80 失われたD
十二月二十四日。夕刻。
クレイの高祖父、バスタードの誕生会前日ということもあり、その一族のほとんどがバルムーンラード病院へ出払っていた。広い豪邸内にいるのは、ゆきひと達一行とクレイの親戚である未成年の少女達。それぞれ疎らで陣取り、時間を持て余していた。
ゆきひとはダイニングのソファで体を休めつつ、行ったり来たりしながらスマホで通話しているクレイの様子を見ていた。そわそわしており落ち着きのない動き。これから祝い事をする雰囲気ではなかった。
ゆきひとの隣にいるセラは無表情でスマホをいじっており、フリージオはタブレットを操作している。他の女子達は、会話をしながらゆきひとの方をちらちらと見ている。日本の女子達同様、直接話しかけては来ない。
落ち着かない時間は、男にとって、それはそれはとても長い時間だった。一分一秒が重く禍々しい。次第に体を動かしたい、誰かと話したいという欲求に駆られていく。しかしクレイは通話中、セラは風邪気味で喉を痛めている。少女達はなんとなく話しかけ辛い。フリージオは逆に面倒なので除外。
もうここは耐えるしかなかった。
そんな状況が一変したのは、日が変わり零時を過ぎてから数分後。クレイがスマホを落とした瞬間だった。
「お前達! 今から支度して病院に向かうぞ!」
クレイの声はただ事ではないというような強い口調だった。その場にいた全員が即座に準備をして駐車スペースに向かう。高級車、キャンピングカー、ワゴンなど、様々な種類の車が揃っている。クレイはこめかみに手を当て(ナノマシンの機能を使い)ワゴンのオートロックを解除。そのまま運転席に乗り込んだ。ゆきひとは助手席に促されたので助手席に、他の同行者は後部座席に乗り込んだ。
クレイは真剣な表情で運転していた。
暗闇とネオンが交差するバンコクの街並みを、突き進んでいく。時間も時間なだけに、闇は深く、ネオンの光は異界への入り口の様な不気味な色合いを見せていた。何が起きたのか、そんな事を聞く人間はいない。言わなくても、全員がそれをわかっていたのだ。
バルムーンラード病院に着き、ワゴンは急ブレーキで止まる。クレイは勢いよく運転席のドアを開き、一人駆けて行った。助手席や後部座席を確認もせずに。
「バスお祖父様!」
それは悲痛な叫びだった。
どれだけ大事な存在だったのかがわかる、そんな叫びだった。
しかしその声は届かない。
病室のベットに横たわる老年の男は、もう既に息を引き取っていた。
クレイの高祖父バスタードは、百五十一歳の誕生日にこの世を去ったのだ。
クレイは悲しみに暮れていた。
亡くなった男の近くにいる数人の老女も、ハンカチを目に当て悲しんでいた。
ゆきひとはセラの手を握りながら病室の入り口でその光景を目にした。
手を口に当て膝をつくクレイ。そのクレイの衝動から、痛いほどの激しい感情が伝わってくる。
ゆきひとは表情を曇らせた。クレイの気持ちが、悲しい激情が、過去の自分と重なったのだ。フラッシュバックして思い出されたのは、祖母との死別。当時二十歳だった頃、亡くなった祖母を前に、泣きながら「ばっちゃん!」と叫び続けた。
自分を独りにしないでくれと。
葬儀はゆきひと一人で行った。遺言書にはゆきひとの父方の家族に連絡はせず、密葬にしてほしいと書かれていた。その為、父親には連絡をしなかったが、母親には連絡した。だが母親は葬儀に現れなかった。祖母が亡くなったにも関わらず、母親にとっては実母にも関わらず、一時ですら姿を見せなかった。出棺の間は、心が何処かに飛んでいた。祖母を失った悲しみ。葬儀に来ない母親に対する憎しみ。これからどうやって生きて行けばいいのかという不安。すべての重い感情がごちゃ混ぜになり、途方に暮れていた。結局の所、祖母はある程度の資金を孫に残しており、ゆきひとは何とか生きていく事が出来た。しかしこの葬儀の出来事は、母親に対する決別の決定打となってしまったのだ。
「……ゆきひとさん」
「どうした? セラちゃん」
セラの声で我に返るゆきひと。
「ごめんなさい……気分が悪いので、裏で休んでてもいいですか?」
「俺もついていこうか?」
「……お願いします」
バルムーンラード病院のロビーは電気が落ちていたが、壁はガラス張りで外からの光が染み込んでいた。医師や看護師が行き交っていたり、数人の女性達が壁沿いに座りながら意気消沈としている。本来、こんな時間に来る事は敵わないはずだが、亡くなった男が特別な存在だからか、それが許されていた。そもそも病院で大掛かりな誕生会をするという事自体、常識ではありえない。それだけバスタードという存在が異質だったと言う事なのだろう。
ゆきひととセラは一階のソファに並んで座る。
セラは震えていた。
ゆきひとの方は見ずに、虚ろな目で前を見据えていた。口を覆うマスクも相まって表情の全体像は見えてこない。悲しんでいるのか、怯えているのか、何を考えているのか。夫婦には部外者からはわからない関係性があると言われているが、それは家族兄弟も同じ。それを知っているからこそ、ゆきひとはセラに声をかけられなかった。
男は少女の震えた冷たい手を、ただただ離さないように握りしめる事しか出来なかった。




