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78 浴場X欲情

 ダイニングが広いとなると、やはり浴室も広い。湯船は数種類あり、サウナルームも完備。架空生物の石像から、お湯がじゃぶじゃぶ出ている。四、五人まとめて入れそうな広さは開放感抜群。天井も高い。

 ゆきひとは貸し切り状態の大浴場にテンションが上がってしまう。一分間仁王立ちして室内構造を確認した後、腕立て伏せ、開脚してストレッチをする。一通り筋トレに満足したら、シャワーで体の汚れを洗い流す。腕、大胸筋、腹筋、太ももを入念に洗い、湯船に静かに足を入れて、ゆっくりと浴槽に浸かった。


「はぁ……やっぱり風呂はいいなぁ……」


 体を大の字に伸ばせる広さ。

 泳ぎたくなってしまう。

 いつもは半身浴だが、たまには全身浴で体中を暖めるのもいい。頭に乗せていたタオルを広げ、空気を包み込み、ぶくぶくと泡を浮き上がらせた。


「子供ん時、風呂場でこうやって遊んだっけ、一人で……」


 ゆきひとは元々四人家族。親が離婚して母親との二人家族に。そして母方の祖母が加わり三人に。その後、母親がいなくなりまた二人に。祖母が亡くなって独りに。少人数の家族でも波乱万丈な人生が巻き起こるのだから、クレイの様な大家族であれば、より複雑になるのは容易に想像が出来る。

 今の所、目立った問題は見えてこないが、親戚に婚約関係なのを言わないあたり、トランスだという事をストレートには言っていないのだろう。空港でイライラしていたのも、そういう事情が原因で、本当は婚約相手など連れてきたくはなかったのだと想像出来る。

 この二日間で様々なクレイの表情が見えてきた。

 不機嫌なクレイ。

 慌てるクレイ。

 ホッとして落ち着いたクレイ。

 婚約関係にならなければ、きっとクレイの複雑な心境に気づくこ事は出来なかった。それだけ人を見ていなかったという事なのか。

 自分はやっぱりまだまだだなと、そう思ってしまう。

 ゆきひとは色々考えすぎて項垂うなだれる。

 そのままブクブクと湯船に顔を沈めていった。

 

 その刹那。

 ガラガラガラッと、浴場の引き戸が勢いよく開いた。


「ゆきひとー! 僕と一緒にお風呂入ろー!」

 

 ハイテンションなフリージオの声に、ゆきひとはガバッと起き上がる。


「な、何入って来てるんですかっ!」


 そう言いながらも、視線は王子の体に向く。

 タオルを胸から膝まで巻いており、自称王子のスタイルは完全に女子である。

 胸を隠していることにホッとした気持ちとガッカリした気持ちが同時に押し寄せ、何とも言えない感情をゆきひとの胸に呼び起こした。


「男同士仲良くしようぜっー」


「いやいやいや!」


 ヴィーナとは違う魅力的なスタイルのフリージオ。

 少し男っぽいとはいえ、見た目は美女。混浴とあまり変わらない。

 京都の旅館では不甲斐ない所を見せたくなくて、泣く泣くヴィーナとの混浴はスルーした。スルーして男の尊厳を守ったというのに、こんな形で混浴して尊厳を破ってしまい、やっぱりヴィーナの入浴シーンを見ておけばよかったと、男は深く後悔した。


「何で逃げんだよ!」


「逃げてないです!」


 だが、体は確実に距離を取っていた。

 フリージオは歩きながら両手で目を隠す。

 何事かとゆきひとは戸惑う。


「だーるーまさんが転んだっ!」


 フリージオのメデューサアイ。

 それに固まるゆきひとは、心の中で「動けんっ」と呟く。

 

