142 ダメンズターン
羽田空港を利用するのは日本に来て以来だ。そこまで思い入れはないが、見渡せば懐かしさが蘇った。
ふと、春希と出会った場所が気になった。その場所に目をやると、俯いて座り込んでいる男性がいた。どことなく雰囲気が春希に似ている気がした。
……まさか今こんな場所にはいないよな?
そう思いながら近づくと、俯いて座り込んでいる男性と目が合った。
「オォォズゥゥゥゥゥ」
春希だった。
顔を腫らし長時間泣いていたような痕跡があった。
その顔で春希は僕に抱き付いてオイオイと泣きだした。
「どうした春希? 泣いているのか?」
「オォォォォォオズウゥゥ、うぅぅぅぅうぅぅ……」
「何があった?」
「……ごめん、ひっく……俺、俺、勝手な事してごめん……もう何処にも行かないでくれよぉぉぉおぉぉ」
「取り敢えず、別の場所で話そう」
「……うん。うぅぅうぅぅうぅ」
「大丈夫だから。春希、落ち着いて。よしよし……」
春希を落ち着かせている間に、ニューヨーク行きの便が終わってしまった。結局、僕は日本を離れる事が出来なかった。
僕も美春の事をとやかく言えないな。ダメ男を放っておけないのだから。
居酒屋の一室を借りて、グズっている春希の話を聞いた。
テレビの取材が終わってから、美春はテレビ関係者とのコネクションを持ち、自分を売り出していった。すると美春はテレビ関係者との飲み会に誘われるようになり、今まで美春がしてきた経理や人事を、春希がする事になったそうだ。
「それで泣いてたのか? それにしても、よく僕が空港に行くとわかったな」
「一週間、空港の前を張っていた」
「……凄いな」
流石、探偵だ。
「三十四にもなって、みっともないとは思ってるよ。でも一人じゃ手が回らなくて。人事とか人を選別するような真似したくねーし。……お前以上の人材が来るとも思えねーしな」
変に持ち上げられると話しづらいな。
「じゃぁ、何でテレビで人材募集なんてしたんだ」
「……ていうか、テレビ見てくれてたんだな」
「……っ」
口が滑った。
「会社を大きくしたいというか、有名になって大きくなりたいっていうのは、美春との共通認識だからさ……。実際、美春は撮影スタッフにも受けが良くて……。でも、セクハラみたいな事も言われてた」
「それが嫌だったのか?」
「だから言ったんだ。そしたら、私は気にしてないし、例えセクハラされてでも売れたいって……。それは何か違うんじゃないかって言ったら喧嘩になった」
「二人が喧嘩とか珍しいな」
「だって枕を要求されたらどうするかって聞いたら、場合によっては受けるっていうんだぜっ!」
「それは確かに……」
美春は年齢の事で焦っているのか?
この場合、止めた方がいいのだろうけど本人の意志が固そうだ。
「喧嘩してから美春は事務所や家に帰ってこなくなった。探偵事務所は俺一人で回さなきゃいけないし、人材募集の件もストップした。それよりも……」
「……どうした?」
「このカセットテープ聞いてくれないか?」
春希はバックの中からラジカセを取り出した。今時見かけない電子機器だ。見るからに年季が入っている。
春希がラジカセのスタートボタンを押すと、荒い音声で女性の叫び声が聞こえた。その断末魔から続いて、濁声の男が聞こえてきた。
『おい! 聞こえるか? 今女の爪を一枚一枚剥いでいる。女を返してほしければ、そこで働いてるロシア人に電話を繋げ。あぁぁロシア人でも別人だったら面倒だな、エーデルという名前のロシア人だ。タイムリミットは今年一杯までだ。それまでに取り次がなければ、この女は殺す。じゃぁな』
テープの切れる直前も女性の悲鳴が聞こえた。
この音声を聞いた僕は凍り付いた。
悲鳴の声は、恐らく美春だ。
ただの痴話喧嘩だと思って聞いていたが、事態は思った以上に深刻だった。
「このテープが、事務所の前に置かれてたんだ。これ……ドッキリだよな?」
「……ドッキリ?」
「芸能人がひどい目に遭って、騙されるってテレビ番組があるんだよ」
いや、これは……。
「美春はもう芸能界で有名になったのか?」
「いや、まだそこまでじゃないけど」
僕はラジカセを隈なく調べた。
「Maid In Japan……」
「日本製がどうかしたか? 別に可笑しくないだろ?」
「……そこじゃない。この時代にカセットテープは古すぎる。西暦二〇十四年だぞ? 日本のテレビ局は、ドッキリにこんなアンティークな品を使うのか?」
