108 飛べなかった鳥
「……ごめん……怒鳴りたかった訳じゃないんだ。許してほしい……」
「何でゆきひとさんが謝るんですか? 悪いのは私です」
「……」
「……」
会話が止まった。
幸せな空間はなくなり、冷たい空気がじんわりと広がってゆく。
ヴィーナは下を向いている。
怒鳴られた事で怯えている様子はない。
地蔵のように固まり動かないのだ。
その表情からは思考がまるで読み取れない。
男は困り果てた。
「俺はどうしたらいい? まだ足りないのか? もっと魅力的な男になったら振り向いてくれるのか?」
「違うの……違うのよ……」
「……?」
「私が貴方に相応しくない」
女の発言は男を更に混乱させた。女は代表取締役社長で、男はその会社の商品。立場的に釣り合わないのは男の方だ。
「何で……俺は気にしないよ」
「貴方は私のいい面しか見ていない」
男が似たような事を言われるのは何度目だろうか。そんな事を言っても、話してくれなければわからない。教えてくれなければわからない。言葉で伝えてくれなければわからない。
男の不満は募るばかり。それでも良好な関係に持っていきたい……その一心で、男は自分の感情を押し殺した。
「だったら話してくれよ。俺達夫婦だろ?」
震えた声に軽い言葉。
夫婦という言葉に重みがない。
今までの結婚生活は本物ではなかった。
そして今回も一か月間限定の事実婚というイベントに過ぎない。
男の言葉に女の表情を変える力はなかった。
「今は言えない……」
女は寂しそうに言う。
男は悔しそうな顔をして歯を食いしばる。
「……少し走ってくる」
男はジャージに着替えて外に出る。
俯く女を残して。
説得は失敗に終わった。
「クソッ……クソッ……!」
男は夜道をがむしゃらに走った。
グチャグチャなった心を、胸を鷲掴みにして抑え込む。
走っても走っても走っても感情の淀みが体中をドス黒く蝕んでゆく。
今まで何をしていたのか。
何を学んできたのか。
何の為に頑張っていたのか。
何もかもわからなくなっている。
挫折をした事がない訳ではない。辛いことだって沢山あったはずなのに、失恋という弾丸一つで心が打ち砕かれてしまった。
疲れ果てた男は、神田川沿いの道路に倒れ込む。
誰もいない。虫の声もしない。
電灯が辺りを不気味な光で照らしている。
男は倒れながら冷たいコンクリートを何度も叩く。本当は叫びたかった。でも大声は出せなかった。そっちの力は不思議と湧いてこなかった。
何故説得が通じると思ったのか。
先月失恋でボロボロになった人間を見たばかりだと言うのに。
そのボロボロになった人間と男は対立していた。一戦を交えた後に事情を知り和解出来た。それが今では二人揃って奈落の底に落ちてしまっている。
どうしようもない。
それに加えて嫌っていた母親と似たような状況に陥っている。
形振り構わず異性を追っかけて愛に溺れてしまっている。
どうしようもない。
「……ははっ」
笑える。
この状況で可笑しさが込み上げる。
女はLLLの幹部達と姉妹であることを隠していた。
そしてまだ何か言えないことがある。
男は女とそれなりに強い絆を結べたと思っていた。
お互いに想っていれば言えるはずだ。
言えないのは信頼されていないからなのか。
男は考えようとしたが、思考のヘドロが重くて動かない。
もうどうにでもなればいい。
残った感情はそれだけだった。