118 新設家族
彼女の子として生きていく事になった僕は、ボサボサだった髪を切られ、風呂場で水浴びをさせられた。よほど汚かったのだろう。それからはこの家でママの帰りを待ち、帰って来た時には一緒に食事をするようになった。
彼女は文字や言葉を教えてくれた。単語を一つ一つ読み上げたり、手本にペンで文字を書いてくれたりもした。その時に「私の字は下手だから、そこは真似しないでね」と付け加えていた。この二人だけの生活はわずか一か月の間だけなのだが、体感、とても濃い期間だった。食事中などの他愛のない会話が心地良かった。
「ねぇエーデル、一緒に映画を見ない?」
彼女は映画を見るのが趣味だった。この家にはテレビとビデオテープレコーダーがあった。日本製の高価な電化製品で、このボロボロの家には似つかわしくない家電製品だった。当時のソ連において、三十代半ば、一人暮らしの女性が手に入れるには難しい品だ。当時の僕は彼女の収入源に疑問を抱いていなかった。
彼女と一緒に見た映画は「サウンド・オブ・ミュージック」。様々な有名楽曲が散りばめられたミュージカル映画だ。作中に流れた音楽は今でも耳に残っていて、特に印象に残っている曲は「エーデルワイス」。彼女曰く、この曲から僕の名前を取ったのだという。そしてそういう名前の花がある事も知った。幼少期に得た知識の大半は映画からだった。
「いいわよねぇ、映画のスターは輝いていて。私も華やかな女優さんになりたかったなぁ」
「はぁ、そうですか」
僕はつまらない大人みたいな声を出していた。
でも彼女は僕の反応など気にしなかった。
「ねぇ、エーデルは夢とかないの?」
「別に」
「そう、それでもいいんじゃない? うふふ」
反応が軽い。彼女は不思議な人だった。
僕は映画に無関心なふりをしたが、確実に彼女の影響を受けて、映画好きになっていた。
そして一か月が経った。
「ねぇ、エーデル、この家とは別の家に行くわよ」
「えっ、テレビは?」
「別の家にもあるから。この家は私の隠れ家の一つ」
僕は隠れ家という言葉に引っかかりを覚えながらも、そのまま話を聞いた。
「エーデル、向こうの家にはエーデルのお兄さんがいるわよ」
「お兄さん?」
「勿論、血の繋がりは無いわよ。私ともね。うふふ」
ソ連国内において、海外はおろか国内もパスポート無しでは自由に行き来する事が出来なかった。本来パスポートを持たない僕は交通機関を利用出来ないのだが、彼女に渡されたパスポートを見せるだけで何事もなく交通機関を利用出来た。
着いた家はマンションタイプの住宅で、今までいた木造建築とは比べ物にならないほど巨大な建築物だった。彼女に連れられ目的の部屋に行くと、十代半ばの男子が僕達を出迎えた。
「ママお帰りなさい……ん? 隣の子は?」
「あはぁん、拾って来ちゃったぁ。……どう? 将来はダンディになりそうしょ」
「あ、うん、そうだね」
十代半ばの彼は、彼女の扱いに慣れていた。
「君、名前は何て言うの?」
「エーデル・スターリンです」
「エーデル、良い名前だね。俺の名前はビヨンド、これからよろしくな」
彼と出会ってからは、彼と過ごす事が多くなった。兄さんは本を読んでいる事が多く、ノートに文字を書いたり、筋トレをしていたりしていた。特にやることのなかった僕は、兄さんのやる事なす事を真似た。掃除や洗濯、何から何まで。家での兄さんは何でもそつなくこなしていた。そして僕に対してそっけなかった。必要最低限の事しか話しかけてこないので、僕も必要最低限の事しか言わなかった。会話は少なかったが、少しずつ理解していった。ビヨンド兄さんも身寄りのない子供だという事を。
三か月が過ぎた頃、僕は兄さんと一緒にビデオで映画を見た。タイトルは「オズの魔法使い」だ。
「魔法が使えたら便利だよなぁ」
兄さんが画面に向かって呟いた。
「うん、そうだね」
「ほんとにそう思ってる?」
兄さんは僕の方を向いた。
「多分」
僕の反応が薄いせいか、兄さんはビデオを停止した。
「……わかった。ママがお前を連れてきた理由。お前なら大丈夫そうだ」
「どういう意味ですか? ダンディと関係があるんですか?」
「まぁ……見た目もあるだろうけど、いずれわかるよ」
意味深な発言だったが、あの時は何の疑問も抱かなかった。
それよりも「オズの魔法使い」の続きを見たかった僕は、「ビヨンド兄さん、オズの魔法使いの続きを見ようよ」とせがんだ。そのまま続けて満面の笑顔もつくる。
「こ、こわ。でも笑った方がいいよ。笑顔の方がいい」
その後小声で「続けばいいけど……」と、兄さんは苦笑いを浮かべていた。
数日後、兄さんから、ママの「掃除」の手伝いに行くように言われた。僕は何気なく「ビヨンド兄さんは行かないの?」と聞いたら、兄さんは「俺はいい」とそっけない態度だった。
僕は部屋を綺麗にする気満々で、指定の場所まで向かった。