とはいえ、日本製であることに引っかかったのは確かだ。何だろう、とても懐かしい感じがする。この懐かしい感覚の元になっているのは、僕が子供の頃に住んでいた家にあった日本製のテレビ。恐らく繋がりはそれだけだ。繋がりはそれだけなのに、何かとても引っかかる。
「手の凝ったドッキリだって、するだろうよ。それに俺はエーデルなんてロシア人は知らない」
「……エーデルは僕だ。オズは偽名なんだ」
「……。いやいやいや、ここは日本だぞ? 日本でこんな拷問みたいな事、ありえないだろ」
途中、カメラや人の視線は感じなかったし、エーデルという名が出た時点で、ドッキリの線は薄い。何より僕も拷問の訓練を受けた事があるし、拷問をした事もある。これはもう間違いない。
「……嘘だよな? お前もドッキリ班の仲間なんだよな?」
春希は多分実際に美春が拷問を受けている音声だと認識している。空港で一週間も待ち伏せしていたのが何よりの証拠だ。この現実を受け入れたくないから、あえて答えから遠ざかっているんだ。
「僕がこのテープの男と電話をすればいいんだな。番号は?」
「……事務所の電話を使おう。録音が出来る。念の為……」
春希の表情は疑念に満ちていた。
僕に対しても疑心暗鬼に陥っているだろうが、今はそれ所じゃない。
僕達は警戒しながら探偵事務所の中に入り、室内の電気を全て点け、侵入者がいない事を確認した。春希はただならぬ雰囲気の僕からも一定の距離で付いて来ていた。部屋のチェックが終わった後、僕は春希に見守られながら、テープの男のものと思われる番号に電話をかけた。
「……」
待ち受け音がやたら長く感じた。
一回目は出ず、二回目をかける。普段は春希の趣味で埋まった団欒スペースの事務所内が、今は緊張感で張りつめている。物音がやたら響くように聞こえ、音の無い時は、静寂がとても冷たく感じられた。
プッという音が聞こえた。相手と繋がったようだ。
「……」
向こうから話してこない。
こちらから話すか。
「お望み通り出てやったぞ。赤毛の男」
『お前、エーデルか?』
赤毛の男の対しての反応は無しか。
……にしても、聞き覚えの無い濁声だ。
「そうだが?」
『実名を晒すとか二流かよ。二流そうな声だ』
「悪いな、現役を退いて随分と経ってるんだ。それよりも、お前が捕らえている女の声が聞きたい」
向こうもカマをかけているような口ぶりだ。
恐らく録音もわかっていて話をしている。
『いいだろう』
男の声が遠のき、女性の震えた吐息が聞こえてきた。
『ごめんなさい……ごめんなさい……』
「美春か?」
電話越しの声は、僕の声を聞いてから、捻り出すように泣きだした。
「大丈夫か?」
『話しちゃったの、私が貴方から聞いた事全部……。ごめんなさい……』
一般人が拷問を受ければ……そうなるだろうな。
「……その事はいい。必ず助けるから」
『……うん』
美春の声は今にも消えそうなくらい、か細かった。
彼女との会話はここまでで、再び濁声の男と入れ替わった。
『お前ってそんな奴なの? 思ってたのとチガーウ』
「何が望みなんだ?」
『実を言うとオイラ、ノープランなのよ』
……オイラ?
『そーだな……年末の三十一日、指定の住所をFAXで送るから、そこにへっぽこ探偵も連れて来い。お前とじっくり話をしてみたい。警察に言ってもいいけど、その場合はこの女を殺してトンズラするから。オイラ、鼻は利くんで、そこんとこヨロシク』
「……待て、切るな。お前が僕に何かしらの恨みを抱いているのはわかった。だが、お前が何者かわからなければ、何を話していいのかわからない」
『言う訳ねぇだろタコスケ。相方のへっぽこ探偵にでも考えてもらえ。もう一度言うが、警察に言うか言わないかは、お前らの自由だ。お前と話す機会は、女を殺した後でもつくれるしな。女をまだ生かしてるのは、面白そうだったからだ。他に理由なんてネェよ。じゃぁな、クソ野郎共』
通話が途切れた。
オイラという一人称、それに併せて耳に残る濁声。この二つの独特な特徴に全く覚えが無い。スパイとして活動していた時期に関わった人物の関係者だろうか。少なくとも、探偵の仕事を始めてから関係のあった人物ではない。何にせよ、当てが広すぎて的を絞れない。
誰なんだ?
美春をさらった男は何者なんだ?