107 ちどりあし
静かな夜だ。
家内の二人はいつも静かだった。
言葉を交わさなくても幸せを感じている。
それでも言葉を交わさなければならない。
このままでは、繋がりが途絶えてしまうから。
男はグリーンのカーテンを閉める。誰に見られているという訳ではないが、小さい事も気になってしまうのだ。蛍光灯の光は室内だけを反射して収まってゆく。
食事を終えた二人は食器を洗い片付ける。
男は手を拭いている女を見た。
「ちょっと話さないか? 今後のことについて」
「はい。わかりました」
女の表情は明るい。少し無理をして笑顔をつくっているようにも見えるが、男にとっては説得が通じそうな笑顔に見えていた。
男と女はリビングのソファに座る。
相向かいになるが、男は女と目を合わせる事が出来ない。
「その……何て言うか、俺は今だけじゃなくて、これからもヴィーナと結婚生活を続けたい」
「……」
女は返答に困っている。
「ヴィーナの立場上難しいのはわかってる。でも俺はこれから先、別の相手との結婚は考えられないよ」
「そう……ですか」
反応が鈍い。
男にとっては予想の範囲内だが、心にくるものがある。
「俺はヴィーナのことが好きだ。ヴィーナは違うのか?」
「私もゆきひとさんのことは好きです」
「……だったら」
「でも結婚生活は今月いっぱいで終わりです」
「……妹さんに言われたからか?」
「いえ……いやそれも理由の一つですが、これ以上私達が結婚生活を続けたら、会社の不利益になります。今はまだ他の結婚相手より、期間も同じか短いので大丈夫ですが」
「何で俺達が結婚生活を続けたらダメなんだ? ……ダニエル夫妻は結婚生活を続けてるじゃないか」
「ダニエルさんは入札者との結婚ですから問題はないです。私は運営サイドなので、お客様からのクレームにつながります」
「……そんなのどうでもいい」
「えっ?」
「俺はヴィーナの本心を知りたい。そういうことがなかったら、俺と一緒になってくれるのかどうか」
「それは……」
女はまた困った表情を浮かべる。
男自身も困らせているのはわかっていた。
でもこれから先、話す機会があるのかどうかわからない。何よりまたこの話をするのは、男にとってしんどかった。今決着をつけなければならない。
男は焦っていた。
「わかりました……本心を言います。私も結婚生活を続けたいです。でも……それは無理です」
「……」
「私には部下がいます。貴方との結婚生活を続けて同じ女性に支持されなくなったら仕事に影響が出ます。同性に嫌われる訳にはいきません。そして確執のある姉妹がいます。彼女達を今放っておく訳にはいきません。仕事や仲間や家族……そして過去を捨てて貴方と一緒になることは出来ない。そんなことをしたら私は一生後悔します……」
男の体がぐらつく。言葉は理解出来たが何を言ったのか一瞬わからなくなっていた。……というより、男は女の言葉を理解したくなかった。
数秒の放心状態。それが過ぎると体の奥底から込み上げてくるものがあり、男の中で何かが弾けた。
「俺には……! 仕事も、家族も、過去も、何にもないよ! 勝手に連れてきて、俺から全てを奪ったのはアンタ達だろっ!!」
男は今までの全てを否定した。
経験を否定し、思い出を否定し、繋がりを否定した。
本当は得たものもたくさんあった。
半分は嘘で半分は本当だ。
こうなったのは女のせいだと言って、事態を好転させようとした。
最低だ。
最低なのは言った本人にもわかっている。
それほどまでに女を欲していた。
男は息を切らしながら口を押える。
怒鳴ってしまった事による自己嫌悪に襲われていた。