122 スパイス
スパイとして活動するようになってから欧州を飛び回っていた。
仕事内容は海外企業の情報収集、もしくは国外にいるロシア政府に反抗する存在の抹殺だった。標的の妻、恋人、娘に近づいて恋仲になり情報を収集する。スパローが用いるハニ―トラップに近い方法で仕事をこなしていた。男で言う「ロミオ諜報員」と呼ばれる存在だった。
ロミオ諜報員としての活動にも独自な技術が入り、女性との経験が乏しかった僕は、スパイ養成学校卒業からSVRに所属するまでの数か月の間、スパローとして今後活動する同期のアネモネという女性と付き合っていた。声をかけたのはアネモネの方からで、ストレートにハニートラップを仕掛ける為の実践経験を積みたいと誘われた。その時は戸惑ったが、自分自身、性の経験や知識に乏しく、自分がハニートラップを仕掛けられるかもしれないという理由からも受ける事にした。
僕にとって初めての相手はアネモネだった。恋愛感情のない相手と交わり童貞を捨てたのだ。
僕はゲイなのだろうか。
ロミオ諜報員として活動している間、その事が頭から離れなかった。
かっこいい男性や筋肉質な男性が気になったり惹かれたりする事はあるが、付き合いたいとかセックスをしたいとは思わなかった。実際の所、性交する相手は女性ばかりで、男性とセックスする事はなかった。それでもゲイだと思うのは、女性に対しての好みは無く、どんな麗しい女性が相手でも、恋愛感情が湧かなかった事。むしろターゲットである男性を始末する作業の方が興奮した。女性とのセックスが前菜で、男性を脱がして死体を処理する方がメインディッシュになっていた。そういった部分に、ゲイであるという納得感があった。それと女性に執着しない事で仕事がスムーズに運ぶ事にゲイとしての利点を感じていた。……とはいえ、心の奥底に何か燻っているものも感じていた。
スパイとして活動して五年ほど、何人もの女性と寝ては、何人もの男性を殺してきた。ロシア政府に貢献し、表彰される事もあったが、この状況もゲイである事がわかれば、全て覆る事を理解していた。いくら政府に貢献しようが、ゲイだとわかれば、僕は全てを失ってしまうのだ。
ビヨンド兄さんはシェレメーチェ空港で働いているので、兄さんと会う事は多かった。仕事が忙しかった事、職業柄というのもあり、ママと会う事は無かっが、僕は兄さんを通してママの元にお金を入れていた。
そんなある時、それは突然訪れた。
二〇〇五年、初夏。
ここからは、当時の感情を交えて思い返そうと思う。
シェレメーチェ空港で兄さんと会った時の事だ。
普段なら疲れを見せながらも陽気に話しかけてくる兄さんが、その時は顔面蒼白で今にも吐きそうな表情をしていた。
「エーデル……これを見てくれ」
「……? どうしたんだよ、そんな重々しい表情をして」
僕は何気なく、渡された写真を見た。
その写真には、額に穴の開いた女性が写っていた。じっくりとよく見たら、安らかな表情で死んでいるママだった。写真に映っていた女性はママの遺体だった。