79 Bセッション
二日後の正午。
激しく流れる雲の下、豪邸周囲のグリーンの芝生は風に流され波をつくっている。ゆきひとはそんな解放的な場所でストレッチや走り込みなどのトレーニングを行っていた。悶々とした気持ちを発散するかのように、無言で淡々と筋トレをこなしていく。ボディガード無しでの行動は、豪邸敷地内までという話になっていた。メンズ・オークションの時に比べたら、遥かにマシな状況だったし、クレイに精神的負担をかけたくないという気持ちもあり、ゆきひとは大人しく従った。
ゆきひとがアブトレーニングの途中でぼんやりと雲を眺めていた時、二振りの剣を携えたクレイがやって来た。
「稽古をつけてほしいと言ったな。相手になってやる」
クレイは赤い柄から伸びる鋭い刃の剣を、ゆきひとの傍に置いた。クレイも同じ剣を持っている。
突然の事に驚くゆきひとだったが、約束を覚えてくれていたことの嬉しさもあり、赤の剣を持ち身構えた。
「よろしくお願いします!」
「真剣だ。本気でかかってこい」
お互いに剣の鞘を投げ捨て、間合いを取って歩を進める。二人の中心点から円を描くように歩く。屈強な男の剣を持つ手が震えている。重みが直に伝わってくるのだ。手汗が止まらない。対人戦はエジプト以来で、思い出されるのはローズによる襲撃。あの時は手も足も出なかった。
真剣の勝負とはいえ、練習試合で怯んでいる場合ではない。
麗人が枝を踏む。それを合図に、男は駆けこんで剣を振り下ろした。それを麗人は華麗に剣で弾く。男は勢いに任せて連続で切り込んでいく。それはぎこちない動きだった。必ず相手がガードしてくれるだろうと考えながら攻撃している様な、そんな動作だった。
無論麗人に刃がかすることはなく、剣撃は全ていなされていく。
「どうした? 殺す気でかかってこないと、私は倒せないぞ?」
その言葉に釣られて、男は踏み込んで剣を前に突き出す。
麗人は瞬時に避け、自身の持つ剣を相手の剣に滑らせ、火花を散らしてゆく。その刃は切羽で止まり、二人は至近距離に。麗人は男の太い腕を掴み、剣の柄を男の握りこぶしに叩きつけた。男は手を抑えて剣を手放してしまう。
そして麗人の持つ刃は、男の首筋で止まった。
太い首からは滝の様な汗が流れた。
「一度死んだな」
クレイは剣を鞘に収める。
「クソ……俺弱えぇ」
「久しぶりの対人戦では悪くない。今のは真剣を目にして、動けるかどうかを見た。怯んで動けなくなる様では困るからな。つまり、合格だ。……次は、殴り合いの喧嘩をしよう。立て、ゆきひと」
クレイはボクサーの構えになる。
「何か特定の格闘技経験は?」
「俺は特に……「K-1」は好きで見てたけど」
「ならば知っていると思うが、私は「ムエタイ」を得意とする」
「ムエタイ」はタイ発祥の格闘技で、国技に指定されている。日本ではタイ式ボクシングと呼ばれ、両手、両肘、両足、両膝を用いて相手と競い合う。
「では、ゆくぞ」
「ちょっと、タンマ!」
麗人は、立ち上がろうとする男の鋼の腹筋に拳をねじ込む。
「うぐっ……」
男は腹部を抑えた後、次の攻撃に備え、顔を両腕で隠した。
麗人は留まることなくパンチを繰り出す。真剣の勝負とは真逆の格好だ。
ガードしているとはいえ、腕に対するダメージは蓄積されていく。「K-1」の試合でコメンテーターは「パンチだけではなく足も使わなくてはダメだ」と言っていた。ハイファミのゲーム「アスリートファイターⅡ」でも、上段は当たらなかったが、下段はよく当たっていた。
ここは上段パンチではなく、下段キックだ。
男の脳内は下段キックで埋まってゆく。
「セイヤッ!」
男の蹴りは、足を前に突き出すだけで蹴りとは言えない勢いだった。
普段蹴りなどする機会はない。
何回も放つが、当たる要素は一ミリも無かった。
麗人は男の謎の動きに激しい猛攻を止めた。
「トイレでも行きたいのか?」
「ち、違う! 上手く下段蹴りが出来ないんです!」
「蹴りって言うのは、こうやるんだっ!」
