語」しか話せないゆきひととパステルの為に、ヴィオラは日本人向けの指導スタイルに合わせていた。

 次に柔軟運動。アイドル活動を終えてからも筋トレやストレッチを欠かしていなかった二人にとっては関門にならず、難なくクリア。パステルは得意げに百五十度開脚。その後にゆきひととヴィオラが百八十度開脚を披露。パステルは驚いて相棒と熟女の体の柔らかさに見とれてしまっていた。

 マーティンは指導の様子を撮影用のカメラで映像に収め、アンサリーはスケッチブックで独特な空気感の様子を絵に描いていた。カメラマンとメイク担当のイラストレーターは演技者二人の空気を壊さず、穏やかで静かな時間が流れていた。


「基礎は出来ていますわね……流石です。では実際に演技をしてみましょう。今回の撮影に台本はございません。セリフを覚える必要はありませんが、あまりに演技が拙いと浮いてしまいます。これからわたくしの演技にアドリブで返して下さい」

 

 ヴィオラは足をゆっくりと開く。視線を落として数秒間俯いた後に、床を「ドシッ、ドシッ」と踏みつけ次第にスピード上げていく。妖怪の様な立ち振る舞いで恐怖をまき散らし、ゆきひとの胸倉を掴んだ。


「アンタァァッ! ワタクシの大事な、大事な「M」を奪ったねっ!!」

 

 迫真の演技だった。金縛りに遭うようなヒリヒリとした圧に、ゆきひとは動けない。アドリブで返す……自由で簡単に思えるが、咄嗟の判断で自然な演技をするのは難しい。男は身をもって体感した。何も浮かばない。言葉が出てこない。この切羽詰まった熟女にどう返せばいいのか。答えが出せずに思考が飛んでいくのだ。そんな押し迫る演技に割って入ったのは、ピンクが光るポニーテールの女だった。


「マダム! その「M」とは、マネージャーの「M」でしょうか? それともマダムの「M」でしょうか?」

 

「違うわっ! わたくしの大事な「M」はマゾの「M」よっ!」


「バレちゃあしょうがない……! 婦人のマゾは私が頂いたわ!」

 

 手を叩くヴィオラ。


「パステル様は合格ね」


 何も出来なかったゆきひとは落ち込んだ。

 演技がどうこう以前に、不測の事態に行動出来なかったというのが、自戒の念として心にのしかかった。


「最初の内は仕方ないですわね。では静止した状態で始めましょう。今回はゆきひと様のみで。ゆきひと様……わたくしにババァと言いなさい」


「ババァ……ですか?」

 

 突然の「ババァ」というフレーズに、ゆきひとは萎縮した。演技とはいえ女性に「ババァ」と言うのは勇気がいる。「おじさん」は負のイメージがあまりないが、「おばさん」は侮蔑発言と取られるケースが多い。年齢を尋ねる場合、男性の場合は大丈夫だとしても、女性に年齢を尋ねるのは失礼とされる。「ジジィ」と「ババァ」に関して言えば、あまり差はないが。ゆきひとはヴィオラとダニエルの会話を思い出していた。ドⅯのヴィオラに対して、ドSのダニエルは容赦なく「ババァ」と発言していた。ドⅯの人間にとって「ババァ」という言葉はマイナスではない。ヴィオラにとっては「魔法の言葉」なのだ。

 思考のドロ沼にはまって中々演技を始めない男に、ヴィオラは痺れを切らした。


「わたくしに「ババァ」と言えないのですか? 貴方はローズ様と戦うのですよね。言葉で攻撃出来ないのに物理で攻撃出来るのですか? 気持ちで負けてしまいますわね。肉弾戦というものはコンマ一秒の躊躇いで勝敗が分かれますよ。そんな覚悟で勝てるのですか?」

 

 ヴィオラの発言はもっともで、こんな具合ではまともな肉弾戦を行えない。基本的にクレイとの稽古の時と問題点は同じ。そもそも(体の性が)女性相手と戦えないという以前に、男には攻撃性が足りていなかった。非道な役を受ければ現実には出来ない事を実演しなければならない。例えハラスメンとだとしても実行に移さなければならないのだ。

 ゆきひとは拳に力を入れる。

 そしてヴィオラを見つめた。


「……ババァ! ……好きだ!」


 ヴィオラは顔を抑えて座り込む。

 体を震わせていた。


「わたくしが望んだモノではないけど。……これはこれでいいかも」

 

 マイナスイメージの「ババァ」という言葉と、プラスイメージの「好き」という言葉が織り交ぜられ、二層に重なるパルフェの様な甘美を生み出していた。

 ヴィオラは未だかつてない新感覚に襲われ息切れしている。予想斜め上の発言にドMハートはダイレクトアタックだった。

 ヴィオラは勢いよく立ち上がる。


「いいわっ! 今のは悪くないけれど、「好きだ」を添えるのは敬語を加えるのと同じ。わたくしに「ババァ殺すぞ!」とお言いなさい!」


 ここまで来ると演技指導というよりSMプレイ。

 ヴィオラのドMが加速してしまっていた。


「さぁ! 貴方の内なる「S」を呼び覚ますのです!」


 そんなことを言われたら男も燃え上がり止まらなくなる。


「ババァァ!! ……殺すぞ!!」


 ヴィオラは胸を押さえて苦しんだ。勿論本人の体は喜びで満たされている。

 ゆきひとはヴィオラに乗せられた格好だったが「ババァ・殺すぞ」という単語を、気持ちを込めて言い放った。対人相手は初体験。本来であれば罪悪感を感じる所だが、嬉しがる熟女を見て「S」に目覚めそうになっていた。


「ゆきひと様……一皮剥けましたね。恐らく貴方は「M」でしょうが、これからは「両刀」でやっていけるかもしれません。……今日の演技指導はこれで終わりに致します。お疲れ様でした」


「あ、ありがとうございました」

 

 ゆきひとは自分のババァ発言の衝撃を引きづりながらも、ヴィオラに礼を言った。この一連の流れを見ていたパステルが呆れていたのは言うまでもない。

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