106 おしどり 『☆』
5 オレンジ色の空にもがれた翼
どれだけこの日を待ちわびていたのだろうか。
何時の間にか恋をしていた。
表情が気になり、視線が気になり、仕草の一つ一つが気になる。
想い人に心も思考も奪われた。
その苦しみすら甘く感じるほどに恋い焦がれた。
もう止まれない。
止まれないのだ。
三月の東京は涼しかった。
ゆきひととヴィーナの為だけに用意された家は二階建ての一軒家。家具家電完備で生活に不自由はないが、遠い未来の設備といったようなものはなく、リビングダイニングはアットホームな空間が広がっていた。
ゆきひとは閉めらていたグリーンのカーテンを勢いよく開いた。一面芝生で所々に木が植えられている。塀は高く、中から外の様子は見えず、外から中の様子は見えないようになっていた。
ヴィーナは冷蔵庫を開いていた。乳製品や野菜などの食材が入っている。
女は「何か食べたいものはありますか?」と、外の様子を見ていた男に言葉を投げかける。男は「ヴィーナの作るものなら何でもいい」と返した。
じゃがいも、人参、玉ねぎを切る音がする。
グツグツとした音がする。
いい匂いがする。
男は女の様子を見る。エプロン姿からでもふくよかなラインがわかり、それでいて品がある。オレンジベージュの長い髪は結わえていて、そこから垣間見えるうなじは妙に色っぽい。後ろから抱きしめたくなるような色気がある。
暖かい。
家庭的な雰囲気だからか。
それとも胸の高鳴りを感じるからか。
ヴィーナの魅せる雰囲気がとても落ち着くのだ。
ソファに挟まれた低めのテーブルに、肉じゃがと味噌汁とご飯が二人分。定番料理だ。二人で席に着いて「いただきます」と一言。
ゆきひとは箸をはこぶ。じゃがいもはホクホクで、玉ねぎと人参はやわらかい。豚肉はジューシー。思わず「うまっ」と声を出す。
ヴィーナは「よかった」とにこやかに笑う。
それからの食事は静かだった。
男はもくもくと食べる。
女はゆっくりと食べる。
お互いに口数は少ない。
それでも二人だけの時間が、男にとって至福の時だった。
寝室は別々にした。
それはゆきひとの提案だった。一緒の部屋に寝てしまったら、自分が何をしてしまうかわからないと思ったのだ。
男は二階のベットで一人羽毛布団に包まって眠りにつこうとしている。
だが眠れない。
興奮して眠れない。
今までの出会いから全ての記憶が蘇る。
最初に目覚めて目が合った瞬間。
メンズ・オークションの演技終了後にタオルで体を拭いてもらった時間。
京都の街並みを浴衣を着て歩いた空間。
真夜中の公園でブランコに乗りながら話した一時。
そしてまだ体験してない事までが、次々と思い浮かぶ。
もうどうにかなりそうだと、男は布団を強く抱きしめながら眠りについた。
日が変わり二人は外に出かけた。ボディガードのクレイや世話役のセラはいない。その代わりに外出の移動時は光学迷彩を使い(SWH社の人間や商業施設の従業員には見えるように設定している)移動した。
ゆきひとはヴィーナの手を引いて歩く。ショッピングもランチも、時間があればゆきひとはヴィーナの手を握った。
ヴィーナは嫌がる様子もなく握り返す。ヴィーナ自身、この時間がとても落ち着いた。ほぼ無休で働いていた彼女は、貯め込んだ有給をこの結婚生活期間に使い、疲れた心と体を発散していた。
二人の時間を楽しいものにしたい。
それはゆきひととヴィーナの共通の願いだった。
毎日デートを繰り返す。
映画館でホラー映画を見たり、遊園地のジェットコースターに乗ったり、水族館で海洋生物を見たり、水上バスで夕焼け空を眺めたり。全てがキラキラ輝いた。
男は女に年齢を聞いた。
女は二十七と答えた。男よりも一歳年上だった。
男は誕生日を聞いた。
女は九月十二日のおとめ座だと答えた。
男は好きな食べ物を聞いた。
女は苺のタルトケーキが好きだと言った。
男はお互いに呼び捨てで呼ばないかと尋ねた。
女は自分のことを呼び捨てにするのは構わないが、自分は男を呼び捨てにしないと頑なだった。
女は笑顔を絶やさない。
男はそんな彼女を見るのが幸せだった。この時間が永遠に続けばいいと、心の底から願っていた。
幸せな時間はあっという間に過ぎてしまう。
結婚生活の半分の期間である二週間が過ぎてしまった。
男はこの結婚生活を終わりにしたくなかった。その為にはヴィーナを説得しなければならない。この光で満ちた生活に影響が出るのは嫌だったが、話し合いを避けては通れないのだ。
男は意を決した。