麗人は男目がけて飛び跳ね腰を回転させながら回し蹴りを放った。全体重をかけたその蹴りは、鬼神を倒すかの如く力強さで、男の体は軽々と吹き飛んだ。
「……っ」
地面に叩きつけられた衝撃で動かない体。
今の回し蹴りは本気だった。
そう思わざるおえない破壊力が男の体を襲ったのだ。
麗人は男の胸倉を掴む。
男はぐったりとしていたが、目の輝きは失われていなかった。頭はもう回っていないが、このままやられっぱなしはゴメンだと、歯を食いしばっていた。
左手を握りしめる。その握り拳には勝機が詰まっていた。それを麗人の顔めがけて解き放つ。
「ぐわぁっ」
麗人は仰け反った。芝と土の塊が視界を奪ったのだ。
男は息を切らしながら立ち上がる。
「ご、ごめん」
麗人は目の土を振り払う。
その、眼光は鋭い。
「ごめんだとっ!?」
せっかく立ち上がった男は再度蹴りで吹き飛ばされた。
「はぁ、はぁ……」
「お前は、今、せっかくのチャンスを見逃したんだ!」
「……悪かった」
「謝ってばかりだな。稽古の続きの前に話をしよう。貴殿はローズに勝ちたいんだよな?」
「あぁ、俺は勝ちたい」
「私の体は女だ。それはローズも同じだ。しかし、貴殿の体は男だ。とても逞しい肉体を所有している。人体の構造上、男は女よりも強い。鍛錬を積めば、私よりも、ローズよりも、強くなるだろう。だが、貴殿は女相手に躊躇してしまう。それでは体を鍛えても一生勝てん!」
「俺は女だからって……いや男……? ……とにかく、なめてるつもりはない! 二人共格上だと思っている!」
「こないだの事で混乱させてしまったようだな。私は、男と呼ばれようが、女と呼ばれようが、そんな事は気にしない。私にとって嫌なのは、トランスだという事を茶化したり、面白可笑しく話したり、会話が一々セクシャルの話で止まって前に進まなくなる事だ。セラに姉と呼ばせているのは、そういうのが煩わしいからだ。貴殿には友として相対してくれたことに感謝している。だから呼び方なんぞ気にしなくていい。自然に接してくれればそれでいいんだ」
「……あいわかった」
「……それはそうと、ローズの事はどう思う?」
「並外れた戦闘能力だと思います」
「そうだな。恐らく私よりも強い。彼女のセクシャルはどう思う?」
「レズビアンでは?」
「そうかもしれないが……私はトランスジェンダーではないかと思う。思い当たる節はないか?」
ローズと接触したのはメンズ・オークションのステージと、エジプトでタンナーズが用意した寝室の中。印象的な外見で、独特なフォルムのヘッドマシーンをかぶり、ブロンドの三つ編みを垂らしている。スレンダーな体形は、人間離れしたアクロバティックな動きを可能にし、細い腕からは想像出来ないほどの怪力を発揮する。セクシャルは、異性に興味ないようだが男体には興味を示していた。
「……そういえば、俺の体をあちこちさわって見てたな」
「もしかしたら男の体に憧れているのかもしれない」
「クレイもそうなのか?」
「……男や女も様々な考え方があるように、セクシャルマイノリティにも個々の考え方があり、趣味嗜好もそれぞれ異なる。皆が皆、考え方が同じ訳ではないし、仲良しという訳ではない。私は親から授かった体にメスを入れる気はない。それが私の生き方だからだ。……ローズに勝ちたいなら、彼女のことは男だと思え……いや熊だ。熊だと思え」
「熊?」
「森で熊に襲われたら、性別を気にするのか?」
「……逃げますね」
「逃げるな!」
「は、はいっ!」
「……鍛錬を積めば熊をも倒すことが出来る。……怯むな! そして熊を倒せ! ゆきひと!」
屈強な男は、息を吐きながら笑った。何かを越えられそうな気がしたのだ。男を前向きにさせる力が麗人の言葉にはあった。言葉には言霊が宿るのだ。
二人の鍛錬は夜まで続き、日が変わっても、悪天候でも、それは続いた。男は麗人の稽古に喰らいついた。殴られても蹴られても立ち上がった。不思議な動きの下段蹴りも、まともに繰り出せるようになった。キックボクシングも教わった。
男は、日に日に戦える男へと成長していった。