「ねぇ、知ってる? 体内のナノマシンは地域ごとに生産国が違うんだよー」


 フリージオは浴槽に足を入れて座る。


「し、知らない」


「ゆきひと君のは多分日本製。ヴィーナ社長のはアメリカ製。タイ国民も大体がアメリカ製。フランスのオネット弁護士はEU製。僕のナノマシンもEU製」


 EUとは、欧州連合のことで、ヨーロッパの地域統合体を意味する。

 EU加盟国に入るフランス人のオネットとフリージオが、EU製のナノマシンを利用するのは自然な事と言える。


「つまり?」


「ナノマシンには市民ナンバーが記録されていたり、戸籍の代わりになる機能もあるから、とても重要な機械だって言いたかったの。大事な事だから、もう一度言おうか?」


「今の説明でわかりました」


「まぁ、落ち着きなって。肩揉んでやるよー」


「……どうも」


 フリージオはゆきひとの後ろから肩を掴む。ゆきひとの鍛え上げられた広背筋が、鬼のように笑っている。「よしっ」と気合を入れたフリージオは、鋼鉄の肩を揉もうとする……が、上手く揉むことが出来ない。


「肩、かたっ! あ、ギャグ言ってる訳じゃ無いよ」


「知ってる。言いたかったのはナノマシンの話だけか? ……ですか?」

 

 ゆきひとはついタメ口で話してしまった。


「いいよ、タメで。君より二歳年上だけど」


「タメで話したいのか話したくないのか、どっちなんですか」


「どっちでもいいよっ! そんなことよりゆきひと君に大事な話がある」


「大事な話とは?」


「この結婚生活というしがらみから、連れだしてあげるって言ったらどうする?」


 結婚生活というしがらみから抜け出す。

 ゆきひとはたらい回しの結婚生活を送ってきて、途中でやめるという発想を抱いたことがなかった。周りに流されて、何時の間にかそれが当たり前だと思っていたのだ。習慣って怖い。改めてそう感じていた。


「……どういう意味だよ」

 

「僕は魅力的な人が好きなんだ。……だから結婚というレールに沿って生きてゆくんじゃなくて、もっと色んな世界を見せてあげたい。君を更に魅力的な男にしたいんだ」


「王子に何のメリットがあるんだ?」


「皆が皆、自分だけの利益で動いてるとでも思ってるの? お子ちゃまだなー」


「う、うるさいっ」

 

 フリージオはゆきひとの髪をクシャクシャにして、ぽんぽんと叩いて遊んだ。


「ぽんぽんするな」


「えへへー」


 大浴場から出た屈強な男は、紺のタイパンツ、上は白いシャツに着替えた。その服装で指定の客間まで向かう。客間の扉を開くと、オレンジ、ブラウン、ホワイトのモダンカラーがお目見えし、ふんわりとアジアンな香りが、部屋の外まで流れてきた。旅館や高級ホテル並、そこまではいかないにしても、違うベクトルでリッチな雰囲気が溢れていた。白いベットは見るからにふかふか。天上から流れる薄いレースカーテンや、仄かなオレンジ色の蛍光灯が、非現実的な空間を演出している。

 ゆきひとは、勢いでふかふかなベットにダイブした。


「やっぱりふかふかだー」


「明かり消すよー」


 蛍光灯の電源スイッチの近くにアイツがいた。

 

「また王子かよ!」


「一緒に寝ようよー。そろそろ人肌が恋しくなってきたんじゃない?」


「……」


 ゆきひとは否定できなかった。……と言うより、フリージオのテンションに疲れていた。クレイのペースが乱れるも頷ける。これだけ掴みどころのない相手ならば仕方がない。


「ゆきひとのパケモンゲッツだぜっ!」


「その下ネタ笑えないです」


「下ネタなんて言ってないよー」


 知らないふりをしているのか、本当に知らないのか。


「ねぇねぇ、ゆきひとゆきひと。さっきの話覚えておいて。いざとなったら、僕と一緒に逃げちゃおうよ」

 

 ゆきひとは抵抗するのをやめて、そのまま眠ることにした。

 明かりを消したフリージオはゆきひとに寄り添って眠る。

 香水の匂いような、かぐわしき乙女の匂いがする。

 ふんわりと木苺の様な胸も当たる。

 眠れない。羊を数えても眠れない。

 ゆきひとは欲情してしまいそうな自分を必死に抑えた。

 そんな状況の中で「一緒に逃げちゃおうよ」という言葉が、男の頭の中をグルグルと回っていた。

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