110 白鳥の底なし沼
四月に入って、ソフィアの元にある一通のメールが届いた。第三回メンズ・オークションの商品だった男を過去に転送するのは可能かどうかという内容のものだった。男本人が元の時代に帰りたいと言っているらしい。このメールが届く数日前に、ソフィアは物質だけではなく生物も転送可能なタイムマシンを完成させたという報告書を自社に提出していた。それもあって流れるような早さで男の帰還日程が決まった。
ソフィアは日本SWH本社ビルの玄関口で、姉のヴィーナと男の到着を待った。
予定時刻から少し遅れて、ヴィーナの運転する車が到着。
ヴィーナが運転席から降りた後に、商品だった男が後部座席から出てきた。
ソフィアは男の容姿を見てギョッとした。髪はボサボサで髭を生え散らかし服も着崩れている。一か月前の爽やかな容姿は見る影もなく廃人の様になっていた。
「……ゆきひと?」
男は返事をしない。
ソフィアは男の様子が気になったが、ヴィーナの方を向いた。
「お姉ちゃん……後は私がやるから」
「ソフィア……ありがとう」
ソフィアはヴィーナに詳しい事情を聞かなかった。
聞かなくても大体の予想は付いていた。
ソフィアは男の手首を掴み、SWHビルの中に入っていく。
特殊ガラスに覆われたエレベーターに乗り込むソフィアと男。
ソフィアはエレベーターの操作画面に社員番号を入力し、地下への項目をタッチした。SWHビルの地下は一部の社員しか入ることを許されていない。二人は地下深くまで降りてゆく。
研究施設のような内装は、SFのディストピアを思わせるような構造をしていた。地下エレベーターの周囲は吹き抜けで底が暗くなっている。位置的には地下なのだが高所恐怖症の人間にとっては辛い空間だ。地下十階で止まり、ソフィアと男は鉄筋の足場を進んで細い通路に入っていった。
ソフィアは男の顔色を伺った。驚くような様子もなく虚ろな目をしている。大きな犬を連れていると思えば気も紛れるが、ソフィアは何だか居た堪れない気持ちになっていた。
マシンルームに着いた。その部屋は入って正面奥にマシンの設置された小部屋と右側に操作室といった構造で二部屋の間は特殊ガラスで隔てられていた。マシンのある小部屋は、人一人が横になれるスペースがあり、体の大きな人間が入っても問題ないほどの幅があった。
「中で横になって。私は隣の部屋で操作しないといけない」
ソフィアが男にかける声は優しかった。
男は無表情で小部屋のマシンを見る。このまま横になってしまったら終焉を迎えてしまいそうな雰囲気があった。アドベンチャーゲームで外れを引いた瞬間に訪れる死の匂い。この場所の印象を例えるなら、その状況が限りなく近い。
ソフィアは男が定位置につくのを待った。
男は小部屋の入口に手をかけた。