111 タカの目
「待って!」
男は声のする方を向いた。
男の視線の先にいたのはヴィーナだった。
「それに乗ってはダメ! ソフィア聞こえる? 操作はしないで!」
『でも……』
操作室にいるソフィアの声は小さい。
さっきまで納得していた様子の姉が何故来たのか。その理由を本人が一番よくわかっていたからだ。
「この装置はタイムマシンじゃなくてコールドスリープマシンでしょ? 人間が過去に戻る為のタイムマシンはまだ完成してないのよね!」
「……えっ」
男はここにきて初めて戸惑いを見せた。
生物を過去に転送する為のタイムマシンはまだ完成していなかった。男をスムーズにコールドスリープ化させるためにアメリカ本社内で計画された「嘘」だった。
要は商品価値のなくなった男の破棄処分である。
「……ゆきひとさん。これに乗ったら貴方は眠らされて永遠に夢を見せられるのよ。だから入ってはダメ」
「……」
今更そんな事を言われても。
男の表情を代弁するとそんな感じだ。
感情の戻らない男にヴィーナは焦ったが、精一杯の力で男の手を引っ張った。
『お姉ちゃん! ここからゆきひとを連れ出してどうする気なのよ! 生きてるけど死んでるじゃない!』
「ギフティの指示なの? それなら私が責任を取ると伝えて頂戴!」
『待って! ギフティに逆らったらどうなるのか、お姉ちゃんだってわかってるでしょ!?』
姉妹の言い合いが行われている最中、部屋の外にいたクレイが顔を出した。
「社長。一旦ゆきひとは最初に眠らせていた場所に待機させましょう」
「ありがとうクレイ」
クレイは男を見て一瞬顔を歪めたが、そのままヴィーナに加勢し、男を部屋の外に連れ出した。
結果、男は元の時代に帰れず、始まりの場所に待機という形となった。
円形の部屋。パステルカラーで纏められた目に優しい部屋。
ツバメや天使の人形が一年前と変わらずにぶら下がっている。
男はベットの上で大の字になっていた。時間経過はわからず(ナノマシンのネットワークはロックされている)、知りたいとも思っていない。気力が湧かない。もはや生きたいとすら思っていない。たまに目を開ければ、ツバメと天使の人形が見えた。天使の人形は何も知らない無邪気な子供のようで煩わさを感じ、ツバメは空高く自由に飛び回っているようで羨ましく思えた。
数日が経ち、ヴィーナとソフィアが円形の部屋に入って来た。クレイが最後に入室して扉を閉める。
ヴィーナは神妙な面持ちで椅子に座った。
「ゆきひとさん……大事な話があるのでこっちに来てくれませんか?」
男は怠そうにヴィーナの向かいの椅子に座った。
「私は社長職を退任することになりました」
「……?」
男は驚いた様子でヴィーナを見た。
「ゆきひとさんをコールドスリープマシンから連れ出した時の映像が社外に流失しました。ネットニュースや週刊誌には、貴方と私が一緒に逃げようとした……という内容で書かれています。今社内は大混乱です」
「俺の……俺のせいなのか?」
「それは違います。ゆきひとさんと結婚生活を続けたいと思ったのは私も同じです。結婚を決めた時からこういう事態になるのではないかと思っていました……」
「……ヴィーナは悪くないじゃないか」
「本来であればゆきひとさんと会うのは許されません。アメリカ本社の方からは、貴方と今後一切会わない代わりに最後の挨拶の許可を頂きました」
「……最後?」
「その前に頼み事があるんです。渋谷郊外まで行かないといけないのですが……ラストグリーンという病院に、第二回メンズ・オークションに出場された男性がいます。その人は私達のせいで精神を病んでしまった。彼を救えるのはゆきひとさんしかいないんです。その人はきっと貴方の力になってくれる」
「何で、何で俺が……! 今俺が心配なのはヴィーナのことだよ」
ヴィーナは男を胸いっぱいに抱きしめた。
「……私は酷い女です。今の貴方に人を救えと言っている。でも……もう会えないから」
「何だよ……ヴィーナにそんなことを言われたら断れないじゃないか」
「ありがとう。貴方が私を憎んでも……私は貴方に感謝している。たくさんの勇気を貰えた」
「ヴィーナ……」
「ゆきひとさん……。貴方に会えて本当に良かった」
ヴィーナはゆっくりと男から離れた。
クレイはスマホで連絡を受ける。
「社長。辞任会見の準備が整いました」
「ありがとう。もう元社長になっちゃうわね」
ヴィーナは寂しそうに微笑んだ。
「……お姉ちゃん」
「ソフィアどうしたの……?」
「……会見頑張って。私が次の社長とか嫌だけど……私も頑張る」
「貴女なら出来るわよソフィア」
ヴィーナは男との別れを名残惜しそうにしながら部屋を出た。
クレイは男をチラ見しただけで声をかけず、ヴィーナの後に続いた。
円形の部屋にソフィアと男だけが残された。