104 天燈は放たれて
二八二六年二月二十五日。
タイ・バンコクで地上最後の男性と言われていたバスタードの葬式が盛大に行われた。会場はワット・アルン。世界各国の著名人も集まり、その中にはフランス王室のフリージオやSWHのヴィーナも含まれていた。参列は長蛇の列。ワット・アルン中央の大広間から寺院をぐるりと人の列が途切れずに続いていた。それぞれが遺体の収められた巨大な棺に花を添えて行く。一輪、そして一輪。
ゆきひとも棺の中に静かに花を置く。バスタードと面識はないが、全くの他人という感じもしなかった。共通点は性別が同じぐらい。それだけの事だが、今のゆきひとにとって心境をより複雑なものにする要因となってしまっていた。
夕方になると寺院の前に様々な国籍や人種の人々が分け隔てなく集まって来る。喪主であるクレイは、ワット・アルンの中から出てきて、堂々と挨拶をした後、参列者に対して感謝の言葉を口にした。
そして空の群青が色濃くなる頃に天燈上げの準備が始まった。数えきれない天燈が地上から空へと流されるのだ。クレイが小さめの天燈を上げてから、次々にオレンジ色の灯が放たれた。夜空に魂の息吹が舞い上がって最後の輝きを散らしているような、一言では言い表せない、それはそれはとても幻想的な光景だった。
数日後の昼。
ゆきひとはクレイの実家にいた。二階のデッキに上がり、ぼんやりと空を見ている。雲一つ無い空。吸い込まれそうな空。ずっと眺めていると、いっそ何処かに飛んで行きたくなってしまうような空だった。
ヴィーナは上の空状態のゆきひとを心配して声をかけた。
「ゆきひとさん……。具合、大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃない」
「そ、それは大変です」
「……撮影で俺が言ったこと覚えてる?」
「……はい」
「返事を聞かせてくれないか?」
「他の方と同じように、一か月間の結婚生活なら……」
「それはいいっ、てことか?」
男の確認の言葉に力が入る。
「ただ……母から連絡があったのですが、一度家族で集まって話をするということになったんです。母とソフィアとギフティと私を含めた四人。……そして、そこにゆきひとさんも参加してほしいと……。日程は二月二十八日。場所は日本SWH本社ビルの客間で行います」
「そっか……わかった」
一つ不可解なのは、ソフィアとの結婚は簡単に決まったのに対し、ヴィーナとの結婚は家族で話し合う必要があるという点。部長のソフィアと代表取締役のヴィーナとでは立場が違うのかもしれないが、この婚約に対して不満を持っている人間がいると、そう予感させる返答だった。
だが結婚の話は確実に前進している。今は一か月間だけでも、認めてもらわなければ先はない。戦々恐々とするような相手でも、男はもう怯まなかった。
恋は盲目。
ゆきひとにとっても例外ではなかった。